海外文学読書録

書評と感想

ソーントン・ワイルダー『三月十五日 カエサルの最期』(1948)

★★★★

終身独裁官ユリウス・カエサルは、魔性の女クローディアの晩餐会に招待される。当初は出席を断っていたものの、最終的には招待に応じることに。しかし会場に向かう途中、暗殺者たちに襲撃されるのだった。紀元前45年10月。エジプトの女王クレオパトラがローマにやってくる。彼女は女性だけで行われる宗教儀式に参加したがっていた。儀式当日、クローディウスによる「善き女神秘儀冒瀆事件」が起きる。そして、物語はカエサルが暗殺される紀元前44年3月15日を迎える……。

人間――いったい人間とは何だ? 僕らは人間について何を知っているだろう? 人間にとって神々、自由、心、愛、運命、死とは――その意味は何だ? おぼえているかい。君と僕が、まだ子供の頃にアテナイで、そのずっとあとにはガリアの幕舎の前で、とめどなくこうした問題を話し合った頃のことを。いまの僕はふたたび、哲学する青年だ。人を危険にまどわすプラトンはこう語っている。「この世で最高の哲学者は、あごひげが生え始めたばかりの少年である」。それならいまの僕はふたたび少年だ。(p.29)

昔懐かし書簡体小説。僕が古代ローマ好きという贔屓目があるにしても、まさかこんなに面白いとは思わなかった。書簡体小説のいいところは、登場人物が自分の考えを惜しみなく披露するところだろう。人間はとにかく何かを語らずにはいられない生き物なのだ。特に本作の場合、カエサルの幼馴染トゥリヌスという架空の人物を作って、カエサルが彼に対して思いの丈をぶちまけるよう仕向けている。本作のカエサルはまるで現代人のように合理的で、古代人のくせに無神論者なところが親しみやすい。また、独裁者のくせに己の身辺警護をゆるくして、自由でいることを欲している。自分が凶刃に斃れることを予感していたり、最終的には敵にまわるブルートゥスを信頼していたり、彼の命運を知るものからすれば、その手紙はどこか哀調を帯びているように見える。様々な人物の間を駆け巡る手紙、手紙、手紙の数々。現代人は手紙なんて書かないから、仮に今こういうのをやるとしたらEメール小説になりそうだけど、それにしたってここまで頻繁にはやりとりしないはずなので、やはり現代人にとって書簡体小説尊いと思った。その古さが一周回って新しくなっている。

カエサルが死ぬまでの8ヶ月の間にイベントを詰め込んでいるのが良かった。実はこの小説、史実では死んでいるはずの人物が2名ほど生きているうえ、歴史的イベントの時期もずらして配置している。もっと詳しく書くと、紀元前50年代に死んだはずの詩人カトゥッルス、紀元前52年に死んだはずの煽動政治家クローディウスが健在、紀元前62年に起きた「善き女神秘儀冒瀆事件」がカエサルの暗殺直前に置かれている。歴史小説としては賛否両論ありそうだけど、こうすることで話が面白くなったことも確かなので、なかなか邪道とは言い切れないところがある。むしろ、小説が人間の可能性の領域を探る表現形式であるとするなら、こういう改変も喜んで首肯すべきではないか。いずれにせよ、古代ローマが好きな人は読んで損はしないと思う。

カエサルの政敵は、カエサルのことを「他人から自由を奪った」と非難する。しかし、カエサルは特に悪政を行ったわけでもなく、他人の自由を理不尽に奪ったりもしていない。それどころか、内乱を制して国家に安定をもたらしてさえいる。田中芳樹の『銀河英雄伝説』【Amazon】という小説に、「最悪の民主政治は、 最良の独裁政治に勝る」というセリフがある。果たしてこれは真実と言えるのだろうか? 方や衆愚政治に陥った民主政治、方や優秀な人間による独裁政治。前述のセリフは理念としては立派である。しかし、背に腹はかえられぬという状況もあり得るし、なかなか判断が難しい。仮にカエサルみたいな有能な独裁者がいたとして、最悪の民主政治と最良の独裁政治、我々はどちらを選ぶべきなのか? 今の僕にははっきりとした答えが出せない。

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(1980)

★★★

語り手のハニチャは35年間、プラハの地下室で故紙や本を潰す仕事をしていた。具体的には、水圧プレスの緑と赤のボタンを押して紙を潰している。ハニチャは職場の本を読むことで心ならず教養が身についていた。彼はナチス政権と社会主義政権を跨いで生きており、その間マンチンカという女性やジプシーたちと関わっている。

そして今度は、僕がまた一人きりになり、孤独の中で仕事のメカニズムだけにはまって、肉蝿の紐に絶えず取り巻かれ鞭打たれていると、イエスウィンブルドンを制したばかりのテニスの優勝者に見え、一方、老子はすっかりおちぶれて、豊富な在庫があるのに何も持っていないように見える商人に似てきた。イエスのすべての暗号や象徴が持つ血まみれの肉体性が見え、一方、老子は経帷子を身にまとって、削っていない木の板を指しているのが見えた、イエスはプレイボーイで、一方、老子は分泌腺に見捨てられた独身老人であるのが見えた。イエスは命令するように手を上げて、力強い手振りで自分の敵たちを呪い、一方、老子は諦念の中で、折れた翼のように両腕を垂れているのが見えた。イエスロマン主義者で老子は古典主義者であり、イエスは上げ潮で老子は下げ潮であり、イエスは春のようで老子は冬のようであり、イエスは実効性のある隣人愛で老子は空虚さの頂点であり、イエスは未来への前進で老子は本源への回帰であるのが見えた……。(pp.57-58)

一つの章を一つの段落で語り切る大変密度の高い文章で、その記述は時に衒学的であり、時に幻想的でもある。本作はエピソードが断片的に散りばめられていて、特に一本筋が通った明確なストーリーはない。全体の長さは中編くらいだけど、文章が濃密で読み通すのにえらい骨が折れた。こういう前衛的な小説を読んだのは久しぶりのような気がする。

マンチンカのエピソードが面白かった。彼女はダンスホールの便所で自分の長いリボンと髪飾りを汚物まみれにしてハニチャと踊り、周囲に汚物を撒き散らして「クソまみれのマンチャ」とあだ名をつけられてしまう。その後、ハニチャと旅行したときには、片方のスキー靴の後ろに大きな糞をつけて歩くなんてこともする……。全体的に本作は暗いイメージなのだけど、こういうブラックユーモアを交えているところが何とも心憎い。マンチンカと縁が深い糞は、たくさんの鼠が生息する地下室とも呼応しているし。それと、冒頭で引用したイエス老子のエピソードも好きだ。ヨーロッパの小説でこの2人を同列に並べて語ったのって初めて読んだかもしれない。

20世紀に入ると、もう19世紀みたいな冒険はないんだなと思った。ハニチャは35年間、淡々と同じ仕事を繰り返しているわけで、つまり現代とはそういう時代なのだろう。生きるというのは長期にわたる労働の繰り返し。毎日自宅と職場を往復する。ハニチャは労働のなかにささやかな楽しみを見出しているけど、大抵の人にとって労働とは、この世に生まれ落ちたことに対する罰なのだと思う。それこそキリスト教でいう原罪を贖っているというか。サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と言っていたけど、我々が選択できる自由なんて実はそんなにない。生まれた国、生まれた時代、生まれた家庭によって生き方は限定される。自分の意思で「生きる目的」を掴み取るなんて幻想ではないか。普通の人は毎日の労働で疲弊してそれどころではないのだ。人間は自由の刑ではなく、不自由の刑に処されている。

ネット上の感想を見ると、「カフカ的不条理」という言葉を用いて本作を説明している人が多かった。けれども、この言葉って人によって意味合いが違うというか、定義が曖昧なまま何となく使われていると思う。

僕にとって「カフカ的不条理」は、ミラン・クンデラが『小説の技法』【Amazon】で述べた次の文章がしっくりくる。

カフカ的な世界では、書類はプラトンイデアに似ている。書類が真の現実の代わりになる一方で、人間の身体的な存在は錯覚のスクリーンに映された映像にすぎなくなるのだ。じっさい、測量士Kもプラハの技師も彼らの整理カードの影でしかないのだが、じつはそれ以下のものである。彼らは書類上の間違いの影、つまり影として存在する権利さえもない影なのだから。(p.143)

卑近な例だと、公的機関で何らかの手続きをするときに「カフカ的不条理」を感じる。確定申告とか、運転免許の更新とか。小市民的で申し訳ないけど……。

ミハル・アイヴァス『黄金時代』(2001)

★★★

民俗学者の「私」は大西洋の島に3年ほど滞在していた。島民たちは島に名前をつけておらず、さらには島民自身の名前がコロコロ変わっていく。「私」はそんなへんてこな島について語りつつ、話は脱線してパリ在住のチェコ亡命者が女泥棒を捕まえるエピソードを披露する。その後、「私」は島民たちがシェアする1冊の奇妙な「本」に出会うのだった。

島の「本」はその当初から芸術作品としては破綻していた。だが、ほぼ確実に言えるのは、島民たちもこの破綻を後押ししていたということだ。(……)今思うに、「本」は芸術を嘲笑するものであって、芸術のパロディだったのだろう。島民たちは芸術が好きではなかった。芸術という形は無形の信念の前に立ちはだかり、芸術の音は沈黙の音楽を遮断してしまうからだ。(p.333)

慣れというのは怖いもので、もはや欧米を舞台にした現代小説には異国情緒を感じなくなってしまったけれど、本作は現実にはあり得ない島を描いていて、異国情緒どころか異世界みたいな感覚をおぼえた。「私」が訪れた島はグローバリズムの波に飲み込まれておらず、独自の文化を維持している。これがとても不思議だ。というのも、だいたいこういう島って欧米の植民地にされて言語も文化も上書きされてしまうから。ところがこの島、かつてはヨーロッパから征服者が来たものの、彼らは島民に同化してしまったという。はっきり言って信じ難い成り立ちだ。まあ、フィクションだからこういう島があってもいいし、むしろ大歓迎ではある。特筆すべきは、島の地形に段差があって水の壁で区切られているところ。これが幻想的で僕も観光に訪れたいと思った。

しかし、実はここまではほんのプロローグに過ぎず、物語の半分に差しかかる第29章からが本番になる。ここで「私」は島民によって書き継がれている「本」に出会うのだった。その「本」には物語が書かれているのだけど、加筆に加筆を重ねて制御できない増殖と膨張を繰り広げている。挿入によって絶えずテクストが変化するところは、まるで無限に変化し続けるインターネットのようだ。僕はWikiを使ったリレー小説を連想したけれど、訳者あとがきではWikipediaが引き合いに出されていたので、自分が思いつくことは大抵他人も思いつくものだと軽く落ち込んだ。

まあ、それはそれとして、今読んでいるテクストは1年後には跡形もなく消えているかもしれない、1回限りの偶然によって出会ったものであり、後半で「私」が紹介している物語もそういう類のものだと考えると、何か世界の奥行きの深さに触れたような気分になる。人生には同じ瞬間などない、というどうしようもない真実に気づかされたというか。こういう「本」を読むことは最高の贅沢かもしれないと思った。千利休が言ったとされる「一期一会」がしっくりくる。

ところで、『もうひとつの街』ではサメが、本作ではダイオウイカがそれぞれ出てくるけど、著者は水生生物に何か愛着なり拘りなりがあるのだろうか。チェコには海がないのに……。

ウンベルト・エーコ『女王ロアーナ、神秘の炎』(2004)

★★★

1991年。もうすぐ60歳になる男が病院のベッドで目覚める。彼の名はジャンバッティスタ・ボドーニ(愛称ヤンボ)。ヤンボは事故で記憶喪失になっていた。彼は本を読んだり人から聞いたりして知るようなことは覚えているものの、直接的な体験に結びついたことは覚えていない。妻に迎えられて退院したヤンボは、稼業である古書販売業に戻る。その後、失われた記憶を取り戻そうと、幼少期を過ごした祖父の屋敷へ向かう。

こういうわけでぼくは祈る。「おぉ、よき女王ロアーナよ、あなたのうちひしがれた愛の名において、あなたの何千年ものいけにえをその石のような眠りから再び起こすのではなく、ただぼくにひとつの顔をお戻しください……。ぼくは強制的な眠りの最悪な潟から見るべきものを見ましたが、ぼくを救いの淵へともっと高く引き上げてください」(下 p.237)

横書きでカラー図版が多数盛り込まれた風変わりな小説だった。主人公のヤンボは素人とは思えないくらい博識で、文学作品や歴史的人物について多彩な言及をする。しかしその一方、自分のことといったら何一つ覚えていない。記憶を失う前は霧についての文章を蒐集しており、作中ではそれらが豊富に引用される。さらに、序盤から『白鯨』【Amazon】や『失われた時を求めて』【Amazon】などの小ネタも盛り込まれていて、まさに読書人の鑑といった感じだ。と、そんなインテリ男が自分探しをする過程で、子供時代を過ごしたファシスト政権期の大衆文化が紹介されていく。本やら歌やら絵やらがカラー図版でずばずば挿入されていく。こういう小説を世間では何と言うのか分からないのだけど、個人的にはリスト小説と呼んでみたい。

というのも、著者は『ウンベルト・エーコの小説講座』【Amazon】で次のように述べているのだ。

ラブレーによって、リストは「歪み」への純粋な愛にもとづく詩的なものへと変化しました。それ以前まで、リストは、あくまでも困ったときの「最後の手段」であり、何か言葉で言い表せないものがあるときに頼るものでした。それは、ある種の苦しみを抱えたもので、ランダムで統一感のない要素の集まりにいつか何らかのかたちで秩序を与えたいという静かな望みを孕むものでした。ラブレーは、「純粋なリストへの愛にもとづくリストの詩学」、すなわち「過剰なリストの詩学」を生み出したというわけです。(pp.200-201)

本作は特に祖父の家で過ごす第2部が「過剰なリストの詩学」に溢れていて、一人の男の人生を形作った「歪み」が提示される。ヤンボにはヤンボのリストがあって、僕には僕のリストがあって、みんなそれぞれ違った文化を栄養にして育っているわけだ。こういう自分史に絡めた大衆文化への偏愛は、たとえば堀江敏幸のエッセイが好きな人には堪らないものがあると思う。読書好きはリストも好きだろうから。第2部はちょっと読む人を選びそうだけど、「過剰なリストの詩学」と聞いてピンと来る人は問題なく楽しめるはずだ。

あと、第2部で面白かったのは、無政府主義者のグラニョーラが独自の神学論争を展開するところ。神を信じていないのかと思ったらそうではなく、神は邪悪だと主張している。神は人間を奴隷ではなく、自由意志を持った自由人として作った。自由意志があるゆえに、善を為すこともあれば悪を為すこともある*1。それについてパルチザンの活動と絡めてケチをつけていくところは、屁理屈この上ないと感心した。神について語らせたら、キリスト者の右に出るものはいないと思う。

16歳のときに恋した女が、ヤンボにとって永遠の女になっているのには苦笑した。たとえ40年連れ添った妻がいようとも、10代の頃の恋は特別なのだ。男は「名前を付けて保存」、女は「上書き保存」とはよく言ったもので、僕も概ねそういうところがある。ホント、男というのはどうしようもない生き物だ。いくつになっても思い出の中に生きている。

*1:この自由意志をテーマにした小説が、アントニー・バージェス『時計じかけのオレンジ』【Amazon】である。また、『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】に出てくる「大審問官」も自由意志をめぐる話。

ワシーリー・グロスマン『人生と運命』(1980)

★★★★

1942年。ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍の侵攻を食い止めていた。物理学者のヴィクトルは原子物理学の論文が評価されるも、ひょんなことから政治的危機に陥る。ドイツの捕虜収容所にいるモストフスコイは、収容所内で政治活動を展開することになる。軍医のソフィアはドイツの強制収容所に向かうユダヤ人移送列車のなかで、7歳の少年ダヴィッドと出会う。大隊コミサールのクルイモフは、戦場で濡れ衣を着せられて監獄に入れられる……。各自がそれぞれの人生と運命を歩むなか、ソ連軍はスターリングラードで大攻勢を始めようとしていた。

「罪のない人間などという考えは中世の遺物だ、錬金術だ。トルストイはこの世には罪ある者などいないと言ったが、われわれチェキストは、最高のテーゼを提唱したのだ。すなわち、この世に罪のない者などいないし、裁判にもちこめない者などいないというテーゼをね。令状の出される者は有罪であり、令状は誰に対しても出せる。どの人間にも令状をもらう権利がある。生涯にわたって他人に令状を出してきた人間だってそうだ。御用が済めばお払い箱なのさ」(vol.3 p.35)

ハードカバー全3巻・合計1400ページの大作。

作品自体は1960年に完成していたものの、KGBに原稿を没収されて生前の出版は叶わず、著者の死後に友人が秘匿していた原稿の写しが国外に持ち出されて出版されたという。そういう曰く付きの物件だけあって、ソ連に対する眼差しは極めてまっとうだった。ソ連ナチス・ドイツと大差ない抑圧的な政治体制であることは、西側諸国の人にとっては周知の事実だろう。しかし、ソ連国内でそれを指摘したらたちどころに弾圧されてしまう。社会主義体制の下では言論の自由などないのだ。最近、日本でもPC絡みで表現規制が話題になっているけれど、表現の自由を放棄することは、自分たちの社会をナチス・ドイツソ連と同等のものにすることであり、ファシズムの一翼を担っていることに気づいたほうがいいだろう。

本作は20世紀版『戦争と平和』【Amazon】と呼ぶにふさわしい重量級の小説である。『戦争と平和』がナポレオンによるロシア遠征を題材にしていたのに対し、本作はナチス・ドイツによるバルバロッサ作戦、厳密に言えばスターリングラード攻防戦を題材にしている。ただし、戦争が主体になっているかと言えばそうでもなく、戦時下に生きる人たちにスポットを当てることで、その時代の社会体制を包括的に捉えているような感じだ。本作には明確な主人公は存在しない。覚えきれないほどたくさんの人物が登場する*1。特徴的なのが、実在の人物と架空の人物を織り交ぜてひとつの世界を形作っているところだ。特にソ連ナチス・ドイツの双方を射程に収め、その鏡像関係を明らかにしているところは圧巻の一言だった。たとえば、ソ連は社会的出自によって差をつける。ブルジョワプロレタリアートのように。一方、ナチス・ドイツは民族的出自によって差をつける。アーリア人ユダヤ人のように。ソ連の中央集権体制は国家の利益に個人が供されるもので、これは言うまでもなくナチス・ドイツも同様だ。このように社会主義ファシズムには強い類似性が認められる。本作は20世紀後半の小説なのに既に古典の風格を漂わせているけれど、それはひとえに社会体制に対する問題意識がしっかりしているからだろう。

ある登場人物が「個人主義には人間愛などない!」と主張しているのにはぞっとした。個人よりも国家の優位性を認めることが社会主義リアリズムであるという。現代人の価値観からしたら実におぞましい考えだ。しかしながら、こういう思想は過去のものではなく、現代の民主主義国家にも未だに燻っている。ヨーロッパでは極右政党が台頭しているし、日本においても状況は他人事ではない。世界はまた暗黒の時代に後戻りするのではないかと不安になっている。

*1:巻頭にある登場人物一覧には助けられた。