海外文学読書録

書評と感想

E・M・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』(1905)

★★★

ソーストンの中産階級に嫁いだリリアは、娘アーマを産んでからしばらくして夫を亡くす。リリアとアーマは、夫の家族であるヘリトン家の干渉を受けながら2人で暮らしていた。そんなあるとき、リリアは年下のアボット嬢とイタリアへ旅行することになる。イタリアからヘリトン家にもたらされたのは、リリアが現地人と婚約したとの知らせだった。一家は急遽、長男のフィリップを派遣する。

母親はあまり論理的ではないとフィリップは思ったが、そんなことを言っても無駄だった。「『新しき人生ここに始まる』。覚えてますか? リリアを見送ったときにみんなで言った言葉です」

「覚えてますよ。でも、これがほんとうの『新しい人生』です。ヘリトン家がひとつになったんですもの。あのときは、おまえはまだイタリアに夢中でした。イタリアには美しい絵や教会がいっぱいあるかもしれませんが、国の価値は、そこに住む人間の価値によって決まるんです」(p.87)

著者のデビュー作。2つの異なる価値観をぶつけるというお得意のテンプレはデビュー作から確立していて、今回はイギリスの中産階級とイタリアの労働者階級をぶつけている。ヘリトン家の長女ハリエットは文化の違いに馴染もうとしない保守的なイギリス人だし、リリアと結婚したジーノは金目当ての結婚であることを隠さない享楽的なイタリア人である。唯一この2人の架け橋になりそうなのがヘリトン家の長男フィリップで、彼はイタリアかぶれの若き弁護士だ。現代文学では「何を書くか」よりも「どのようにして書くか」が重視されるけれど、本作の場合はちょうどその逆で、「どのようにして書くか」よりも「何を書くか」のほうに興味が向くようになっている。イギリス人とイタリア人、中産階級と労働者階級。この水と油のような両者が交わることでどのような化学変化を起こすのか。本作は単純なプロットでありながらも先が気になるような小説だった。

序盤で主要人物を唐突に殺すところもお得意のテンプレという感じ。こういうサプライズを盛り込んだ展開って、古き良き英国文学でもなかなか珍しいのではないかと思う。その一方、婚約を巡ってドッタンバッタン大騒ぎするところは、ジェイン・オースティンP・Gウッドハウスといった伝統的な英国文学を連想させる。E・M・フォースターって自分が作ったテンプレを後々まで頑なに踏襲しているけれど、彼が文学史の中でどのように位置づけられているのか、ちょっと気になってしまった。

強い信念がある人間ほど過ちを犯す。特にその信念が信仰心に裏打ちされている場合は。宗教というのは道徳心を育む反面、行き過ぎた正義感によって視野狭窄を起こすこともあって、これは一筋縄ではいかない劇薬ではないかと思った。終盤でハリエットがやったことは絶対に許されないことで、宗教が彼女をここまで歪ませたと考えると、まったくぞっとする話である。こういうのを読むと、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認したのは間違いだったのではと思ってしまう。実は同じことを、『ローマ人の物語』【Amazon】を読んだときも思ったのだった。今すぐタイムマシンに乗って歴史を修正しに行きたい気分だ。

本作の欠点は、キングクロフト氏の扱いだろう。彼は未亡人になったリリアと親密な関係を築いた紳士で、そのあらましを読む限りでは重要人物と言ってもいいほどである。リリアの良き理解者として、彼女と手紙のやりとりをするキングクロフト氏。しかし、そんな彼も序盤のサプライズの後に影を潜めてしまい、以降本筋にまったく関わってこないのだった。これじゃあ、いったい何のためにああいう人物を造形したのか分からない。本作はまだまだ習作という感じだった。

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』(2005)

★★★

〈内ホーナー国〉は国民が一度に1人しか入れないほど小さく、残りの6人は、〈内ホーナー国〉を取り囲んでいる〈外ホーナー国〉内に設定された〈一時滞在ゾーン〉に身を寄せ合っていた。あるとき、〈内ホーナー国〉の土地が縮んでしまう。外ホーナー人のフィルは、自分たちの領土にはみ出してきた内ホーナー人から税を徴収することを提案、容赦なく金品を取り立てる。その後、彼は筋肉ムキムキの2人組を部下にして独裁権力を手に入れるのだった。

「わが民よ!」フィルは耳をつんざくほどの大音声で言った。「この者どもがこの世に存在するかぎり、彼らはわれわれに何度でも牙をむくであろう! よって、われわれが完全な平和を見るためには、彼らに完全に消えてもらうしかない! 完全に、永遠に、徹底的にだ! さあ、これよりわれわれは永遠の平和を実現しつつ、同時に卓越した経済観念も発揮しようではないか。すなわち向こう五日ぶんの税金を前倒しで徴収する、すなわち彼らの国の全資産を今この場で没収するのだ!」(p.115)

人間じゃないよく分からない機械生命体を用いた寓話。独裁権力を風刺した内容で、訳者あとがきでは『動物農場』【Amazon】が引き合いに出されている。

権力を得るにはまず周囲からの承認があって、さらにそれを維持・強化するには暴力が必要不可欠となる。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』【Amazon】の中で、ある主体が国家になるためには暴力の独占が必須の条件になる、みたいなことを述べていた。確かにその通りだと思う。北朝鮮や中国のような特殊な例を挙げるまでもなく、日本やアメリカといった現代の民主主義国家にも例外なく当てはまっている。地球上にあるどの国も、警察や軍隊を国家が独占しているから国家として成り立っている。我々が法律に従うのも背景に暴力があるからで、権力は暴力の独占によって維持されているわけだ。問題はどうすれば独裁になってしまうかだが、本作はそこのところを的確に捉えて風刺している。

僕が初めて権力について考えたのは小学3年生のときだった。ある日、全学年が校庭で運動会に向けて行進の練習をしていたのだが、その最中に後ろにいた人とふざけ合いをして教師に見つかり、群衆の輪から連れ出されて練習を見学させられる羽目になった。そのとき、教師に見学を強制されたことに驚いたし、さらには練習を外から眺めていて名状し難い違和感をおぼえた。同じ服装、同じ体操服を着た子供たちが、不自然な集団行動に従事している……。なぜ、我々はこんなことをさせられているのだろう? 整然と行進することに何の意味があるのだろう? 大人になった今だったらこれを北朝鮮マスゲームになぞらえているところだが、小学3年生の僕にはそんなこと思いもつかない。この気持ちの悪い秩序を支えているのはいったい何なのか。これが権力――当時は権力という言葉もろくに知らなかったが――を意識した初めての出来事だった。その背景に教師による暴力の独占、国家から承認された暴力の独占があることは、大人になった今だからこそ分かることである。学校とは国家の内側にある閉鎖的なプチ国家であるから。

というわけで、国家を支えているのは暴力であることを再認識させられたのだった。

マルカム・ブラドベリ『超哲学者マンソンジュ氏』(1987)

★★★★

無名の哲学者マンソンジュ。しかし、彼がいなかったらエーコも知られぬまま終わっていただろうし、デリダが生まれることもなかったと言われている。マンソンジュは自身を不在の神と称し、著書に自分の名が印刷されることも禁じていた。彼は性をテーマにした『フォルニカシオン』を刊行後に忽然と姿を消している。学者のブラドベリが、そんなマンソンジュのことを評伝形式で語っていく。

今日、世界の大都市で開かれる学会やカクテルパーティーにおいて、ラカンを受けてデリダで返すこともできぬとすれば、あるいはフーコーの一撃をクリステヴァでフォローすることもできぬとすれば、それはいささか間抜けな話、否、純然たる愚といわねばなるまい。(p.42)

これは面白かった。同時代の現代思想を題材にしているところがたまらなくレトロでいい。僕が哲学に興味を持っていた学生の頃は、ソーカル事件によって既に現代思想は死に体だったので、本作が構造主義脱構築を生き生きと語り、ソシュールデリダフーコーなどに喜々として言及するところに、幸福な時代の空気を感じて思わず涙が出そうになった(大嘘)。本作は一種の偽史というか、思想史にマンソンジュという架空の人物をねじ込んだ評伝で、虚構である彼の思想を存在するものとしてもっともらしく語っている。様々な思想家や哲学者の名前が飛び交うその衒学的な内容は、読む人が読めば懐かしさと同時に感動を呼び起こすこと間違いないだろう。僕は世代的にニュー・アカデミズムの栄光には浴さず、『構造と力』【Amazon】は既に時代遅れの古典に成り果てていた。義務的にレヴィ=ストロースフーコーは読んでいたものの、それらを引用するのは恥ずかしいという風潮があった。大学の哲学科は精神疾患者の溜まり場で、みんな哲学よりも薬物――向精神薬脱法ドラッグ――に詳しかった。僕は哲学科の人間ではなかったのでその闇については詳しくないけれど、文系の中でもっとも拗らせていたのが哲学科だったと記憶している。そして、本作はそんな知的病人が、あの時代は良かったと思いを馳せるための小説と言えるかもしれない。80年代、それは哲学にとって何て幸福な時代だったのだろう!

ロブ=グリエビュトール、サロートといった新しい作家たちの小説は、リアリズムの伝統に全面的異議を唱え、リアリズムとは外の世界に何かがあると思い込んでいる人々のでっち上げにすぎないことを暴こうとした。ヌーヴォー・ロマンサルトルカミュの悲劇的ヒューマニズムを退け、小説は悲劇にかかわるものでもヒューマニズムにかかわるものでもなく、ロブ=グリエの言を借りれば、ただ単に「世界ののっぺらぼうの、無意味、無精神、無道徳な表面」を提示するだけだと宣言する。ということはつまり、小説というものが、ただ単にそこにあって年中われわれを睨みつけている事物によって――〈ショーズ〉によって、と当時は言ったものである――成立するということになる。もっとも、さらにいえば、そもそもこの新しい小説は内面という異端を退けるものであるからして、そこにはもはや睨みつけられるべき「われわれ」もありはしない。実際、いまや小説は、思考し、物事の意味を構築する「人物」をもつことができなくなってしまった。その代わりに、家具とか虫の死骸とかが物語の責任を負わされるべく導入され、しばしば決して自分に向いてはいない役柄を演じる破目になった。ヌーヴォー・ロマンはまた、超越論的なものを退け、ロブ=グリエも言ったように「形而上学の彼岸への序曲」たることを拒んだ。かくして小説は大きく変容し、ポストモダン的状況のなかに置き去りにされた。小説がその状況のなかで茫然と立ちつくすのを、いまなおわれわれはしばしば目にするのである。(pp.97-98)

ところで、以上はヌーヴォー・ロマンについて要点を押さえた簡潔な説明であり、同時に僕がなぜヌーヴォー・ロマンが苦手なのかも明らかにされている。仏文科も哲学科に負けず劣らず拗らせた人間が集まっていたけれど、それについてはまた別の機会に語ることにしよう。ヌーヴォー・ロマンについてもおいおい語っていきたい。今回はメモとして上の文章を載せておく。

とりあえず、こういうメタフィクションってたまに読むとすごく面白いということが分かった。本作の語り手はいかにも学者らしく、ボルヘスナボコフベケットに関心を寄せている。読者もその3人が好きな人向けになりそう。また、現代思想が輝いていた時代を存分に味わいたい人にもお勧めである。こういうのは古びているからこそかえって新しいのだ。今後、一周回ってまたブームが来るかもしれない。

ポール・ハーディング『ティンカーズ』(2009)

★★★

80歳のジョージ・ワシントン・クロスビーは退職後に時計修理の仕事をしており、現在は死の床にあった。彼が子供の頃、父のハワードは貧しいセールスマンをしていたが、ジョージが11歳だった1926年のクリスマスイヴ、癲癇の発作を起こして倒れてしまう。介抱するジョージの指をハワードが噛んだため、ハワードの妻キャスリーンは密かに夫を精神病院に入院させようとする。それを知ったハワードは家出をするのだった。

塗料がはがれかけている安物の皿を太陽が照らす――俺は鋳掛け屋(ティンカー)だ。月は葉のない木立の巣のなかで輝く卵だ――俺は詩人だ。精神病院のパンフレットが化粧箪笥の上にある――俺は癲癇病み、狂人だ。俺は家をあとにしている――俺は逃亡者だ。(p.131)

ピュリッツァー賞受賞作。

このブログでも何度か書いている通り、アメリカ文学アメリカを語るか家族を語るかのどちらかが多いけれど、本作は後者に属する小説だった。のっけからジョージの余命があと8日と宣告されていて、それが段々とカウントダウンしつつ、父親ハワードのエピソードが挿入される。基本的には全知の語り手による三人称視点だけど、時々ハワードの一人称で語られる部分もあって、この辺は変幻自在という感じだ。他人の人生について覗き見するような楽しみがある反面、現代文学らしいギミックが効いていて、「何を語るか」と「どのようにして語るか」が程よく両立している。普通のやり方では語らない、ちょっと気の利いた小説だった。

ハワードと隠者ギルバートのエピソードが印象に残っている。森の中に住むギルバートは、虫歯になってハワードにそれを抜いてもらう。実はこのギルバート、ナサニエル・ホーソーンと大学の同級生だったことが自慢なのだけど、もしそれが本当だとしたら、120歳くらいじゃないと辻褄が合わないとハワードに一蹴される。実にアメリカ人らしい大法螺だと思っていたら、ハワードの家にあった『緋文字』【Amazon】の本扉にギルバートへの献辞が書かれていた……。これはいったいどういうことだ、と狐につままれたような気分になった。

2つ上の段落で書いたように、本作には他人の人生を覗き見するような楽しみがある。虚構の中に生き生きとした人間、ひいてはそれを支える世界が存在しているのが堪らないというか。しかも本作の場合、本人の人生のみならず、そのルーツである父親の人生にまで遡っていて、通常よりも奥行きが深い。思うに、レイモンド・チャンドラーロス・マクドナルドの私立探偵小説が好きな人は、意外とはまるのではなかろうか。特にロス・マクドナルドの小説では、事件を通して家族の歪みを明るみに出すという文学と親和性のある内容になっている。秘密を知りたい、物語を知りたい。こういう好奇心ってどうしようもない人間の性なのだろう。余談だが、この覗き見趣味を露悪的に描いたのがジェイムズ・エルロイで、その情熱は他の追随を許さないものがあって引き込まれる。

本作はラストが良かった。ジョージもハワードも死の運命からは逃れられないのだけど、その中でも最上の結末で、これはハッピーエンドと言ってもいいくらいだと思う。とても清々しい気持ちになった。

ジェイムズ・ボールドウィン『もう一つの国』(1962)

★★★

マンハッタン。ハーレムでジャズバンドのドラムを叩く黒人ルーファスは、南部からやってきた白人レオナと肉体関係を結び同棲する。やがてルーファスはレオナを虐待、発狂した彼女は家族によって南部に連れ去られる。失意のルーファスは投身自殺をするのだった。その後、ルーファスの友人にして白人のヴィヴァルドは、ルーファスの妹アイダと恋仲になる。さらに、彼らの友人にして白人のキャスは、作家になった夫のリチャードと上手くいかなくなり……。

「たいした愛だな」と、リチャードは言った。

「リチャード」彼女は言った「あなたとあたしは、お互いに相手を傷つけあった――難度も何度もね。ときには意識しないでそうなったこともあるし、ときには意識してやったこともあった。あれは、お互いに相手を愛していたから――愛していればこそ――じゃなかったかしら?」(p.104)

黒人と白人が普通にカップルになっているところと、何人かの男性陣がバイセクシャルで男と寝ているところが衝撃的だった。60年代のニューヨークってこんなに進んでいたのだ。公民権法が制定されたのが1964年だから、公民権運動はまだ存在していたはずなのに、本作にはそういうのが欠片も出てこない。仲間内では白人と黒人が対等に付き合っており、人種絡みの災厄は外側からたまに来るくらいである。

まず黒人のルーファスと恋仲になる女が、人種差別が色濃く残る南部出身の白人レオナで、ここでは黒人が白人に対して加害者になっている。すなわち、ルーファスがレオナを虐待して発狂させている。最近は奴隷制度下のアメリカを舞台にした小説ばかり読んでいたので、この構図はなかなか新鮮だった。仮に南部でこんなことをしたら、ルーファスは近隣住民によって吊るされていたことだろう。

ルーファスが自殺した後は、白人のヴィヴァルドが黒人のアイダと付き合う。こちらはなかなか複雑な心理状態が展開していて、ヴィヴァルドは自分が黒人を愛しているのは軽蔑されないためではないかと悩んでいるし、アイダに至っては人種問題をこじらせ、白人への憎しみをヴィヴァルドにぶつけている(実はルーファスもレオナに同種の憎しみをぶつけていたのだった)。2人に重くのしかかっているのがルーファスの死で、これが終盤まで尾を引いてそれぞれを悩ませている。

エリックというゲイの俳優がフランスから帰国してからは、同性愛も重要なファクターになる。エリックはかつてルーファスに自分と関係するよう持ちかけていたが、すげなく断られた過去を持っていた。ヴィヴァルドはエリックと寝ることで、自分の性的嗜好は異性愛なのだと確認する。一方、エリックは人妻のキャスと寝ることで、自分は同性愛者なのだと自覚することになる。エリックにはフランスに残してきた恋人の男がいて、彼がアメリカに来るのを待っていた。

というわけで、ここまで人種間の恋愛、同性間の恋愛が描かれた小説を読んだのは初めてのような気がする。しかも、60年代にこういう小説が書かれていたことに驚いた。結局のところ、我々は恋愛なりセックスなりを通して自分の知られざる一面を確認するわけで、その回路を通常よりも複雑にしたのが本作なのだろう。僕は本作を読んで、自分が保守的な人間であることを自覚した。人種間や同性間の恋愛に衝撃を受けているようではまだまだ甘ちゃんである。すごい世界を垣間見てしまった、というのが率直な感想だ。