海外文学読書録

書評と感想

ウンベルト・エーコ『女王ロアーナ、神秘の炎』(2004)

★★★

1991年。もうすぐ60歳になる男が病院のベッドで目覚める。彼の名はジャンバッティスタ・ボドーニ(愛称ヤンボ)。ヤンボは事故で記憶喪失になっていた。彼は本を読んだり人から聞いたりして知るようなことは覚えているものの、直接的な体験に結びついたことは覚えていない。妻に迎えられて退院したヤンボは、稼業である古書販売業に戻る。その後、失われた記憶を取り戻そうと、幼少期を過ごした祖父の屋敷へ向かう。

こういうわけでぼくは祈る。「おぉ、よき女王ロアーナよ、あなたのうちひしがれた愛の名において、あなたの何千年ものいけにえをその石のような眠りから再び起こすのではなく、ただぼくにひとつの顔をお戻しください……。ぼくは強制的な眠りの最悪な潟から見るべきものを見ましたが、ぼくを救いの淵へともっと高く引き上げてください」(下 p.237)

横書きでカラー図版が多数盛り込まれた風変わりな小説だった。主人公のヤンボは素人とは思えないくらい博識で、文学作品や歴史的人物について多彩な言及をする。しかしその一方、自分のことといったら何一つ覚えていない。記憶を失う前は霧についての文章を蒐集しており、作中ではそれらが豊富に引用される。さらに、序盤から『白鯨』【Amazon】や『失われた時を求めて』【Amazon】などの小ネタも盛り込まれていて、まさに読書人の鑑といった感じだ。と、そんなインテリ男が自分探しをする過程で、子供時代を過ごしたファシスト政権期の大衆文化が紹介されていく。本やら歌やら絵やらがカラー図版でずばずば挿入されていく。こういう小説を世間では何と言うのか分からないのだけど、個人的にはリスト小説と呼んでみたい。

というのも、著者は『ウンベルト・エーコの小説講座』【Amazon】で次のように述べているのだ。

ラブレーによって、リストは「歪み」への純粋な愛にもとづく詩的なものへと変化しました。それ以前まで、リストは、あくまでも困ったときの「最後の手段」であり、何か言葉で言い表せないものがあるときに頼るものでした。それは、ある種の苦しみを抱えたもので、ランダムで統一感のない要素の集まりにいつか何らかのかたちで秩序を与えたいという静かな望みを孕むものでした。ラブレーは、「純粋なリストへの愛にもとづくリストの詩学」、すなわち「過剰なリストの詩学」を生み出したというわけです。(pp.200-201)

本作は特に祖父の家で過ごす第2部が「過剰なリストの詩学」に溢れていて、一人の男の人生を形作った「歪み」が提示される。ヤンボにはヤンボのリストがあって、僕には僕のリストがあって、みんなそれぞれ違った文化を栄養にして育っているわけだ。こういう自分史に絡めた大衆文化への偏愛は、たとえば堀江敏幸のエッセイが好きな人には堪らないものがあると思う。読書好きはリストも好きだろうから。第2部はちょっと読む人を選びそうだけど、「過剰なリストの詩学」と聞いてピンと来る人は問題なく楽しめるはずだ。

あと、第2部で面白かったのは、無政府主義者のグラニョーラが独自の神学論争を展開するところ。神を信じていないのかと思ったらそうではなく、神は邪悪だと主張している。神は人間を奴隷ではなく、自由意志を持った自由人として作った。自由意志があるゆえに、善を為すこともあれば悪を為すこともある*1。それについてパルチザンの活動と絡めてケチをつけていくところは、屁理屈この上ないと感心した。神について語らせたら、キリスト者の右に出るものはいないと思う。

16歳のときに恋した女が、ヤンボにとって永遠の女になっているのには苦笑した。たとえ40年連れ添った妻がいようとも、10代の頃の恋は特別なのだ。男は「名前を付けて保存」、女は「上書き保存」とはよく言ったもので、僕も概ねそういうところがある。ホント、男というのはどうしようもない生き物だ。いくつになっても思い出の中に生きている。

*1:この自由意志をテーマにした小説が、アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』【Amazon】である。また、『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】に出てくる「大審問官」も自由意志をめぐる話。