海外文学読書録

書評と感想

コルム・トビーン『ブルックリン』(2009)

★★★

1951年。アイルランドの田舎町エニスコーシーに住むアイリーシュは、まともな就職先がないなか、地元の個人商店で週一の仕事をする。その後、神父の伝手でアメリカに渡り、ブルックリンの百貨店で働くことになるのだった。アイリーシュは下宿先で自分と同じアイルランド人娘たちと交流、ホームシックになったのを機に簿記の夜学に通う。生活が軌道に乗ったある日、彼女はダンスホールでイタリア系のトニーと出会い、彼と恋仲になる。

わが家は悲しみで溢れている。たぶんわたしが気づいている以上に。アイリーシュはそう考えて、それ以上悲しみを増やさないようつとめた。母親とローズがごまかせない相手だというのはわかっていたが、アメリカへ発つ日まで涙を閉め出さなければならないもっと大きな理由があった。涙なんか必要ない。その日まで、その朝まで、微笑みを絶やさずにおくこと。そうすれば、ふたりがわたしの微笑みを覚えておいてくれるから。(p.47)

歴史小説といえば歴史小説だけど、その手のジャンルにありがちな動乱の時代を題材にしているわけではない。一方ではキリスト教の伝統が残りつつ、一方では大量消費社会への道が開けていく時期を書いていて、当時の文化や生活の有り様*1を活写しているところが興味深かった。エニスコーシーとブルックリンの違いは、アイリーシュが仕事をした個人商店と百貨店の違いに表れている。前者が店主の好みによって客を選別しているのに対し、後者はお金があればたとえ黒人だろうと区別をしない。これがエニスコーシーとブルックリンの差であり、田舎と都会の差である。資本主義を推し進めていくと、人種差別は市場の働きによってなくなるのかと感心したのだった。というのも、お金の前では皆平等だから。この時期はブルックリンに黒人の住民が増えて、百貨店にも彼らが来客するようになったという背景がある。本作はこういう社会的トピックと、アイリーシュが出会う人たちの個性が光っていて、著者の職人芸的な筆致が冴え渡っていた。特に女の性悪な部分にリアリティがあったと思う。

終盤はアイリーシュが2人の男のうち、どちらと結ばれるのかという興味で引っ張っていて、これが予想もつかずとてもスリリングだった。結婚制度というのは残酷で、たとえ結婚後に運命の人と出会っても、その相手と結ばれることはできない。今だったら離婚して再婚するという選択肢があるけれど、キリスト教の伝統が色濃く残る当時のエニスコーシーではそれも不可能なのだった。婚姻届というたった一枚の紙切れで、こんなに人生の幅が狭まってしまうとは何て理不尽なのだろう。結婚とは一生ものの選択なので、一時の感情に流されてはいけない。じっくり考えて決める必要がある。アイリーシュは身をもって痛感したに違いない。

海外文学を読むことは、擬似的に異文化交流をすることなんだなと改めて思った。訳者あとがきには、「読者はページを繰るうちに、アイルランド人特有と思っていた心理の機微が、日本人の伝統的な心性ときわめて似通っていることに気づくだろう。」(p.338)と書いてあるけれど、そんな共通点なんかはまったく目に入らず、むしろ相違点ばかりが心に残った。やはり場所も違えば時代も違う。アイルランド人のアイリーシュがイタリア人のトニーと異文化交流するように、僕も本書と時空を超えて異文化交流したのだった。

*1:若者の娯楽がダンスというのが何ともツボだった。映画で見た世界だ。

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(1975)

★★★

第二次世界大戦期。ロサンゼルス出身のヘンリー・チナスキーは、ニューオリンズやニューヨーク、フィラデルフィアなど、アメリカ各地を転々としながら、酒と女に溺れつつその日暮らしをする。彼は様々な仕事に就くも長続きしない。戦争が終わってもその生活は変わらず、就職してはクビになりを繰り返している。彼は作家になることを目指して雑誌社に短編を送っていた。

点呼は続いた。こんなに仕事の空きがあるってのはいいもんだな、とおれは思った。でも同時に心配もした――きっとおれたち、何か競争させられるんだ。適者生存だ。アメリカにはいつも、職探しをする人々がいる。使える体は、いつでも、いくらでもいる。そしておれは作家になりたいのだ。ほとんどすべての人間は作家だ。歯医者や自動車の修理工になれるだろうなんて、全員が思いやしない。でも、自分は作家になれるとみんな知っているのだ。この部屋の五十人の男の中でたぶん十五人が、おれは作家だと思っていることだろう。ほとんどすべての人間が言葉を使い、それを紙に書くことが出来る。つまり、ほぼ全員が作家になれるのだ。しかし幸運なことに、ほとんどの人間は作家ではなく、タクシー運転手ですらなく、そして何人か、かなり多くの人間は不幸なことに、何者でもないのだ。(p.217)

日本だと私小説にカテゴライズされそう。語り手のヘンリー・チナスキーは、無頼派と言えば聞こえはいいが、酒と女に溺れるわ、仕事は長く続かないわで、要はだめ人間である。俗に言う「だめんず」ってやつ。とはいえ、職を転々としつつもちゃんと働いて自活しているのだから、昨今のニートよりはマシかもしれない。目立った金銭トラブルもないし、反社会的勢力に属しているわけでもない。ただ、生き方の多様性という面で考えれば、社畜もニートもチナスキーも別に大差ないだろう。一度きりの人生みんな好きに生きればいいと思う。人生に正解などないのだから。

とまあ、本作を読んでいるとそんな鷹揚な気分になってくる。なぜだろう? これはおそらく僕自身、チナスキーみたいな生き方に憧れているからかもしれない。というのも、僕が義務教育を受けていた時代は、工場労働者やサラリーマンを養成するような教育をしていて、集団生活を通して組織への従順さが求められていた。そこから外れる者は不良品として扱われ、チナスキーみたいな生き方は悪だと刷り込まれていた*1。今思えばこれは一種の洗脳だが、さすがに子供だった当時はそれに気づかない。その後、大人になって世界を知ってからは、自分は何て狭い価値観のなかで生きていたのだろうと思い知ったのだった。世の学生たちは見聞を広めるために海外留学すべきだと思うが、さすがにそれは金がかかるので、せめて海外文学を読んで自分の価値観を相対化するといい。自分の知っている世界がすべてではないと分かると、人生を生き抜くうえで大きな強みになる。

それにしても、本作を読んでアメリカは移動の文化なのだと思った。チナスキーは一つの場所に定住せず、ロサンゼルスやらニューヨークやらマイアミやら、アメリカ各地を転々としている。まさに『オン・ザ・ロード』の前史という感じ。それと、戦時中なのに平時とあまり変わらない生活をしているのにも驚く。普通に外出の自由があって経済が回っているし、憲兵が幅を利かせているということもない。こういう国に戦争を吹っかけたのは間違いだったとため息が出る。

*1:ブルーハーツの「ロクデナシII」という曲に、「どこかのエライ人 テレビでしゃべってる/『今の若い人には 個性がなさすぎる』/僕等はそれを見て 一同大笑い/個性があればあるで 押さえつけるくせに」という歌詞が出てくるが、まさにそんな感じの教育だった。

陳浩基『世界を売った男』(2011)

世界を売った男 (文春文庫)

世界を売った男 (文春文庫)

  • 作者:浩基, 陳
  • 発売日: 2018/11/09
  • メディア: 文庫
 

★★

2003年の香港で、夫と妊婦が惨殺された殺人事件が発生、許友一巡査部長もその捜査に携わっていた。ところが、許が前日の二日酔いから車の中で目覚めると、一晩のうちに世の中は2009年になっていた。どうやら記憶喪失になったらしい。そこへ雑誌記者の女性が取材のために許の元を訪れ、2人は一緒に6年前の事件の関係者に会いに行く。犯人は逃走中に事故死していたが、許は彼が主犯ではなく、他に共犯がいるのではないかと疑う。

「阿一、警官にとって一番大切なことはなんだと思う」

「市民の保護ですか? それとも犯罪者の処罰でしょうか?」

「ははっ。今日、警察学校を卒業したわけじゃあるまいし、そういう表向きだけの模範解答は昇級したあと上司の前で言うために取っておけって。いいか、警官にとってもっとも重要なのは、自分の命を守ることだ」(p.40)

島田荘司推理小説賞というのが台湾にあるようで、説明文によると中国語の作品を対象にしているようだ。本作はそれの受賞作だけど、何というか悪い意味で日本のミステリ小説みたいだった。

要するに、サプライズのためのサプライズにあまり感心しなかったのだ。本作は記憶喪失を巡る謎と殺人事件の真相が主な焦点になっているのだけど、前者の部分が作為的というか、三人称による全知の語りで、さらに過去の挿話を入れる構成で、こういうあからさまな錯誤を作るのはないだろうという不満がある。たとえば、これが一人称視点なら、信頼できない語り手ということで納得できる。しかし、これが三人称による語りだと、わざわざこういう錯誤を作ることの必然性が感じられない。結局はサプライズのためのサプライズじゃんって思ってしまう。僕は物語の自然な運動の先にサプライズがあるべきだと思っているので、こういう手段を選ばないタイプの小説はあまり評価できないのだった。

日本のミステリ小説は新本格の登場以降、大人の読むに堪えうるものではなくなってしまったため*1、僕はもうジャンク品だと割り切って読むことにしている。だから国内ミステリへの要求水準はとても低い。それなりに形になっていれば、読み捨て本として及第点を与えることにしている。その反面、海外ミステリに対しては大人の観賞に堪えうるものを求めているので、どうしてもクオリティの高さが気になってしまう。いくらアジアがミステリ小説の後進地域とはいえ、日本の安っぽい小説を手本にするのはどうかと思うのだ。どうせなら欧米の本格的な小説を真似てほしいところである。

なお、本作の3年後に書かれた『13・67』はオールタイムベスト級の傑作。作家とはこんな短期間で成長するものかと感動したのだった。

*1:ただし、横山秀夫は例外。彼の登場によって警察小説のハードルは格段に上がった。

閻連科『硬きこと水のごとし』(2001)

★★★

文化大革命期。程崗鎮に住む農民・高愛軍は、村の有力者の娘婿になった後、軍に入隊して穴掘りをしていた。彼は除隊後に夏紅梅という若い女と運命的な出会いを果たす。夏紅梅は鎮の有力者の息子と結婚していた。高愛軍と夏紅梅は相思相愛になり、2人で革命の成就を目指す。高愛軍はある事件を機に村の支部書記になり、副鎮長にまで出世するのだった。彼は鎮長を追い落とそうと画策するが……。

そのとき、彼女は突然サッと彼女の両足の間を覆っていた服を投げ捨て、フウッと息をすると俺の前に全裸を曝した。彼女の顔は革命者としての固い信念と何者をも恐れない気概に満ち、何も眼中にない自信と傲慢さで輝いていた。「愛軍、見たいところを見て、見たいように見て、今から空が暗くなるまで、暗くなってから夜が明けるまで、明日まででも明後日まででも」彼女は続けた。「ここで瞬きもせずに三日三晩見てもかまわない、もし食べるものがあったら、一生この墓から出なくもいい、あたし夏紅梅は頭のてっぺんから足の先まで、髪の毛一本、産毛一本まで一人の革命者、あなた高愛軍に捧げるわ」(p.94)

革命と恋愛が渾然一体となった奇妙な小説だった。語り手の高愛軍は何かにつけて毛沢東の言葉を引用する生粋の革命家だけど、実は革命を立身出世の道具にもしていて、本音と建前の境界が曖昧である。農民からの下克上が目的のようにも思えるし、革命を本気で信じているようにも思えるし、その真意は測りかねる。あるいは、この2つは矛盾しないのかもしれない。既存の秩序をひっくり返しつつ、ちゃっかりおこぼれに与りたいのが人情だろう。古今東西の革命を思い返してもみても、そういう面は否定できない。

高愛軍のパートナーになるのが美女の夏紅梅で、彼女は愛人に対して驚くほど従順だ。中国文学と言えば、気の強い女性が連れ合い相手に罵声を浴びせたり悪態をついたり、そういうたくましさが前面に出ている場合が多いけれど、夏紅梅はその枠からはみ出している。何というか、「一生あなたの後を付いていきます」みたいな健気な性格。お互いの家と家を結ぶ地下道で逢瀬を重ねるところなんかとてもロマンティックで、僕の抱いていた中国人女性のイメージとはだいぶかけ離れていた。物語を通して2人がまったく喧嘩をしなかったのは特筆に値する。

18世紀イギリスの保守政治家エドマンド・バークは、『フランス革命省察』【Amazon】という著書のなかで、フランス革命のような急進的な改革を否定的に論じていたけれど、もし彼が文化大革命を目の当たりにしたら、自説の正しさをより強く確信したはずだ。およそ保守主義からは程遠い僕でさえ、社会は漸進的に良くしていくべきだという主張にはそれなりの説得力を感じる。たとえば、日本でも格差社会が問題になっていて、これは早急に解決すべき事案ではあるけれど、だからと言って階級闘争に仕立て上げて天地を逆さまにするのはやりすぎだと思うし。その一方、北朝鮮みたいに民衆が抑圧されている国では、武力による革命が必要だとも思う。結局、革命は否定すべきなのか、それとも必要悪として容認すべきなのか。それを判断するのはなかなか難しい。

毛沢東の個人崇拝を利用した監獄特殊拘置室にはぎょっとした。床に彼の肖像画が敷き詰められていて、それを踏むと罪になるという仕組み。およそ文明国とは思えないトチ狂った社会システムに驚かされる。そもそも高愛軍と夏紅梅がここに閉じ込められた理由もすごく下らなくて、まるでディストピア小説を読んでいるような気分になった。中国というのはつくづく深い闇を抱えた国だと思う。

ニック・ホワキン『二つのヘソを持った女』(1961)

★★★

香港。獣医師のペペは両親がフィリピン人だったものの、彼自身は一度も祖国の土を踏んだことがなかった。そんな彼の元にフィリピンから名門一族の娘コニーが訪ねてくる。彼女は自分のお腹にヘソが2つあるので手術してほしいとコニーに依頼する。その後、コニーの母コンチャがペペのもとを訪問、自分たちのことを語る。コニーは夫を捨てて香港に家出してきたのだった。

「人間の肉体ってなにかの印をつけられていることはないんでしょうか――どこからきたのかわからないなにか不思議な印を?」

「聖痕という意味ですか?」

「そんなことはないとお思いになる――」

「よろしいか、聖痕は聖痕だけに神が特別なお恵みとしておあたえになったものです。それに、われらの主が、そんな……そんな……奇妙なことをお許しになるようなあらっぽい方では決してないとわたくしは思います……えー……こともあろうに、そういう想像をするなんて!」(pp.150-151)

本作の中心にあるのは親子関係の悲劇で、コニーがいかにして救われるかに焦点が当たっている。その一方、サブプロットとしてフィリピンの歴史にも触れていて、同国に馴染みがない者としては刺激的だった。フィリピンは1565年から1898年までスペインの植民地で、以降1946年までアメリカの植民地になっている(太平洋戦争中は日本軍に占領された)。言葉もスペイン語から英語に切り替わっているし、アメリカの方針によって原住民のキリスト教化が推進された。現代では日本人がセブ島に英語の語学留学をすることから、フィリピンはアメリカ文化の国というイメージがある。しかし、実はその地層の下の部分にはスペインがあって、その上にアメリカが乗っているのが実態のようだ。本作の舞台は第二次世界大戦後だけれど、過去の話として1900年頃からの闘争が話題になっていて、この国が植民地だったことを否が応にも意識させる。太平洋戦争中も苦労があったようで、戦後に帰ってみたら家が滅茶苦茶になっていたというエピソードもある。戦禍に巻き込まれるのは金持ちも庶民も変わらない。フィリピンについてはあまり詳しくなかったので、歴史的なエピソードはなかなか新鮮だった。

コニーには本当にヘソが2つあるのか? というのが当面の謎になっていて、僕もそれが知りたくて知りたくて仕方がなかった。ある場面では、人生から目をそむけるための作り話ではないか? という疑惑が出てくる。しかし、誰もヘソを確認してないので真偽が分からない。また、コニーは小さい頃、ぬいぐるみを池に捨てて、泥棒に盗まれたと親に嘘をついたことがあった(それはビリケンを手に入れるためだった)。実は2つのヘソもその延長上ではないか? コニーには虚言癖があるのではないか? ……とまあ、そんなこんなで読んでいるこちらの好奇心が掻き立てられる。いずれにせよ、コニーには親子関係、さらには夫婦関係に問題があることは確かで、そのことを幻視的なヴィジョンで示すところは圧巻だった。異なる場面場面をシームレスに繋ぐ手法で、彼女の内的世界に迫っている。

自分が救われるためには、とことん利己的にならなければいけない。たとえモラルに反しても、誰かを傷つけることになっても。この部分を読んで、ヘンリク・イプセン『人形の家』【Amazon】を思い出した。同作ではノラという人妻が、家庭という檻から逃れるために子供を捨てて家を出ている。こういうのってキリスト教の一般的な考え方なのだろうか? 本作では、堕落すればするほど上昇して悔い改める可能性がある、みたいなことを神父が述べていて、随分と倒錯していると思った。