海外文学読書録

書評と感想

フェルディナント・フォン・シーラッハ『罪悪』(2010)

★★★★

連作短編集。「ふるさと祭り」、「遺伝子」、「イルミナティ」、「子どもたち」、「解剖学」、「間男」、「アタッシュケース」、「欲求」、「雪」、「鍵」、「寂しさ」、「司法当局」、「精算」、「家族」、「秘密」の15編。

「人を殺したことはあるか?」男はアトリスとフランクにたずねた。

フランクは首を横に振った。

チェチェン人はポテトチップスと同じだ」ロシア人はいった。

「えっ?」フランクはわけがわからなかった。

「ポテトチップスだよ。チェチェン人は、袋入りのポテトチップスと同じなんだ」

「よくわかんないんだけど」フランクはいった。

「奴らを殺しだすと、やめられなくなるんだ。全員殺すまでな。全員を殺すしかねえ。ひとり残らずだ」ロシア人は笑った。そして突然、真顔になって、指の欠けている自分の手を見つめた。(pp.129-130)

『犯罪』と同様、弁護士を語り手にした犯罪実録風の連作だけど、淡々とした叙述がまるでハードボイルド小説みたいで、静かな迫力をたたえている。この文体はちょっと癖になるかもしれない。

以下、各短編について。

「ふるさと祭り」。夏祭りの最中、17歳の娘が楽団員たちにレイプされる。被疑者は8人いて、そのうちの誰か1人が事件を通報していた。弁護士とは因果な商売で、明らかに犯罪者と分かっていても、そして裁かれるべきだと分かっていても、そちら側の利益に尽くすしかない。軍隊では初めて人を殺したときに「童貞を失った」と表現するけれど、新人弁護士である「私」はこの事件で童貞を失った。もう純潔ではないのだ。

「遺伝子」。カップルが過剰防衛で人を殺すも証拠不十分で釈放、その後結婚してまっとうな社会生活を送る。ところが、科学の進歩によって事件が暴かれるのだった。2人の決断には驚いたけれど、それ以上にラスト一文が意表を突いていてなかなかインパクトがあった。そういう理由で自宅を避けたのか、みたいな。

イルミナティ」。私立の寄宿学校に入学したヘンリーが、ある罪悪を犯したことで生徒たちに首を吊られることに……。こういう秘密結社の儀式はいかにもヨーロッパという感じでけっこう好きだったりする。寄宿学校も同様。当初はヘンリーが殺されるのかと思ったら、そこはちょっと捻ってあった。ヨーロッパの歴史と文化に根ざした文芸風の短編。

「子どもたち」。小学校の女教師と結婚した男が、ある日突然逮捕される。容疑は24件の児童虐待で、被害者は女教師の生徒だった。終盤のどんでん返しはわりとありがちだけど、しかしまあ、けっこうショッキングだったのは確か。振り返ってみると、何でこの受難を避けられなかったのかと思う。本作を読んで足利事件を思い出した。

「解剖学」。男が女を拉致して解剖しようとするが……。運命の一撃ってやつかな、これは。弁護士の「私」が意外な理由でひょっこり顔を出すところがまたいい。

「間男」。社会的地位の高い中年夫婦の性的逸脱。そこから夫が男を灰皿で殴りつけて瀕死の重傷を負わせる。こんなことがあっても夫婦関係が崩れないのがすごいよなあ。性的逸脱をしたのは「中年の危機」のせいかと思ったけど、そんな単純なものでもないみたい。本作はドイツ刑法の解説もあってなかなかお得だった。

アタッシュケース」。婦警がポーランド人の車を検査すると、アタッシュケースのなかから死体の写真が出てきた。警察はポーランド人を勾留して事情を聞く。すごい奇妙な状況でぐいぐい引っ張られた。やっぱ謎がある物語は好奇心をそそられるね。ラストもけっこうなインパクト。思うに、高度に発達した犯罪小説はホラー小説と変わらないのかもしれない。

「欲求」。夫婦関係が冷めて万引きに手を染める妻。万引き依存症って日本でも少し前から話題になっていたけれど、同じことはドイツにもあるようだ。しかしまあ、家族に知られないまま元の鞘に収まるのって、本人にとってはいいことなのかな?

「雪」。麻薬密売の容疑で老人が逮捕される。黒幕が誰か自供するよう迫られるが、彼は黙秘をする。犯罪に手を染めるしかない社会の底辺を、温かく見つめるところが本作の魅力だろう。一方で、黒幕のハッサンは救いようがないのだけど。本作は著者らしい一風変わったクリスマスストーリーだった。

「鍵」。フランクとアトリスがロシア人から麻薬を買おうとするが、それがとんでもないトラブルに発展する。犯罪世界を舞台にした喜劇で面白かった。鍵を巡って二転三転するのだけど、これがまた理不尽極まりない。さらに、登場人物がやたらとキャラ立ちしていて笑える。ロシアの女って怖いなあ……。

「寂しさ」。14歳の少女が父親の友人に強姦されて妊娠、トイレで出産して赤ん坊を死なせてしまう。強姦による望まない妊娠はきつい。でも、こういうトラウマを抱えた人が、大人になってちゃんと子供を生み育てているところに救いがある。

「司法当局」。不具の中年男が人違いで逮捕される。「権利の上に眠る者は保護に値せず」という格言があるけれど、これって司法当局の怠慢じゃないかと思うんだよね。税金もらってるんだから自発的に動けよって感じ。

「精算」。夫のDVに10年間苦しめられてきた妻。ある日、夫が娘を自分の女にすると言い出した。妻は夫が寝ているときに彼を撲殺する。明らかに情状酌量の余地があるのだけど、法律上はそれが適用できない。じゃあどうするかと言ったときに、これを正当防衛にするのはアクロバティックだった。法律と人情の上手い妥協点。

「家族」。大学入学試験で好成績を修めたヴァラーだったが、まもなく父親が事故死する。彼は進学をやめて日本へ。とんとん拍子に出世して金持ちになる。父親違いの弟は犯罪者で、父親もナチス時代に強姦をしていた。当のヴァラーは若くして死んでしまう。こういうのを読むと、人生って何だろうなあって思う。

「秘密」。カルクマンと名乗る男が、自分は諜報機関に追われてると言ってきた。「私」は彼を精神病院に連れていく。オチがまるで落語みたいだった。掉尾を飾る短編がこんなんでいいのかと思ったけど、まあ、読後感がいいのでこれはこれでありかな。