海外文学読書録

書評と感想

フランソワ・ラブレー『第四の書』(1552)

★★★

聖なる酒びんのご宣託を受けるため、パンタグリュエルと愉快な仲間たちが航海する。道中では、島民全員が親類縁者の鼻欠け島や、殴られることで生計を立てるシカヌー族の島など、奇妙な風習の島々に立ち寄る。また、航海中に嵐に遭ったり、原住民と戦争したりするのだった。

「おやまあ、泣き虫のパニュルジュちゃん、子牛みたいに泣いちゃって。そんなところでサルみたいに、たまきん座布団の上に座って、めそめそ泣いてるよりは、こっちに来て、わしらを助けてくれたほうが、よっぽどましだろうに。」(p.202)

『第三の書』の続編。

様々な架空の部族を登場させて、現実の教皇やら修道士やらを風刺する。『ガリヴァー旅行記』【Amazon】の200年前に既にこういう小説があったとは驚いた。キリスト教って基本的に抑圧的な宗教だと思うのだけど、その抑圧が創作の源泉になるのだから、後世の我々からしたらちょっと複雑である。そういえば、酒を称揚した『ルバイヤート』【Amazon】も、イスラム教が抑圧したおかげで生まれたのだった。何かを創作をするには、ある程度の不自由さ、あるいは不満が必要なのかもしれない。

この巻は、古代ギリシャの詩人アイスキュロスのエピソードが印象的だった。彼は占い師に、「あなたは、これこれの日に、上からなにかが落ちてきて死ぬでしょう」と言われたため、街を避けて大平原のど真ん中に身を委ねていた。上にあるのは大空だけ。これで安心だろうと思っていたら、空から亀の甲羅が落ちてきて殺されてしまった。鷲が亀の甲羅を上から落としてそれが脳天をかち割ったという。おいおい、そんなバカなことがあるかよとWikipediaを見たら、どうやらそういう類の伝説があったらしい。そもそもの出典は何なのかがちょっと気になった。

登場人物が事あるごとに古代ギリシア古代ローマの故事を引き合いに出すところは、中国の文官、もっと遡れば春秋戦国時代諸子百家に似ているかもしれない。昔の中国人は他人を説得するとき、やたらと故事を引いていた。あるときは君主を諌めるため、あるときは他人を論駁するため。僕はそれを読むたびに、昔の人の博識ぶりと、その知識を当意即妙に活かす才気に憧れを抱いていたのだった。古典を大切にする西洋のルネサンスと中国の文化は、精神的に共通するものがあるのかもしれない。