海外文学読書録

書評と感想

ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』(2006)

★★★★

ナチス・ドイツ時代に法律家・保安部の役人・SS将校を勤め、戦後はフランスでレース工場の支配人になったマクシミリアン・アウエ。その彼が戦時中を回想する。法学博士にしてSS中尉の彼は、独ソ戦開始時のウクライナユダヤ人虐殺の仕事に従事していた。始めは幕僚部で手伝い程度しかしていなかったが、後に自分でも1人ユダヤ人を殺すことになる。やがてヘマをしたアウエは、前線のあるスターリングラードに飛ばされるのだった。

(……)ロシア人にとってもわたしたちにとっても、人間はなんの値打ちもなく、〈民族〉、国家がすべてであり、その意味では、どちらも自分自身の像を互いに与え合っていた。ユダヤ人もまた、共同体、フォルクというこの強い感情を抱いていた。彼らは死者たちに涙し、可能であれば埋葬し、カディッシュを唱えたりする。しかし、たった一人が生き残っている限り、イスラエルは生きている。彼らがわたしたちの特権的な敵だったのは、おそらくこれが理由なのだ、つまり、彼らはあまりにわたしたちに似ていたのだ。(上 pp.107-8)

ゴンクール賞受賞作。

ボリュームたっぷりの力作だった。2段組みで900ページほどある。本作は1941年から45年までの出来事をSS将校の視点で描いていて、ナチス・ドイツが当時何をしていたのか、戦争がどのように推移していったのかを疑似体験できるところが良かった。こういうのはディテールがしっかりしたフィクションだからこそ味わえるもので、我ながら贅沢な楽しみだと思う。

本作を読んで強く感じたのは、人間は運に支配されているということだ。こうして僕がぬくぬくと平和を享受できているのは完全に運だし、また、ドイツ人としてユダヤ人を殺したり、ユダヤ人としてドイツ人に殺されたりするのも運で、その人がどういう立場になるのかは自分ではコントロールできない。どの時代のどの国に生まれたか、それは避け難い現実として我々の前に立ちはだかる。たとえば、ホロコーストを指揮したアイヒマンは、平時に生きていれば有能な官吏として地味に暮らしていただろうし、この時代のドイツに僕が生きていたら、それはもう恐ろしい出来事に関わっていたことだろう。人間は自分の人生を限られた幅でしか選択できない。そのことを強く実感したのだった。

語り手のアウエは叙事的に物事を語ることが多いので、彼がどういう考えでSS将校なんてやっているのかよく分からないところがあったけれど、時々自分の心情なり考察なりを述べることがあって、そういう部分がとても貴重に思えた。アウエはとにかく「立ち会う」ことが多い人物で、観察して何もしない立場を好んでいる。戦後から回想しているという形式のせいか、ナチスイデオロギーを狂信的に信じているようには見えない。ただ、人と話すときはこちらもぎょっとするようなイデオロギー的な発言をしていて、本心がどこにあるのかいまいち掴めないところがある。そういう割り切れないところが人間の複雑さなのだろう。彼は同性愛や近親相姦といったタブーを平然と犯しているし、最後の最後に意外な行動をとっている。一筋縄ではいかない人物像だった。

強制収容所をめぐる問題で、政治的使命と経済的要求のどちらを優先させるか? という議論はとてもおぞましかった。イデオロギーに従ってユダヤ人を殺すか、それとも戦争に役立てるために生かして働かせるかという問題である。また、ボリシェヴィキナチスの違いが、階級によってアプローチするか、人種によってアプローチするかの違いでしかないのも恐ろしく思えた。どちらの道も地獄しか待っていない。さらに、なぜユダヤ人を殺すのかという考察で、彼らがドイツ人と似ていて自分たちの中にあるその性質を殺すためというのは、随分と倒錯していると思った。ひとことで言えば、近親憎悪だろう。

これから絞首刑にするという女に対して、将校たちが次々とキスしていくエピソードが印象に残っている。それと、死んだ女の腹を帝王切開して赤ん坊を取り出すも、すぐに別の男がその赤ん坊を叩きつけて殺害するエピソードもすごい。戦時下における残酷な日常にぞっとした。

フラン・オブライエン『第三の警官』(1967)

★★★★

若くして両親を亡くした「ぼく」は、仕事を雇人であるジョン・ディヴィニィに任せて自分は研究生活を送っていた。2人は同じベッドで寝るほど親密になっている。ある日、「ぼく」はディヴィニィに誘われて強盗殺人に手を染めることに。それを機に「ぼく」は、3人の警官が管轄する奇妙な世界に入り込む。そこは自転車が中心の世界だった。

このとき自転車に乗った一人の男が長い燕尾服の裾を背後になびかせて急速に接近してきました。前方の丘からの下り坂をペダルを踏まずに優雅に滑走してきたとみるやぼくたちの傍らを走り抜けたのです。ぼくは六羽の鷲の眼差しを合わせたほどに鋭い眼を彼に向け、疾走しているのは果して人か自転車か、それにまた両肩に自転車をかついでいる男というのが真相なのではあるまいか、とひたすら目をこらしたのです。しかしながら、注目に値するもの、あるいは驚嘆するに足る珍現象は何も認められないようでした。(p.144)

何だこりゃあって感じの奇想天外な小説だった。本作は1940年に脱稿したものの、出版社から出版を拒否されたという。結局、著者の死後に公表されたとか。

本作は20世紀を代表する前衛小説であり、前衛的な割には読みやすくて面白いのだが、どこが面白いのかといえば、何となく波長が合うと答えるしかない。他人にその魅力を伝えづらいというか。『不思議のアリス』【Amazon】みたいなナンセンス、カフカ的な不条理、含意があるのだかないのだかよく分からない奇妙なシチュエーション。しかしそれでいて、地に足のついた平易な語り口で読みやすいという……。

語り手の「ぼく」は自分の名前を忘れていて、それがために法律の埒外に置かれたみたいなことを言われる。はたまた彼はド・セルビィなる哲学者兼物理学者にのめり込んでいて、その珍妙な学説(地球はソーセージ型だとか)に膨大な注釈がつけられている。警官たちは人間が自転車だと主張しているし、挙句の果てには「ぼく」を殺人犯に仕立てて絞首刑にしようとする。いや、殺してないじゃんって読んでいて一瞬思ったが、よく考えたら前の世界で強盗殺人をしていたので、これはこれで因果が巡っているのだ。被害者も同一人物だし。あと、たまたま出会って会話した相手が実は強盗で、「ぼく」は彼にナイフを突きつけられるのだが、同じ義足者(そう、「ぼく」は左足が義足なのだ)と分かってからは見逃してもらえるってエピソード、それが終盤に生きてくるのは意外だった。他にも本作にはサプライズがあって、ナンセンスな内容の割には普通の小説の枠組みを持っているところが堪らない。

なお、訳者あとがきではこのサプライズを警告なしで思いっきりバラしている。なので、これから読む人は注意されたい。決して訳者あとがきを先に読んではならない。

マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(2000)

★★★★

(1) 『紙葉の家』序文。盲目の老人ザンパノが急死する。彼の部屋にはドキュメンタリー映像『ネイヴィッドソン記録』についての原稿があった。ジョニー・トルーアントがそれに注釈をつける。(2) 『紙葉の家』本文。ピュリッツァー賞を受賞した報道写真家ウィル・ネイヴィッドソンは、家族と移り住んだ家の内部が外で測ったのよりも大きいことに気づく。ネイヴィッドソンは知人たちと家の中を探検するが……。

トムは大きなため息をつき、ようやく兄の手にすがった。今の今まで、彼はネイヴィッドソンの失踪に自分がどれだけ悲嘆に暮れていたか、また彼が無事に戻ってきたことに自分がどれほどほっとしているか、本当には理解していなかった。彼の目が潤んでくるのが分かる。

ネイヴィッドソンはその肩に腕を回した。

「来いよ」

「少なくとも酔っ払ってるときには」トムが急いで涙をぬぐいながら言う。「床はいつだって一番の友だちだ。なぜだかわかるかい?」

「いつもそこにいて支えてくれるからさ」答えるネイヴィッドソンの顔が、急に感極まったように紅潮した。彼はよろめく弟を支えてキッチンへと向かった。

「そのとおり」トムがささやく。「おまえと同じさ」(pp.380-381)

これはまた随分と刺激的な実験小説だった。レイアウトに恐ろしく手間がかかっていて、現代の印刷技術があればこそ達成可能な小説という感じがする。どこがどう手間がかかっているのかいまいち説明しづらいので、ページをスキャンして何枚か画像を貼り付けたいほど。たとえば、文字を片側に寄せたり反転させたり、斜めに走らせたり複雑な構成で配置したり……。本作にはたくさんの文字が印刷されているけれど、そのすべてを読むのは不可能だし、また読む意味もない。タイポグラフィ的な要素が大きいと言える。

注釈がやたらと多いところは、ニコルソン・ベイカーの『中二階』【Amazon】を連想させる。本作はザンパノによる注釈、トルーアントによる注釈、編集部による注釈の3つの注釈がついているのだけど、なかでもトルーアントの注釈がぶっ飛んでいて、本文を凌駕するほどの分量で自分語りを連ねている。そのため、ネイヴィッドソンについて語った本文とトルーアントが自分について語った注釈、事実上、2つの物語が並行して走っている。正直言って、最初は本文と注釈を行き来しながら読むのがとても面倒だった。注釈のフォントが小さくて目にやさしくなかったし。でも、慣れてくると文字を追っていくのが快感になってきて、次々と現れる印刷上の仕掛けを楽しみつつ、偽史ならぬ偽書を作ろうという熱気に引き込まれていく。ネイヴィッドソンの物語はホラー小説の要素を交えながらも家族の物語が中心だし、トルーアントの物語も最終的には母親とのせつない別れで終わっている。この辺はいかにもアメリカ文学だった。

今時の文学は、「何を語るか」よりも「どのようにして語るか」のほうが重視されている。本作は後者の極北と言っても過言ではないだろう。現代の印刷技術を使うとこんな表現が可能なのか、と驚いたのだった。どちらかと言うと、著者よりも印刷会社の人を褒めたい気分である。実験小説に興味がある人なら読んで損はしない。

蘇童『河・岸』(2009)

★★★

江南の町・油坊鎮。庫東亮の父・庫文軒は、革命で犠牲になった女性烈士の息子として地元の指導者になっていた。ところが、調査によってその血筋が誤りであるとされ、庫文軒は階級の異分子として失脚する。彼はそれまで地位を笠に着て数多の女と不倫をしていた。庫父子は陸から離れて向陽船団に移り住む。やがて船団には慧仙という少女も加わるのだった。

ぼくはすわったまま、心に秘密を抱いていた。体が熱くなったり、冷たくこわばったりする。(……)ぼくは十三年間、父の監督を受けてきた。岸に上がったときだけ、レーダーのような父の厳しくて鋭い視線から逃れることができる。それは、いちばん自由なときだった。ぼくはその貴重な時間を使って、慧仙を監督している。いや、監督ではなく保護かもしれない。あるいは、保護ではなく監視かもしれない。どちらにしても、それは僕の権利ではない。ただ勝手に、こんな癖がついてしまったのだ。(p.258)

文化大革命の時代を扱っている割にはあまりそれっぽくなかった。確かに町の指導者(書記)から一晩にして立場が急落するところは文革っぽい。でも、この時代はもっと生死に関わることだらけで、たとえば紅衛兵に吊し上げを食らうのがお約束だと思っていた。大衆の前で自己批判させられたり、暴行されたりするあれ。しかし、本作にはそういうのがまったくなく、せいぜい町の自警団が幅を利かせる程度である。それと、この時代の中国では失脚したら逃げ場がないと思っていたけれど、陸上から水上に生活の拠点を移している人が多数いて意外に思った。水上の人たちは陸上の人たちに差別されているものの、命を脅かされるということはなく、一応は共存できている。ひとことで文革と言っても地域によって実情は違っていて、江南ではこんな感じだったのだろうか? ちょっと僕にはよく分からない。

語り手の庫東亮は陸上では「空屁」と馬鹿にされ、水上では父親から禁欲を課せられていて不憫だった。庫東亮は13歳から26歳までの間、父親に監視されながら生活している。父親は自分が性欲によって身を滅ぼしたから、その反動で息子には勃起も自慰も許さない。挙句の果てには、自分のペニスを半分に切断する暴挙に出ている。この親子関係がラストまで続く縦軸になっていて、ある種の苦味を伴いつつ、最後には意外な感興を呼び起こしている。また、本作では慧仙という少女も重要な役割を担っていて、彼女が河(水上)から岸(陸上)に生活の基盤を移そうと奮闘するところも見所だろう。庫東亮はそんな慧仙を長期にわたって監視し、一方的に思いを募らせるのだけど、それが最後に思わぬ形で返ってくるのも良かった。

それにしても、自分が女性烈士の血を引いていることに縋りつく父親の姿はとても悲しい。実際は根拠薄弱で、血を引いている可能性は限りなく低いというのに……。こういう人間的な弱さを描くところは魯迅の時代から変わっていないようだ。

チャン・ジョンイル『LIES/嘘』(1996)

★★★★

38歳のJは元彫刻家で、現在はソウルで無為徒食の生活を送っていた。彼にはパリに留学している妻がいる。Jは知人の伝手で知り合った女子高生Yと安東市で会い、ラブホテルでセックスをする。彼女は処女だった。その後も2人はたびたび会ってセックスに明け暮れ、プレイは過激になっていく。

Yが求めてやまないのは「シアワセ」だ。これほどまで幸せを求めるパワーなんて、Jはお目に掛かったことがない。最近の人間どもときたら、馬鹿の一つ覚えみたいに「幸せ」という単語に白けてみせようとする。不思議なことに、誰もその価値を正しく評価しようとはしない。Jは、喘ぎ声を出しっぱなしで腰を振り続けるYのアソコをたっぷりクンニした。陰蜜はサイダーの炭酸ガスのように無尽蔵に湧き上がり、Jの口元に、まるでお粥を食べてから素手で口元を拭ったようにベットリとまみれている。Jは、チョコレートを口元いっぱいにほおぼった子供のように嬉しかった。もう、たまらん!(p.29)

本作は過激な性描写のために韓国で発禁処分になったという。著者も裁判で執行猶予付きの有罪になったとか。賈平凹の『廃都』も同様の理由のために中国で発禁処分になったそうだけど、性描写の緻密さや過激さはこちらのほうが遥かに上だと思う。日本の作家だと村上龍を彷彿とさせるかもしれない。ただ、本作のほうが村上よりも徹底的だし、分量も多くて比較にならない感じだ。一つ一つの描写が具体的でやけに生々しく、挙句の果てにはアナルセックスやSM、スカトロにまで手を染めている。

本作を読んで幸福とは何か? と考えてしまった。Jにとっては働かずにぶらぶらして、愛人とセックスすることが幸福らしい。相手のYもどうやらセックスに幸せを感じているようだ。Jは中堅の元彫刻家だけあって女にモテモテで、38歳にして100人斬りを達成している。確かに本作みたいな状況は男の夢ではあるけれど、いざこうやって目の前に突きつけられると、これはこれで何か違うなあと思ってしまう。女子高生とセックスなんて最高のご褒美のはずなのに。若い女から強く求められるのは、日常に充実感をもたらすはずなのに。結局のところ、その場しのぎの快楽では人生のすべてを穴埋めすることなんて不可能なのではないか。こうやってセックスだけにクローズアップされてみると、それが世界のすべてみたいに見えるけど。

SMも本作の売りの一つになっている。Jは最初Yをスパンキングする側だった。尻に痣ができるまでお仕置きをする側だった。それがふとしたきっかけで、Yにスパンキングされる側に回る。SMで言えばM、すなわち彼女に調教されることになる。Yの小悪魔ぶりはまるで『痴人の愛』【Amazon】のナオミのようで、僕もちょっぴり調教されてみたいと思った。どちらかというと、僕はM寄りなので。ただ、肉体的苦痛に悦びを感じるのは理解の範囲を超えている。だからガチのMではないのだろう。また、スカトロも理解不能だ。いくら相手が女子高生でも、その排泄物を食うのは絶対に無理である。

終盤で2人が韓国各地のラブホテルを転々とするところは、『ロリータ』【Amazon】のオマージュだろう。2人の幸せな時間がいつまでも続かないところも共通している。本作は韓国の世相を織り交ぜつつ、過激な性描写が大半を占めていて、終わってみれば何とも奇怪な小説だった。