海外文学読書録

書評と感想

アベ・プレヴォー『マノン・レスコー』(1731)

★★★

17歳で哲学の学業を終了したグリュウは、遊学先のアミアンマノン・レスコーという名の少女と出会う。マノンは修道院に送られるところだった。彼女に惚れたグリュウは一緒にパリへ駆け落ちする。一旦は連れ戻されるものの、1年後に再会して同棲。不貞や浪費に身を任せるマノンに対し、グリュウは金を稼ぐために賭博や詐欺に手を染める。

《すくなくともぼくには彼女がある》私は自分に言いきかせた。《彼女はぼくを愛している。彼女はぼくのものだ。チベルジュの言うのはうそだ。それは幸福の亡霊なんかじゃない。ぼくは全宇宙が崩壊するのを見ても、知らん顔をしていることだろう。なぜだって? 彼女以外のものなんてどうだっていいからだ》(p.154)

新潮文庫(青柳瑞穂訳)で読んだ。引用もそこから。

ファム・ファタールものの嚆矢らしい。さすがに今読むと賞味期限切れの感は否めなくて、文学史的な興味、あるいは歴史的な興味がない限りは読む必要はないと思う。まあ、入れ子構造による面倒な語りの形式をとっているところがレトロで良かったかな。こういうのは今読むとかえって新鮮に感じる。

「恋は盲目」を地で行くグリュウと、欲望に忠実で彼を振り回すマノン。本作は人間の愚かしさをこれでもかと描いていて、恋愛をシニカルに捉えているところが印象的だった。今も昔も、恋に夢中になると人間は馬鹿になる。特に男はその傾向が顕著で、惚れた女のためなら人殺しも厭わないところが恐ろしい。僕はここまで病的に誰かを好きになったことがないので、内心では彼を馬鹿にしつつも、どこか羨ましく思う部分もあってなかなか複雑である。思うに、昔の人がやたらと恋に入れ込んでいたのは、他にろくな娯楽がなかったからではないか? 今だったらアニメやゲームが恋の代用品として機能しているし、恋愛に対する社会的圧力も弱まっているから、昔とは事情が大きく異なっている。わざわざ1人の女を追いかける必要のない環境になっている。でも、相変わらず痴情のもつれによる刃傷沙汰は存在するから、我々はまだまだ解脱しきっていないと言えそうだ。果たして人類は今後、恋愛を超克することはできるのだろうか? ここから先はSFの領域で思考実験すべきなのかもしれない。

「裏切りは女のアクセサリーみたいなもんさ。いちいち気にしてちゃあ女を愛せるわけがないぜ」とルパン三世は言っているけれど、実際に裏切られたら滅茶苦茶腹が立つだろう。これを読んでいるあなた、自分の恋人が浮気しても許せますか? 大抵は別れ話にまで発展すると思うのだけど。それはともかく、本作のグリュウもマノンに何度か裏切られるものの、そのたびに彼女を許しているので、男としての器の大きさは認めるべきかもしれない。というか、単に相手に惚れすぎているだけなんだけど。

最後にマノンが死ぬところは、昔の小説のテンプレといった感じで期待通りだった。これぞ古典を読む醍醐味という気がする。それと、グリュウの親友チベルジュがいい人すぎた。この頃のフランスにはまだ騎士道精神が残っている。

ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』(1947)

★★★

有閑階級の青年コランは、パーティーでクロエという名の女性と出会ってデートする。やがて結婚した2人だったが、クロエが胸の病気に冒されるのだった。医者の検査によると、肺の中に睡蓮が生えているという。金に困ったコランは、治療費を稼ぐために働きに出る。

「あの人たち、どうしてわたしたちのことをあんなに軽蔑するの?」クロエが尋ねた。「働くのは、そんなに立派なことかしら……」

「連中は、働くのは立派なことだといわれて働いているんだよ」コランはいった。「一般論としては、働くことは立派なことなんだ。でも実際にはだれもそうは思っていない。ただ習慣から、そんなことを考えなくてもすむように働いているだけさ」(p.133)

これは驚いた。最初はフランス文学とは思えないスタイリッシュな小説という印象だった。しかし、後半に入ってからえらくシュール場面が出てくるようになって、リアリズムの枠組みを逸脱してくる。思えば、そういう兆候は前半から既にあった。コランの家のハツカネズミが人間みたいな振る舞いをしていたり、コランがスケート靴で見知らぬ青年のあごを殴りつけて殺害したり……。そのときは誇張した表現だろうと思っていたが、まさかその表現がエスカレートしていくとは予想外だった。ここまで書いておいて何だけど、本作は予備知識なしで読んだほうがいいと思う。裏表紙の紹介文にある「ラブストーリー」という文言は完全なミスリーディングで、本作の読みどころはそんな部分にはない。編集部はネタバレを回避すべく気を使ってそう書いたのだろう。『グレート・ギャツビー』【Amazon】かと思って読んでいたら『第三の警官』だった、くらいの落差がある。

労働というのが本作では重要な位置を占めていて、有閑階級のコランは当初、上から目線で幼稚な正論を述べている(133-135ページを参照)。個人的にはこの部分、大筋では賛同できるものの、経済ってそう単純じゃないよねというか、現代人の視点から言えば、いくら技術が発展しても世界から労働はなくならないという絶望感がある。たとえば、今は当時よりも産業の機械化は進んでいるし、将来はAIの発達によって人が携わる領域も減っていくとされているけれど、そうなってもただその分野の雇用が減るだけで、社会から労働そのものはなくならない。需要と供給の原則に従って、別の分野に労働力が移動するだけである。それに経済を回すというのが資本主義社会における正義だから、本格的に仕事がなくなっても、本作に出てくるような意味不明な仕事――服を脱いで土の上に寝そべって武器を育てる仕事――を無理やり作ってそれに従事させられるだけである。コランの言っていることは理想的だ。しかし、おそらく労働から解放された社会が来ることは未来永劫ない。本作を読んで、この世が地獄であることを改めて痛感した。

E・M・フォースター『インドへの道』(1924)

★★★

インドの町チャンドラポア。イスラム教徒のインド人アジズは、医師としてイギリス人大佐の元で働いていた。大佐はインド人を見下してアジズを冷たくあしらっている。一方、官立大学の学長フィールディングやインドに来たばかりのミス・クウェステッドはアジズにやさしかった。やがてアジズは彼らと洞窟へ遠足に行くも、そこで逮捕されてしまう。

クラブからの帰りに回教寺院(モスク)のそばを通ったとき、フィールディングはこう思った――「これはよくない。砂上の楼閣だ。この国が近代化すればするほど、崩潰は激しいものになるだろう。残虐と不正が荒れ狂ったあの十八世紀においては、目に見えないある力が、その残虐と不正が生みだした惨害の跡を修理した。ところが今ではあらゆるものが反響(エコー)を呼び起す。そしてわれわれはその反響を止める手段を持たない。最初の音は無害であるかもしれないが、その反響はつねに有害である」(pp.452-3)

ちくま文庫で呼んだ。引用もそこから。

植民地時代のインドにおいて、イギリス人とインド人の友情は可能かどうかを模索した小説。イギリス人とインド人は支配者と被支配者、キリスト教*1イスラム教徒*2、白人と黒人*3という3つの対立軸があるのだけど、フィールディングとアジズはそれらを乗り越えて友情の可能性を示している。この時代、インド人と対等に話すイギリス人は変わり者とされているうえ、両者の間で問題が起きたときにインド人の味方をすると、イギリス人仲間からバッシングされるくらい断絶がある。また、一口にインド人と言っても、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒シーク教徒、パーシー教徒、ジャイナ教徒などと多様ではあるが、少なくともアジズのように教育を受けた層となら友情を結ぶことは可能のようである。一方のアジズは、自分が最上のイギリス人と目していたミス・クウェステッドとは大きな齟齬が生じてしまうものの、総じてフィールディングとは上手くいっているので、まずは支配者が被支配者に歩み寄ることが何より重要なのだろう。実のところ、フィールディングはあまりに理想的というか、こんなイギリス人本当にいるのかよとは思った。けれども、戦間期に彼のような人物を主軸に据えたところが本作のすごいところで、終盤でアジズがナショナリズムに目覚めてインド独立を訴える場面と合わせて考えると、作者には先見の明があると言えそうである。ポストコロニアルを経た現代人が読んでも違和感なく読めるところは褒めるべきかもしれない。

それにしても、アジズが巻き込まれる冤罪事件のくだりを読んで、日本の男性読者は痴漢冤罪を連想してぞっとしたのではなかろうか。確たる証拠がなくても、被害者の証言だけで逮捕されて裁判にまで持っていかれる。「この人痴漢です」のひとことで、破滅のエスカレーターに乗せられてしまう。幸い本作のアジズは女が告発を取り下げて事なきを得たものの、現代の日本の司法では高確率で有罪にされてしまうので、世の中にある根本的な理不尽はまったく解消されていないのだった。

*1:ただし、フィールディングは無神論者。

*2:アジズの場合。

*3:正確には黄色人のはずだが、本文には黒人とある。

キルメン・ウリベ『ムシェ 小さな英雄の物語』(2012)

★★★

1937年。ベルギーの文学青年ロベール・ムシュの一家が、スペイン内戦下のバスクから疎開してきた少女カルメンチュを引き取る。ロベールは高校を卒業後、経済的な理由から大学には進学せず銀行に勤めていた。第二次世界大戦が勃発して間もなく、カルメンチュはバスクに帰還、ロベールは結婚して娘カルメンをもうける。レジスタンス活動に従事したロベールは、ナチスに捕まって強制収容所に送られるのだった。

「ロベール、世界を動かしているものは何だと思う?」と、あるときヘルマンが尋ねた。「ニーチェによれば、その隠れた力は権力だ。マルクスの考えでは経済。フロイトにとっては愛。誰が正しいと思う? 僕たちを生かしているのは何だ?」(p.32)

原書はバスク語で書かれている。

語り手が関係者に取材するというノンフィクション風の記述や、スペイン内戦が話の発端になっているところなど、読んでいて『サラミスの兵士たち』を思い出した。こういうのをオートフィクションと呼ぶらしいけど、スペイン圏ではこの手の小説が流行っているのだろうか。スランプに陥った作家が自らを再生するために、特定の人物を題材にして物を書くという点も共通している。同じスペイン圏のオートフィクションということで、『バートルビーと仲間たち』【Amazon】も本作の仲間と言えるかもしれない。こちらもスランプに陥った作家が語り手だった。

実在の人物であるロベールは教科書に載るような英雄ではないものの、愛と正義のために生きた市井の英雄であり、戦時中には彼みたいな人が大勢犠牲になったのだと思うと何だかやりきれなくなる。彼はあくまでナチスに抵抗した一般人であって、何らかの組織で指導的立場にあったわけではない。普通よりちょっと勇気があるというだけで、基本的には我々と同じ庶民である。時代が時代だけに、マルクス主義を信じているところが現代人とは決定的に異なっているけれど、それにしても戦時中の左派がやたらと格好いいのはどういうことなのか。僕なんかは怖くてレジスタンス活動なんてとても出来ないのに、彼らは平然とそういうのに従事して命を落としていく。平和時の左派がぱっとしないのとは対照的で、戦時中の彼らの行動には頭が下がる。

それにしても、敗戦が目に見えてるのに囚人を虐殺するナチスイカれている。合理的に考えれば、勝者に対して少しでも心証を良くしようと思って殺すのを控えるのが普通ではないか。それを証拠隠滅のために駆け込み的に殺しまくるのだから救いようがない。最近読んだ『慈しみの女神たち』でもそういう不合理な虐殺があったので、やはり戦争というのは完全に終わるまで気が抜けない。

ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(2011)

★★★★

視力が失われつつある男は、カルチャースクールで古典ギリシャ語を教えていた。一方、言葉が話せなくなった女は、失われた言葉を取り戻すべく彼の講座に通っている。女は16歳のときにも言葉を話せなくなったが、フランス語がきっかけで回復したことがあった。複雑な過去を持つ2人は、やがてふとしたことで接触する。

この世の美しいものたちを信じながらも美そのものを信じない人は、夢を見ている状態にあるはずだとプラトンは考え、そのことは誰に対しても論証によって説得可能だと考えました。彼の世界ではそのようにすべてのものが逆転します。つまり彼は、自分はむしろすべての夢から覚醒した状態にあると信じていたのです。現実の中にある美しいものを信じる代わりに、美そのものだけを――現実には存在しえない絶対的な美しさだけを――信じている自分を。(pp.109-10)

散文と詩的言語が程よく混じり合っていてとても気持ちよく読めた。これは訳者を褒めるしかないって感じ。最初は視力を失いつつある男とボルヘスを重ねるのはベタすぎるのではないかと思ったけど、読んでいくうちにそういう懸念が吹き飛んでいたのだから不思議だ。同様に、女のほうも設定が作為的なのではと思ったけど、こちらも気がついたらそういう懸念が吹き飛んでいる。要は話に説得力があるんだよね。ギリシャ語講師の男と生徒の女、お互いに欠落を抱えた者同士の接触は、ともすればエモくなりがちなところを上手く抑制して、コミュニケーションの美しさを浮き彫りにしている。女は言葉が話せないから筆談するしかないのに対し、男は目が悪いから眼鏡がないと書かれた文字が読めない。従って、女が男の手のひらに文字を書くことで、つまりは触覚によって意思の疎通をする。この場面が何とも印象的で、人と人の関わりが無性に愛おしく思えた。個人的に、実生活でのコミュニケーションがろくでもないから尚更そう感じたのかもしれない。フィクションとは虫を閉じ込めた琥珀のようなもので、時々あっと驚くものが入っている。

パク・ミンギュ『ピンポン』の項で現代文学の無国籍化について書いたけれど、本作もあまり韓国であることを意識せずに読んだ。地名や料理なんかは韓国のものが出てくるのに、さほどご当地感がない。これは登場人物に名前がないからだろうか? 男はドイツに移住していたことがあるし、物語もギリシャ語やプラトンが中心にあるし、全体的に本作はとても国際的である。英語で書かれたアフリカ文学は、世界中で読まれることを想定してエキゾチックな部分を前面に出す傾向にあるけれど、本作にはそういうところがまったくなかった。無国籍化についてはまだまだサンプルが少ないので、これからたくさん現代文学を読んでいこうと思う。