海外文学読書録

書評と感想

イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』(1982)

★★★★★

デル・バージェ家の末娘クラーラは、念力や予知能力といった超能力を持っていた。彼女は家族の死を予言し、その結果、姉のローサが毒を飲んで死んでしまう。自責の念にかられたクラーラは9年間の沈黙の後、ローサの婚約者だったエステーバン・トゥルエバと結婚する。エステーバンは荒廃した農場を再興して金持ちになっていた。やがてクラーラは3人の子供を産む。

「金ならあり余るほどあったのに、どうしてあんな暮らしをしていたんだろう」と彼は大声で言った。

「それ以外のものがなにひとつなかったからですわ」とクラーラが穏やかな口調で言葉を返した。(p.206)

ハードカバーで読んだ。引用もそこから。

百年の孤独』【Amazon】のような複数世代にわたるファミリー・サーガ。こちらも読み物として充実した内容だった。こういう理屈抜きで楽しめる小説ってなかなかないと思う。読み味としてはサルマン・ラシュディに近いだろうか(ガルシア=マルケスではなく)。思うに、日本文学では快楽を得られなくなった人が海外文学を主食にしているのだろうけど、本作はそういう人を満足させる小説だと言える。スケールが大きく、適度に娯楽性を備え、その土地ならではの土俗的な雰囲気が味わえる。本作では一族の100年近い歴史を追っているが、序盤に頻出したマジックリアリズムがある人物の死を契機に後退し、リアリズム一色に染まるところが鮮烈だった。ここから一族は酷い目に遭うし、政治というものが否応なくつきまとってくる。本作では後の展開を予告するような文章が挿入されるから、一族がどうなるのかある程度目星がつくようになっている。

登場人物ではエステーバン・トゥルエバが強烈だった。彼は実にいけ好かない保守的な地主親父で、自分のおかげで小作人たちはまともな暮らしができていると自負し、彼らの娘を片っ端から手篭めにしている。そして、何人も私生児が生まれている。他にも婦人参政権には反対しているし、共産主義者のことを目の敵にして私刑にしているし、その言動はアメリカのプロテスタント、日本の田舎親父、あるいは中小企業の経営者を連想させる。昔はこういう親父がよくいたなあという感じ。カッとなるとすぐに暴力を振るうところも昔気質だ。で、そんな了見の狭い人物が、遂には国会議員にまでなってしまうのだから恐ろしい。彼は保守派の重鎮にまで上り詰めている。面白いのは、彼の家族はみんな寛容な思想を持っていて、慈善事業に励んだり、共産主義の運動家を助けたりしているところだ。この辺は母方の血を受け継いでいて、家族の中でエステーバンだけが浮いている。

終盤で政治が荒れ狂うところはいかにもラテンアメリカで、こうなるとマジックリアリズムの出てくる余地は微塵もない。一族に降りかかる不幸を読むと、エステーバン・トゥルエバの横暴な振る舞いが可愛く見えてしまう。マジックが当たり前の世界から、避け難いリアリズムの世界へ。読み終わってみると、随分と遠くまで連れて行かれたものだと感慨深くなった。本作はストーリーテリングが世界トップクラスと言えるほど卓越しているので、日本の小説に物足りなさを感じる人にお勧めである。

『平家物語』(1240?)

★★★★★

治承元年(1177年)。平清盛は権力を笠に着て横暴な振る舞いをしていた。朝廷では平氏が高位の官職を占めており、「平家にあらずんば人にあらず」という状態になっている。治承4年(1180年)、以仁王の令旨を受けた源頼朝が伊豆で挙兵した。翌年には、信濃で同じ源氏の木曾義仲が挙兵する。やがて平清盛は死去、平氏一門は木曾義仲の襲来によって都落ちする。

祇園精舎の鐘の音を聞いてごらんなさい。ほら、お釈迦様が尊い教えを説かれた遠い昔の天竺のお寺の、その鐘の音を耳にしたのだと想ってごらんなさい。

諸行無常、あらゆる存在(もの)は形をとどめないのだよと告げる響きがございますから。

それから沙羅双樹の花の色を見てごらんなさい。ほら、お釈迦様がこの世を去りなさるのに立ち会って、悲しみのあまりに白い花を咲かせた樹々(きぎ)の、その彩りを目にしたのだと想い描いてごらんなさい。

盛者必衰、いまが得意の絶頂にある誰であろうと必ずや衰え、消え入るのだよとの道理が覚(さと)れるのでございますから。

はい、ほんに春の夜の夢のよう。驕り高ぶった人が、永久(とこしえ)には驕りつづけられないことがございますよ。それからまた、まったく風の前の塵とおんなじ、破竹の勢いの者とても遂には滅んでしまうことができますよ。ああ、儚い、儚い。(p.13)

原文で読む根性がないので翻訳で読んだ。これがまたすごく読みやすく、なおかつ分かりやすいのだから驚きである。たとえば、上に引用した文は本作の有名な冒頭だけど、相当言葉を補って訳しているのが見てとれる。特に誰が何をしたのかという基本的な部分に注力しており、読んでいて読者への配慮が伝わってくる。注釈が一切ないところがこの翻訳の自信の表れではなかろうか。それと、場面場面で調子を変えているのも面白い。ある合戦のシーンはプロレスの実況みたいにになっているし、別の合戦のシーンは「よう!」や「なぁむ!」など語り手の興奮した雄叫びが挿入されている。琵琶法師の息遣いが感じられる名調子といった趣だった。語り物を書籍化したという点では『三国志演義』【Amazon】と共通しているけど、文章そのものの面白さは段違いだ。やはり、こういう古典は学者よりも作家が訳したほうが読み物として優れたものになるのだろう。ジャンルは変わるけれど、たとえば塩野七生の『ローマ人の物語』【Amazon】なんかは文章がびっくりするくらい読みやすくて*1、学者にこういう通史は絶対に書けないだろうと思わせる。

滅びゆく平氏というのが物語の主題になっていて、一人一人の死に様をそれぞれクローズアップして描いている。特に一の谷の戦いでは名のある将がバタバタ死んでいて圧巻だ。しかも、その際のディテールがなかなか詳しくて、どこまでが事実でどこからが虚構なのか興味をおぼえた。猪俣小平六が前司盛俊を騙し討ちした場面とか、熊谷直実が17歳の平敦盛を止むなく討ち取った場面とか*2、印象に残る名場面が多い。まるで見てきたかのように語っている。全体としては散りゆく平氏に同情的で、本作が鎮魂歌と評されるのも分かるような気がする。栄華を誇った平氏も最後には全滅。まさに盛者必衰だった。

序盤の中心人物は平清盛、中盤は木曾義仲、終盤は源義経である。平清盛と息子・平重盛の関係は、高須克弥と息子・高須力弥の関係に似ている。どちらも親がバカな言動をとっているのに対し、子供のほうはまともでしばしば親を諌めている。鳶が鷹を生んだという表現がぴったりだ。一方、木曾義仲は豪快なトリックスターである。陸戦は得意なのに海戦が苦手なのがチャーミング。その野性味が魅力的だ。そして、源義経梶原景時に讒言されて頼朝から追討されているところが不憫だった。あれだけ戦で活躍したのにこの仕打ち。まさに狡兎死して走狗烹らるである。

僕は高校時代に世界史を選択したので日本史の知識はそんなになかったけれど、本作はとても面白く読めた。翻訳がいいので一般的な教養があればまず挫折することはないだろう。僕はWikipediaで人物や合戦の概略を調べながら読んだ。洋の東西を問わず、歴史好きなら絶対に読んだほうがいい。この時代の武士は組み討ちでタイマンを張っていたとか、何かあるとみんなすぐに出家していたとか、そういう細部がとても興味深い。このブログでは海外文学しか扱わないつもりだったのに、思わず例外的に記事を書いてしまうほどはまってしまった。

*1:ただし、その内容は信憑性が低いとされている。

*2:熊谷はこれが原因で後に出家している。

E・M・フォースター『眺めのいい部屋』(1908)

★★★★

裕福な娘ルーシーは、従姉妹のシャーロットと2人でフィレンツェに旅行する。宿泊先の部屋に不満を漏らす2人。それを聞いた青年ジョージと彼の父親エマースン氏が、2人に自分たちが泊まっていた眺めのいい部屋を譲る。その後、みんなで馬車で遠足に出た際、ルーシーはジョージにキスされるのだった。やがてルーシーはイギリスに帰国、貴族の青年セシルと婚約する。そして、近所にジョージとエマースン氏が引っ越してくる。

「また別の日に、父は僕たちにこういうふうに言った。眺めというのは群れのことだ。木の群れ、家の群れ、丘の群れ、それらはみんな互いに似通ってくる傾向がある。人間の群れと同じように。眺めが僕たちに及ぼす影響はどこか超自然的だ。たぶんそれが理由で。父はそう言った」(p.277)

これは恋愛小説だろうか。『ハワーズ・エンド』『インドへの道』も、異なる階級の接近と反発を描いた小説だけど、その萌芽は本作にも表れていて、三角関係となるルーシーもジョージもセシルも、それぞれ中流下流・上流と階級が異なっている。ただ、本作ではそういった階級格差はあまり前面に出ていない。古いヨーロッパを体現したセシルが時に滑稽に描かれ、時に悪者のような扱いを受けている。強いて対立軸を挙げるとすれば、古い・新しいになるだろう。セシルは154ページに要約されている通り中世的な人物として造形されており、ジョージは彼について、「ヨーロッパを千年の間このままにしておいたのはセシルのような人間だ」と手厳しく批判している。

セシルはルーシーに婚約を破棄されるのだけど、その理由が読者である自分に突き刺さるようなもので身につまされた。セシルは芸術にばかり目が行っていて、人間に心から親しもうとしてない、それが嫌なのだという。いやー、これには参ったね。僕も人間に心から親しんでいないというか、たとえば飲み会なんかに積極的に参加するタイプではないので、まるで自分のことを言われたように思えたのである。要はパリピじゃないってことだ。でも、ショーペンハウアーは『幸福論』【Amazon】で、社交は時間の無駄だと説いているし、僕も他人とウェーイするよりは、アニメを観たり本を読んだり自分の趣味に没頭したいと思っている。まあ、世間的にこういうのは後ろ指を指されるのだろう。多少は人間嫌いの面もあるけれど、SNSをやっているので丸っきり嫌いというわけでもない。ただ、現実世界での社交はリスクが大きくていまいち参加する気になれないのである。

リスクとは何か? たとえば、会社の上司と飲みに行ったとしよう。上司が僕に先輩に対する言動についてこんこんと説教するなか、ふとLINEが気になってスマホを弄りだす。すると上司が激昂してビール瓶で殴りつけるなんてこともある。頭の骨を折る重傷だ。あるいは風俗上がりの愛人とラブホテルに行ったとしよう。そこでいそいそと不倫に励むわけだが、何とその様子を愛人が録画しており、こちらが別れ話を切り出した際に動画をネットにアップした。その動画がSNSや匿名掲示板でじゃんじゃん拡散されていく……。俗に言うリベンジポルノである。おかげで僕は妻子と別れるはめになった。他にも、友人が突然発狂してナイフで刺してくるかもしれないし、僕の頭では思いつかないようなとんでもないトラブルに巻き込まれるかもしれない。君子危うきに近寄らずをモットーにしている僕は、これらを警戒してなかなか人間に親しめないのである。

話が脱線してしまった。三角関係の顛末だけど、ルーシーが最終的に結ばれるのはジョージである。恋愛に勝つのは女に無理やりキスをする肉食系男子であって、この辺は古今東西変わらないのだなと感心した。男は少々強引なほうがモテるようだ。

フランソワ・ラブレー『第五の書』(1564)

★★★

聖なる酒びんのご宣託を受けるべく航海を続けるパンタグリュエル一行。彼らは教皇鳥や貧欲騎士団長鳥といった奇妙な動物が生息する<鐘の鳴る島>や、ナンセンスな仕事に溢れる<カント国>など、様々な島を訪れる。やがて一行は信託所に到着、念願のお告げを受けるのだった。

「じゃあ、突撃だ!」と、パニュルジュがいった。「悪魔軍団のどまんなかに突進しましょうや。お陀仏になるといったって、しょせん一度きりのことさ。でもね、おいらは命をね、別の戦いのために、ちゃんと取っておくからね。えいさ、ほいさ、突撃だい! おいら、勇気凛々としてきたぞ。たしかに心の臓は震えてるけんど、これはだね、この地下の洞穴の寒さと、こもったにおいのせいに決まってる。恐怖のせいではないんじゃ、熱でもないんじゃ。突撃、突撃! 突進するぞ、突っこむぞ、おしっこするぞ! 音にも聞け、われこそは、恐れ知らずのギヨームであるぞよ!」(p.263)

『第四の書』の続編。

ラブレーの死後(11年後)に出版された完結編だけど、どうやらラブレーの草稿を元にした偽書という説が有力らしい。相変わらず、古代ギリシャ古代ローマの小ネタが多数盛り込まれているので、これを書いた人はラブレーと同等のルネサンス文化人という気がする。読み味も前作とそんなに変わらないかな。ただ、訳者は本作に不満のようで、前4作と比べて「文学的な価値はがくんと落ちる」(p.487)と評している。

当時から貧困層は子沢山だったとか、梅毒は十字軍の遠征によってもたらされたものだとか、昔の人の現実認識が垣間見えるところが興味深い。それと、貧困のことを聖フランチェスコ病と呼んでいるのも気が利いている。もちろん、例によって教会への風刺も忘れておらず、のっけから教皇鳥みたいなへんてこなキャラを出している。個人的にこのシリーズ、ルネサンスによってキリスト教が相対化された様子が見て取れて面白い。

古典を読むときと現代小説を読むときというのは、みんな脳内のチャンネルを切り替えて読んでいると思うけど、とりわけこういう奇妙な小説を楽しむには、こちらが正確にチャンネルを合わせる必要があるから難儀である。リアリズム小説の尺度で神話的な小説を測れないように、現代小説の尺度では古典を測ることはできない。その意味で本作はちょっと難物で、このテクストがどういう意図のもとで書かれたのか、教会権力への風刺だけが目的なのか、何のためにくだらない下ネタを入れているのか、想定する読者層はどういったものなのか、などといった疑問がぐるぐる回る。『ドン・キホーテ』【Amazon】と同様、解説書を読んでみたいと思わせる小説だ。

ところで、本作の語り手は何者なのだろう? 語り手は一人称で物語っており、地の文では「わたし」や「われわれ」が使われている。どうやらパンタグリュエルの随行者の一人のようだけど、名前や職業が謎でどういう身分なのかさっぱり分からない。これ、前作も一人称の語りだっただろうか? 手元に本がないので後で確認しておきたい。

賈平凹『土門』(1996)

★★★

西京の郊外にある仁厚村。若い娘の梅梅(メイメイ)は、婚約者の老冉(ラオラン)がなかなか結婚を申し込んでこないのにやきもきしつつ、アマチュア小説家の范景全(ファンチンチュエン)に師事して通信教育を受けていた。旅に出ていた成義(チョンイー)が村に戻ってくると、投票によって彼が新しい村長になる。農村の都市化が進むなか、彼は村を取り壊しから守ろうとしていた。

「あんたのほんとのねらいは、はたの者には丸見えだわ。みんなして村を守ろうとしているのに、あんたときたら、家を建てて、取り壊される日を待ってるんだから。取り壊した分だけ返してもらえば、新しい家がそれだけ余分に手に入るって寸法でしょ。だけどそれをやると、この村を早くつぶしてくれと拝むようなもので、みんなの気持ちはばらばらになるじゃないの?!」

「それなんだよ、わたしの考えは。こんな村を守ってなんになるね? このとおりのおんぼろ家で、暖房はなし、風呂を沸かす水はなし、下水道はなしで、泥の壁に泥の屋根、これで街のハイカラビルに暮らすのと較べてどこがましかね? 胸に手を当てて考えてみておくれ、農民でいるのがいいか、街の人間になるのがいいか」

「街で暮らしたところで、あんたはやっぱり農民なのよ」(p.133)

タイトルには「トゥーメン」とルビが振ってある。

都市化の波が襲う郊外の村を舞台にしている。この本が出た前世紀末は、日本でも「21世紀は中国の時代」と言われていたけれども、その経済成長の陰には様々な歪みがあって、本作のような出来事もその一つなのだろう。農業大国から工業大国へ。明朝から続く由緒ある仁厚村にもその波はやってきて、村長たちは土地開発会社を相手に闘争を繰り広げる。薬坊を作って全国から肝炎患者を集めたり、勝手に石の牌楼を作ったり、みんなでデモ行進をしたり。正直、共産党が独裁的な支配をしている国で、こんな反抗的なことができるのかと疑問に思った。特に天安門事件が起こった後では尚更。でもまあ、フィクションだからその辺は作り話として割り切るべきなのだろう。中国の人民はやけに逞しくて、こういう大地から英雄は出てくるのかとある意味納得してしまった。新しく村長になった成義なんかはその典型で、彼の右手は切断した後に女の手を継ぎ接ぎするという聖痕を背負っている。謎めいた過去を持つ彼の顛末は英雄的でなかなか見ものだった。

梅梅の幼馴染である眉子(メイズ)は都会に憧れていて、遂には村と対立することになる。どちらかいうと僕も眉子の立場に考え方が近くて、水洗便所もないような場所で暮らすのはかなりきついかなと思う。これは自分がそういう文化的な生活に慣れているからで、やはり一度便利さを味わってしまうと元には戻れない。だから、村人たちが必死に抵抗するのは理解しがたかった。無知ゆえの行動じゃないかと思った。おそらく日本でも高度経済成長期に似たようなことがあったと思うのだけど、当時の日本人はどう受容していたのだろう? 地上げ屋に恐喝されて住居を退去したから相当理不尽に思ったはず。でも、結果的には生活水準が向上したのではなかろうか? 個人的には、生まれ故郷に執着することにあまり意味を見い出せないのだった。

村からの追い出し騒動に対して、自分たちを陳勝呉広になぞらえるところはさすが中国という感じがした。また、清朝末期と民国時代に処刑人をやっていたという老人がなかなかのインパクトを残している。このように歴史と繋がっているところが中国文学のいいところだ。