海外文学読書録

書評と感想

ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『コスモス』(1965)

★★★

部屋探しをしていた「ぼく」とフクスは、町外れの一軒家に間借りすべくその家に向かう。道中、2人は首くりりのスズメを発見するのだった。その後、宿泊先の部屋の天井に矢印があったため、その方向へ行くと、今度は首くくりの木切れを見つける。誰が何の意図でそんなことをしたのか?

「あんたはこのわしを、きっと、頭のおかしな男と思っとるだろうな?」

「いくらか」

「そういってもらうと楽だね。わしがちょっと気違いのふりをするのは、楽な気になるためさ。楽でもしなくちゃ、とてもやり切れやしないからね。あんたは楽しみが好きかね」

「好きです」

「官能のほうは? 好きかね」

「好きです」

「そうか、これでなんとか、お互いに意見が一致した。簡単な事さ。人間の……好きなものがある……何か? すすきっき。すきっきベルグ」(p.300)

本作はイスマイル・カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』【Amazon】やアントニオ・タブッキ『ダマセーノ・モンテイロの失われた首』【Amazon】といった探偵小説仕立ての文学作品に分類できるだろう。ただし、作中に大きな謎はあるものの、それを明快に解く探偵はおらず、謎そのものは宙吊り状態のままで終わる。些細な日常に「徴」を見出して事件に関連づけていくところは、探偵小説のパロディと解釈できないこともない。すなわち、意味のないものに意味を嗅ぎ取るパラノイア的妄想だ。アントニイ・バークリーあたりがこういう小説を書いていてもおかしくなさそうだけど、不思議なことに書いてないのだった。

「ぼく」ことヴィトルドは、その場の勢いで家主一家の猫を絞め殺して庭の鉤に吊るしてしまう。まるで首くくりのスズメを模すように自ら新たな謎を作ってしまう。彼は探偵であると同時に犯人にもなるのだった。乱暴なことを言うと、探偵と犯人は探偵小説を構成する共犯であるわけだけど、ここまで露骨にその構造を再現してみせたのはなかなか面白い。左右の両端を結合することでその共犯関係を暴き出している。

最終章でルドヴィクの首吊り死体が発見されるところが衝撃的で、さらには何とも言えないユーモアを感じて笑ってしまった。イベントを通じてようやく「ぼく」の関連妄想が収まったと思ったら、ここに来て再燃してしまうのである。神の手(作者)のいたずらというか、よくここでスイッチを切り替えたものだと感心した。

フランソワ・ラブレー『第四の書』(1552)

★★★

聖なる酒びんのご宣託を受けるため、パンタグリュエルと愉快な仲間たちが航海する。道中では、島民全員が親類縁者の鼻欠け島や、殴られることで生計を立てるシカヌー族の島など、奇妙な風習の島々に立ち寄る。また、航海中に嵐に遭ったり、原住民と戦争したりするのだった。

「おやまあ、泣き虫のパニュルジュちゃん、子牛みたいに泣いちゃって。そんなところでサルみたいに、たまきん座布団の上に座って、めそめそ泣いてるよりは、こっちに来て、わしらを助けてくれたほうが、よっぽどましだろうに。」(p.202)

『第三の書』の続編。

様々な架空の部族を登場させて、現実の教皇やら修道士やらを風刺する。『ガリヴァー旅行記』【Amazon】の200年前に既にこういう小説があったとは驚いた。キリスト教って基本的に抑圧的な宗教だと思うのだけど、その抑圧が創作の源泉になるのだから、後世の我々からしたらちょっと複雑である。そういえば、酒を称揚した『ルバイヤート』【Amazon】も、イスラム教が抑圧したおかげで生まれたのだった。何かを創作をするには、ある程度の不自由さ、あるいは不満が必要なのかもしれない。

この巻は、古代ギリシャの詩人アイスキュロスのエピソードが印象的だった。彼は占い師に、「あなたは、これこれの日に、上からなにかが落ちてきて死ぬでしょう」と言われたため、街を避けて大平原のど真ん中に身を委ねていた。上にあるのは大空だけ。これで安心だろうと思っていたら、空から亀の甲羅が落ちてきて殺されてしまった。鷲が亀の甲羅を上から落としてそれが脳天をかち割ったという。おいおい、そんなバカなことがあるかよとWikipediaを見たら、どうやらそういう類の伝説があったらしい。そもそもの出典は何なのかがちょっと気になった。

登場人物が事あるごとに古代ギリシア古代ローマの故事を引き合いに出すところは、中国の文官、もっと遡れば春秋戦国時代諸子百家に似ているかもしれない。昔の中国人は他人を説得するとき、やたらと故事を引いていた。あるときは君主を諌めるため、あるときは他人を論駁するため。僕はそれを読むたびに、昔の人の博識ぶりと、その知識を当意即妙に活かす才気に憧れを抱いていたのだった。古典を大切にする西洋のルネサンスと中国の文化は、精神的に共通するものがあるのかもしれない。

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『アメリカーナ』(2013)

★★★★★

イボ人のイフェメルはナイジェリアからアメリカに渡って13年が経っていた。帰郷する予定の彼女はヘアサロンで髪を結ってもらい、その最中に過去の出来事が語られていく。ラゴスで共に過ごしたオビンゼとの恋だったり、奨学金を得てアメリカに渡って大学に入るも仕事探しに苦労したり、新たな恋人とオバマ大統領の誕生を祝ったり。彼女は人種問題を題材にしたブロガーとして有名になっていた。

「僕がアメリカの本を読むのは、アメリカが未来だからさ、母さん。あなたの夫はそこで教育を受けたんだろ」(p.79)

全米批評家協会賞受賞作。

これは素晴らしかった。アメリカ文学、あるいはアフリカ文学の枠組みに収まらない、広い意味での黒人文学の傑作といったところだろうか。本作を一言で要約するならば、「アメリカに渡って人種を発見し、帰ってきてラゴスを再発見する物語」であり、さらには人種問題という社会派要素とメロドラマという通俗性ががっちり噛み合っていて、分厚い本でありながらも、最後まで読ませる充実した内容になっている。教育を受けたナイジェリアのエリート層が母国でどのような生活を送り、アメリカやイギリスといった先進国でどのような苦労に直面するのか? 移民側の視点で描かれた本作は、各地で排外主義が横行する今こそ読まれるべきだと思う。

黒人にはアメリカ黒人と非アメリカ黒人(アメリカン・アフリカンとアフリカン・アメリカン)の2種類がいる、という指摘には目から鱗だった。前者はアメリカに住む奴隷を祖先に持つ黒人で、後者はアフリカから移民してきたエスニックな黒人。どちらもアメリカの最下層で謂れなき差別と苦労を強いられている。この小説は「髪の毛」が重要なモチーフになっていて、女性の場合、丹精に編み込んだ髪型が彼女たちのアイデンティティになっている。だから本作はヘアサロンの場面から始まっているのだけど、それにしても、黒人の髪型に詳しくないので具体的なイメージが著者近影の写真くらいしかなかった。ナイジェリアの黒人女性は皆、あんな素敵な髪型をしているのだろうか。ミシェル・オバマのストレートな髪型が黒人らしくない、という指摘には「へー」という感じだった。

V・S・ナイポール『暗い河』(1979)【Amazon】を巡るやりとりが印象に残っている。ある人物がこの小説を読んで、「現代アフリカのことが本当に理解できた」と述べるのだけど、それを聞いたイフェメルは鋭く反駁する。実は僕も『暗い河』を9年前に読んで感想を旧ブログに書いた。そして、アフリカを理解した気になっていた。あの小説には、第三世界の駄目っぷりとそこで暮らす個人の無力さが描かれていたのだ。『暗い河』は世間では名作とされているので、それに新たな光を当てたところは評価すべきだろう。

というわけで、世界を越境する黒人を描いた本作は、アメリカ文学としてもアフリカ文学としても新しいんじゃないかと思う。このまま行けば、著者は30年後くらいにノーベル文学賞を受賞しているだろう。これは推測でも願望でもなく予言である。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはノーベル文学賞を必ず獲る。

フランソワ・ラブレー『第三の書』(1546)

★★★

領主になったパニュルジュは財産を使い果たした後、結婚しようと思い立つ。しかし、彼はあちこちに相談に行くも、コキュ(寝取られ男)になることを心配して決心がつかない。ついには宮廷道化師の話を聞き、聖なる酒びんの信託を受けに航海の準備をする。

信じてほしいのは――あんたは、本当じゃないものは、信じないわけだからね――、俺さまのなにがだね、この聖なる直立男根だがね、つまりアルベンガ特産の、この一つ目入道さまがですね、世界最高のしろものっていうことだよ。(p.320)

『パンタグリュエル』の続編。

この巻は英雄譚だった前2作とは随分と毛色が違っていて、主にパニュルジュの結婚を巡ってひたすら議論が続いている。結婚の話題はだいたい紙幅の8割くらいだろうか。パニュルジュを相手に、登場人物が入れ代わり立ち代わりの長広舌を繰り広げている。パンタグリュエルはあまり活躍してなくて、この巻の主人公はパニュルジュと言っても過言ではない。とにかくみんな饒舌で、言葉の奔流に流されまくりだった。

コキュ(寝取られ男)については野崎歓『フランス文学と愛』【Amazon】で触れられていたけれども、実作で正面からテーマにしたものは今回初めて読んだかもしれない。我らがパニュルジュはとにかくコキュになることを恐れている。結婚はしたいが、コキュにはなりたくないというわけ。キリスト教の社会って不倫には厳しそうなイメージだけど、こんなに心配するということはNTRは一般的だったのだろうか。いずれにせよ、当時の結婚事情が垣間見えてなかなか興味深い。

前2作と方向性は違えど、ルネサンス的な雰囲気は健在で、例によって昔の故事やら書物やらが多数引き合いに出されている。古代ギリシアの哲学者、古代ローマの皇帝なんかはその好例。ここまですらすら古典を参照するのは、情報化社会の現代ならともかく、ようやく活版印刷といった当時だと調べるのも大変だったと思う。こと歴史に関しては、現代のインテリとさほど知識レベルは変わらないかもしれない。

下ネタも健在だった。合計10ページ以上にわたって「たまきん」を連呼するところは期待通りといった感じ。毎回思うのだけど、なぜ著者はこのシリーズに下ネタを入れようと決めたのだろう? その発想の源泉はいったい? ここまで幼児的下ネタに溢れた小説もなかなか珍しいと思うのだけど。ともあれ、下ネタに関しては作中で揶揄されていたクラウディウス・ガレノス『精子論』が気になった。

イサク・ディーネセン『アフリカの日々』(1937)

アフリカの日々 (河出文庫)

アフリカの日々 (河出文庫)

 

★★★★

アフリカ滞在の記録。1914年にデンマークから移住した著者は、以後17年にわたって広大な農園でコーヒー栽培をする。人々の営み、動物、自然。最後は経営が立ち行かなくなり、農園を売り払ってアフリカから去ることになる。

目のさめている状態で夢にいちばん近いのは、誰も知人のいない大都会ですごす夜か、またはアフリカの夜である。そこにはやはり無限の自由がある。そこではさまざまのことがおこりつづけ、周囲でいくつもの運命がつくられ、まわりじゅうが活動していながら、しかも自分とはなんのかかわりもない。(p.95)

池澤夏樹編集の文学全集【Amazon】で読んだ。引用もそこから。

最寄りの都市がナイロビなので、植民地時代のケニアが舞台ということになる。

何で男爵夫人ともあろうお方が、わざわざヨーロッパからアフリカなんていう不毛な土地に移住したのか謎なのだけど、北方の人間は南方に魅力を感じるみたいなことが書いてあったから、アフリカには西洋人を惹きつける何かがあるのだろう。実際、ここに描かれているアフリカはなかなか興味深く、著者のまなざしもやさしくて心地いい。近所に原生林が生えていて、野生のヒョウ・猿・ライオンなどが当たり前のように闊歩し、白人と黒人、キリスト教徒とイスラム教徒が平和に共存している。文明と野生の境界が曖昧で地続きになっている世界。現代よりも当時のほうが治安が良かったのではないかと思えるほどで、パクス・ブリタニカとはこういうことなのかと感心したのだった。今のアフリカでこんな生活を送っていたら間違いなく強盗に殺されている。

猟銃事故のエピソードが印象的だった。子供が誤って散弾銃を発射して複数の友達を死傷させるのだけど、それを巡る交渉が面白い。被害者の親族が、加害者の親族に対して家畜で賠償を要求するのである。羊が40頭で、仔牛が10頭で……とかそんな感じ。これが植民地政府の司法とは独立したルールで行われていて、アフリカの部族社会は昔ながらの伝統を維持しているんだなと感心した。

あとはキクユ族とかソマリ族とか色々部族がいるなかでマサイ族だけは別格だったり、ンゴマという踊りの大会がやけに弾けていたり、アフリカならではの情景が興味深かった。『けものフレンズ』【Amazon】でお馴染みのサーヴァル・キャットも登場するが、彼女は鶏を襲う害獣として紹介されて速攻で射殺されている。

というわけで、本作を読んでアフリカを疑似体験できたのが収穫だった。自分では住みたいとは思わないからこそ、こういう滞在記は貴重なんだと思う。