海外文学読書録

書評と感想

マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(2000)

★★★★

(1) 『紙葉の家』序文。盲目の老人ザンパノが急死する。彼の部屋にはドキュメンタリー映像『ネイヴィッドソン記録』についての原稿があった。ジョニー・トルーアントがそれに注釈をつける。(2) 『紙葉の家』本文。ピュリッツァー賞を受賞した報道写真家ウィル・ネイヴィッドソンは、家族と移り住んだ家の内部が外で測ったのよりも大きいことに気づく。ネイヴィッドソンは知人たちと家の中を探検するが……。

トムは大きなため息をつき、ようやく兄の手にすがった。今の今まで、彼はネイヴィッドソンの失踪に自分がどれだけ悲嘆に暮れていたか、また彼が無事に戻ってきたことに自分がどれほどほっとしているか、本当には理解していなかった。彼の目が潤んでくるのが分かる。

ネイヴィッドソンはその肩に腕を回した。

「来いよ」

「少なくとも酔っ払ってるときには」トムが急いで涙をぬぐいながら言う。「床はいつだって一番の友だちだ。なぜだかわかるかい?」

「いつもそこにいて支えてくれるからさ」答えるネイヴィッドソンの顔が、急に感極まったように紅潮した。彼はよろめく弟を支えてキッチンへと向かった。

「そのとおり」トムがささやく。「おまえと同じさ」(pp.380-381)

これはまた随分と刺激的な実験小説だった。レイアウトに恐ろしく手間がかかっていて、現代の印刷技術があればこそ達成可能な小説という感じがする。どこがどう手間がかかっているのかいまいち説明しづらいので、ページをスキャンして何枚か画像を貼り付けたいほど。たとえば、文字を片側に寄せたり反転させたり、斜めに走らせたり複雑な構成で配置したり……。本作にはたくさんの文字が印刷されているけれど、そのすべてを読むのは不可能だし、また読む意味もない。タイポグラフィ的な要素が大きいと言える。

注釈がやたらと多いところは、ニコルソン・ベイカーの『中二階』【Amazon】を連想させる。本作はザンパノによる注釈、トルーアントによる注釈、編集部による注釈の3つの注釈がついているのだけど、なかでもトルーアントの注釈がぶっ飛んでいて、本文を凌駕するほどの分量で自分語りを連ねている。そのため、ネイヴィッドソンについて語った本文とトルーアントが自分について語った注釈、事実上、2つの物語が並行して走っている。正直言って、最初は本文と注釈を行き来しながら読むのがとても面倒だった。注釈のフォントが小さくて目にやさしくなかったし。でも、慣れてくると文字を追っていくのが快感になってきて、次々と現れる印刷上の仕掛けを楽しみつつ、偽史ならぬ偽書を作ろうという熱気に引き込まれていく。ネイヴィッドソンの物語はホラー小説の要素を交えながらも家族の物語が中心だし、トルーアントの物語も最終的には母親とのせつない別れで終わっている。この辺はいかにもアメリカ文学だった。

今時の文学は、「何を語るか」よりも「どのようにして語るか」のほうが重視されている。本作は後者の極北と言っても過言ではないだろう。現代の印刷技術を使うとこんな表現が可能なのか、と驚いたのだった。どちらかと言うと、著者よりも印刷会社の人を褒めたい気分である。実験小説に興味がある人なら読んで損はしない。