海外文学読書録

書評と感想

デイヴィッド・ロッジ『考える…』(2001)

★★★

イギリスの田園地帯にあるグロスター大学。そこの認知科学センターの所長にしてタレント教授でもあるラルフ・メッセンジャーは、女たらしのヤリチン男だった。彼は人間の意識について研究しており、自分の内心を声に出して録音している。そこへ夫を亡くしたばかりの作家ヘレン・リードが、大学院の創作コースで教えるためにキャンパスにやってきた。ラルフは妻子持ちであるにもかかわらず、ヘレンと肉体関係を結ぼうとする。ヘレンは当初断っていたが……。

(……)ヘレンはラルフのほうを向いて話しかける。「でも、あなたが小説を読まないっていうのには、びっくりするわ。あなたは意識にたいそう関心があるのに、現代の小説の大半は、意識についてのものよ」

「いや、若い頃は、少しは読んださ」とラルフは言う。「『ユリシーズ』の初めの数章は素晴らしい。それから先は、ジョイスは、文体ゲームとクロスワードパズルに逸れて行ったみたいだ」

ヴァージニア・ウルフは、どう?」

「お上品過ぎ、詩的過ぎる。どの登場人物もヴァージニア・ウルフみたいだ。ぼくの印象では、ジョイスの方向を追って、ジョイスを越えた者は誰もいない。正しいかい?」

「たぶんね」とヘレンは言う。「意識の流れの小説自体、ちょっと時代遅れ」(p.124)

ボヴァリー夫人』【Amazon】や『アンナ・カレーニナ』【Amazon】に代表される通り、姦通とは文学の題材としては王道である。本作はその姦通を柱にして、意識の流れのパロディや何人かの作家の文体模写*1、Eメールによる書簡体小説などのお遊びを入れたり、人間の意識は科学と文学のどちらで扱うべきかを議論したりしている。認知科学者のラルフは科学を支持する立場であり、作家のヘレンは文学を支持する立場だ。思考の本質的特徴は、それがプライベートで秘密であることだけど、ラルフはそれを録音しているし、ヘレンは日記として形に残している。そこで表に出された思考は実に赤裸々で、どちらも姦通についてあけっぴろげに告白している。そのため、録音や日記によって、取り返しのつかないことになるだろうと期待していた。ところが、それらが主筋に決定的な影響を与えるようなことはなく、結果的には宙に浮いたまま終わっている。さらに、人間の意識は科学と文学のどちらで扱うべきかという議論も中途半端のまま放り出されていて、個人的には不満の残る小説だった。唯一の救いは、不倫の終わらせ方が巧妙だったところだろう。ラルフとヘレン、2人の心理に影響を与える意外な事件が終盤に用意されている。この辺はさすがベテラン作家という感じで、小説として何とか体裁を保っていた。

作家のヘレンは夫を亡くして以来、小説が書けなくなってしまった。彼女は日記をつけることで、書くための筋肉を維持している。このくだりを読んで思ったのは、最近のSNS世代の人たちは書くための筋肉が衰えているんじゃないかということだ。Twitterには140字の制約があるし、読者メーターには255字の制約がある。これだけの文字数ではまとまった思考を書き出すことは不可能で、どうしても断片的なアウトプットになってしまう。たとえば、本の感想を書きたいと思った場合、140字では大雑把なことしか書けないし、255字ではそれよりややマシな程度の薄味なことしか書けない。本の感想を真面目に書こうと思ったら、少なくとも1200字は必要だろう*2SNSを見て僕はこう思う。ああ、この人たちは逆立ちしても僕に敵うことはないんだな、と。文章は思考に影響を与える。そこに文字数の制限を加えてしまったら、思考にも制限が加わってしまう。書くための筋肉とは、すなわち考えるための筋肉であり、これが発達してない人間は、人生のあらゆる局面で不利な選択を強いられるだろう。これを読んで身につまされた人は、是非ブログを始めるといい。短文が主体のSNS時代だからこそ、長文を書くことで他人に差をつけることができる。

*1:マーティン・エイミス、アーヴィン・ウェルシュサルマン・ラシュディ、サミュエル・ベケットヘンリー・ジェイムズガートルード・スタイン、フェイ・ウェルドンなど。

*2:これでもまだ原稿用紙3枚分だ。少ない。

エイモス・チュツオーラ『甲羅男にカブト虫女』(1990)

★★★★

短編集。「甲羅男カメのものがたり」、「カメの女房、ヤンリボのものがたり」、「村のまじない医」、「アジャオと跳ねる骨」、「悪をもって、悪に報いるなかれ」、「アカンケとやっかみ質屋」、「あさって忘るなかれ」、「裏切りアデ」、「きかん気息子レレ」、「子ガモになった兄弟と、わからず屋の妹」、「畑長者と奇妙な男」、「がめつきカメとオリシャ-オコ」の12編。

アジャパは涙ながらにすがりつく。

「今日この日より、わたくしはあなたの奴僕でございます! どうか、どうか、おゆるしを!」

王は答えて、

「カメ、その異名をアブラフム、郷の土より生まれた息子よ。おまえは里の人々を裏切り、仇にくみした。その罪ゆえに、いまこそ罰を受けよ!」

王は神々の方にむき、いくども怒号をあげた。

「この地の神々よ、わが祖先の霊よ、このカメを麗しき男から甲羅男に変え、今日より甲羅を衣とし、森のなかを這いまわらせ賜え!」

恐ろしや、驚いたことに、王が呪いをかけたとたん、カメはみるみる小さくなり、甲羅を背負った生き物に変わった。(p.18)

アフリカ版『グリム童話』【Amazon】といった感じだった。民間伝承を元にしているのは相変わらずだけど、デビュー作の『やし酒飲み』より遥かに筋が通っていて読みやすい。これは著者の技量が上がったせいなのか、それとも短編だからなのか。いずれにせよ、『やし酒飲み』のような継ぎ接ぎ感がなく、びっくりするくらい洗練されている。エイモス・チュツオーラの入門書にちょうどいいんじゃないかと思った。

個人的にこの著者の小説は、文学的というよりは、文化人類学的な尺度で評価してしまう。アフリカにこんな物語があったのかよ、みたいな驚き。本書の場合、どれも西洋の童話と大差がなくて、こういうのは世界共通なのかと思ってしまう。このブログで取り上げた本だと、『ギルガメシュ叙事詩』を読んだときのような感動をおぼえた。

以下、各短編について。

「甲羅男カメのものがたり」。三十路になったアジャパが盗人になり、遂には戦争を引き起こして、最後は王の呪いで甲羅男にされてカブト虫女と結婚する。突拍子のない部分が目立つけれど、それは童話の範囲内に収まっていてさほど違和感がない。

「カメの女房、ヤンリボのものがたり」。後に甲羅男と結婚するカブト虫女の物語。作中で処女を生贄の運び人にしているところが目を引いた。アフリカでも処女に特別な意味があるらしい。これは全世界共通の価値観なのだろうか。文化人類学的興味がうずく。

「村のまじない医」。まじない医が金持ちから財産を盗み、その子孫までを貧乏暮らしにさせるのだけど、最後は収まるべきところに収まる。失われたものが元に戻るオーソドックスな童話だった。淡々としながらも妙にカタルシスがある。

「アジャオと跳ねる骨」。アジャオという男がニンフから魔法の匙を貰う。匙を持ちながらある言葉を唱えると、おいしい食べ物と飲み物が出てくるだった。これなんかも童話にありがちで、似たような話が『グリム童話』にあったと思う。ただ、最後に鞭を使って教訓的に締めるのは意外だった。

「悪をもって、悪に報いるなかれ」。これも教訓的な寓話だけど、独特のアフリカン・テイストがあって面白い。要約すれば、酷い目に遭わされたからといって仕返しをするのはよくない、ということか。アフリカではこういう話を使って子供に道徳を教えているのだろう。

「アカンケとやっかみ質屋」。借金のかたに取られた娘が、質屋のおかみの命令で粉挽きをすることに。そこへゴブリンの群れがやってきて、娘は大金を手に入れるのだった。それを知ったおかみは、自分もあやかろうと息子を使って同じことを試みる。おかみと息子が酷い目に遭うのは、この手の話のお約束。

「あさって忘るなかれ」。またまた教訓的な話だけど、ペテン師が勝利して善良な兄弟が不幸な目に遭うところが新鮮だった。兄弟は身をもって自分たちの不明を知るというわけ。「あさって忘るなかれ」という言葉にそんな意味があったとはね。本作みたいな後味の悪い話はけっこう好き。

「裏切りアデ」。「あさって忘るなかれ」よりも後味が悪くてぞっとした。善人だからといって無条件に善き生は送れない。人生は不条理で、他人の悪意によっていとも簡単に破滅させられてしまう。アデがなぜ裏切るのかは分からないけど、この世にはどうしようもない悪人がいるので、こちらも用心深く生きなければならない。

「きかん気息子レレ」。金持ちの息子レレが猟師になりたいと言ってジャングルに飛び出し、太鼓叩きの奴隷にされてしまう。紆余曲折を経て助けられるのだけど、その紆余曲折がアフリカっぽくて面白い。アフリカでは子供を躾けるためにこういう話を読みきかせてそう。

「子ガモになった兄弟と、わからず屋の妹」。作中に禁止事項が設定されて、それを破ると恐ろしい目に遭うのは、世界共通のお約束みたいだ。見てはいけないものを見てしまう。イギリスの諺に「好奇心は猫を殺す」というのがあるけど、本作はまさしくそれだ。といってもまあ、結局はハッピーエンドだけど。

「畑長者と奇妙な男」。1人で4千人ぶんの仕事ができる小作人。その正体は森に棲む不死の魔物の長だった。彼がどうやって仕事をしているのか、それを知りたいと思うのは人間の性だろう。僕も好奇心は強いほうだからつい気になってしまう。

「がめつきカメとオリシャ-オコ」。これも作中に禁止事項が設定されていて、スープを飲むなと言われたのにあっさり飲んでしまう。この飲むなよ飲むなよって要はチェーホフの銃だし、日本だとダチョウ倶楽部のネタ振りみたいでもある。それにしても、男が妊娠する童話ってありそうでなかったな。

イアン・マキューアン『憂鬱な10か月』(2016)

★★★★

胎児の「わたし」が母親の腹の中で外界の様子を探る。どうやら母親のトゥルーディは父親と別れ、彼の弟クロードと愛人関係にあるようだった。しかも、2人は共謀して父親を殺害しようとしている。クロードは「わたし」が産まれたら他所へ養子に出す算段だった。「わたし」は状況を変える術がないまま、事件の推移を物語る。

自分の鼻先数インチに父親のライバルのペニスを突きつけられるのがどういうことか、だれもが知っているわけではないだろう。妊娠末期のこの時期になれば、わたしのために自制するのが当然ではないか。医学的見地から要求されるわけではないとしても、それが礼儀というものだろう。わたしは目をつぶり、歯茎を噛みしめて、子宮の内壁に体を押しつけて踏ん張っている。ボーイング機の翼がもぎ取られかねないほど激しく揺れる乱気流。母は遊園地ぽい絶叫を発して、愛人を駆り立て、鞭を当てる。ロック・コンサートの死の壁みたいなものだ!(p.26)

これは面白かった。プロットは不倫関係の男女が寝取られ男を殺害するありきたりの犯罪ものだけど*1、その様子を胎児が語るというアイデアが秀逸すぎる。語り手はまだ産まれてないので当然のことながら名前がない。名無しの彼は胎児なのに成熟した人格を持っており、大人顔負けの豊富な知識と語彙を駆使して縦横無尽に語り倒している。本を読まない昨今の大学生よりも、遥かに教養が深くて思考力が高いのが可笑しい。こういうのはやり過ぎくらいがちょうど良くて、やはりフィクションにはこれくらいの大胆なはったりが欲しいと思う。ありふれた出来事を特別な方法で語る。現代文学は「何を語るか」よりも「どのようにして語るか」に力点が置かれているけれど、本作はその極北に位置すると言えるだろう。

全体的には手垢のついたプロットではあるものの、父親がトゥルーディとクロードの前に愛人を連れてくるところは捻りが効いているし、殺人が成功するか失敗するかの瀬戸際はけっこうドキドキしながら読んだ。読んでるほうとしては、上手く相手の計画を回避して生き延びろと思うのだけど、一方でもしそうなったら話にならないわけで、本作はその辺の焦らし方が巧妙である。語り手の「わたし」は胎児なので状況に介入できない。基本的にはただ語るだけの存在だ。しかしながら、彼なりに父親の仇を取ろうと意外な行動に出ているのだから油断できない。本作はフィクションならではの逸脱が最高だった。

語りの芸で読ませるところは、同じ作者の『初夜』【Amazon】に似ているかもしれない。また、語り手がぶっ飛んでいるところは、スティーヴン・ミルハウザーエドウィン・マルハウス』【Amazon】を思い出した。個人的には、大上段に構えたシリアスな小説よりも、こういう人を食った小説のほうが好みである。

*1:ハムレット』【Amazon】と同じ構図らしいが、実のところよく覚えてない。

リチャード・フラナガン『奥のほそ道』(2013)

奥のほそ道

奥のほそ道

 

★★★

1915年頃にタスマニアで生まれたドリゴ・エヴァンスは、本土の大学で勉強して外科医になり、第二次世界大戦では将官として従軍することになった。ところが、彼は日本軍の捕虜になってタイの収容所の責任者にされる。捕虜たちは全長415キロメートルに及ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出され、飢餓と病に喘ぎながら日本軍にこき使われる。日本の軍人は天皇の名のもと、捕虜に理不尽な暴力を加えるのだった。

彼女といたい、彼女とだけいたい、昼も夜も彼女といたい、彼女の語るどうしようもなく退屈な逸話やわかりきった見解にも付き合いたい、彼女の背中に鼻を走らせたい、彼女の脚がこの脚にからみつくのを感じたい、彼女がうめくようにこちらの名を口にするのを聞きたいというこの欲求、人生のほかのすべてを圧倒するこの欲求はなんなのか。彼女を思うとき腹に感じるこの痛み、胸を締めつけられる感覚、制御できないめまいをなんと名づけたらいいのだろう。彼女のそばに、彼女とともに、彼女とだけいなくてはならない。この直感とも感じられるただ一つの考えにいま取り憑かれているということを、わかりきった言葉以外の言葉で、どう言えばいいのだろう。(pp.213-214)

ブッカー賞受賞作。

これはなかなか気が滅入る読書だった。戦時中の捕虜への虐待が凄まじく、ややもすれば靖国神社の陰に隠れがちな日本人の加害性がこれでもかと暴かれている。『四世同堂』の項でも書いたけれど、原爆の投下や本土の空襲のせいで、日本人は自分たちを被害者だと位置づけがちだけど、実は俯瞰的に見たら加害者としての面が大きいし、世界的にもそれが常識なのだろう。本作は日本の軍人の精神性に驚くほど肉迫していて、その人物像は、日本の読者が読んでもあまり違和感がないと思う。ああ、こういう無茶苦茶な軍人、絶対いたよなって感じ。捕虜には鉄拳制裁で強制労働させ、場合によっては日本刀で首を斬り落とし、物資が足りないのを精神論で乗り切ろうとする。捕虜たちは飢餓と病で青息吐息。にもかかわらず、「天皇陛下のために」と発破をかけ、捕虜たちをボロ雑巾のようにこき使っている。これを地獄と呼ばずして何と呼ぶべきだろう。第二次世界大戦にしても太平洋戦争にしても、オーストラリアはなかなかクローズアップされることがないけれど、こと日本との関係においては、こんな過酷な仕打ちが行われていたのだ。オーストラリア人からしたら、日本の収容所よりもドイツの収容所に入ったほうが遥かにマシだったという。人間が同じ人間に対して残酷な扱いをするのって、国籍関係なく嫌な感じがするけれど、加害者が自分と同じ日本人だと思うと、ますます嫌な感じが募ってくる。小説を読んでこんなに気が滅入るとは思わなかった。

ただ、本作は捕虜の虐待だけではなく、ドリゴの恋愛や戦後の逸話なども描かれている。扱っている物事の幅は意外と広い。大筋では時系列通りに語られているけれど、細かいところでは過去へ行ったり未来へ行ったりしていて、真っ直ぐに進まないところが現代文学らしい。ドリゴが戦後も生き残り、テレビのインタビューを受けて、戦争の英雄として有名になったことが比較的早い段階で明かされている。こういう「どのようにして語るか」という部分も、本作の注目すべき点だろう。個人的には、上に引用したような詩的な表現がぐっときた。日本の有名な文学作品をタイトルにしているだけあって、読み返したくなるような文章がいくつもある。ドリゴの恋愛が道ならぬ恋で、これが彼の人生の中心にあるところが何とも言えない。これが戦争を扱っただけの小説だったら、ここまで詩情を感じることもなかっただろう。

本作は戦犯の死刑についても触れているけれど、死刑囚のなかに朝鮮人と台湾人がいたことにショックを受けた。よくよく考えてみれば、朝鮮も台湾も植民地にされた後、住人たちは日本人として戦争に駆り出されていたのだった。こうやって加害者として巻き込まれた挙げ句死刑に処されるなんて、あまりにも理不尽だと思う。すべて戦争が悪いと言えばそれまでだけど、その状況を作ったのは我々人間なので、人間というのは本質的に罪深い存在だと言える。

なお、この記事は今話題の「HINOMARU」【Amazon】を聴きながら書いた。RADWIMPS野田洋次郎にはぜひ本作を読んでもらいたい。

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(1925)

★★★

貧しい伝道師の家庭で育ったクライド・グリフィスは、長じてからカンザスシティでホテルのベルボーイになる。ところが、同僚とドライブに行った帰りに自動車事故を起こして逃亡。その後は金持ちの伯父を頼って、彼の経営するニューヨークの工場に就職する。そこで女工ロバータと男女の関係になるも、金持ちのソンドラともいい関係になり、ソンドラと結婚して上流階級に入りたいと熱望する。ところが、ロバータの妊娠が発覚してクライドは追い詰められるのだった。クライドはロバータの殺害を計画するが……。

ああいう話には、いったいどんな意味があるんだろう? 神様は存在したのか? マクミラン師が主張するように、人間の雑事に神様が干渉するのだろうか? これまで神をいつも無視してきたというのに、こういうときになって、神様なり、少なくとも創造的な力にすがるというようなことは、果たして可能なことだろうか? 人は明らかにそういうときに助けを必要とするものだ――とても孤独で、法によって命令され支配されている――人間ではなくなっている――ここにいる人はみな、まさしく法律の下僕なのだから。だが、この神秘的な力は、助けの手を差しのべてくれるのだろうか? 実際に存在して、人間の祈りをきいてくださるのだろうか?(vol.2 pp.377-378)

集英社版世界文学全集(宮本陽吉訳)で読んだ。引用もそこから。

長かった。ハードカバー2段組で合わせて800ページほどある。アメリカの自然主義文学ということで、クライドがなぜこのような悲劇的な人生を歩むことになったのか、環境要因や性格要因などを踏まえて重厚に描いている。現代文学という甘い果実の味を知った人間にとって、100年前の自然主義文学は退屈に感じないかと心配していたが、終わってみれば劇的な話で楽しめた。殺人や裁判が最大の焦点になっているところは、さすが犯罪小説の本場という感じである。クライドの境遇は『罪と罰』【Amazon】のラスコーリニコフを、裁判の場面は『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】の同場面をそれぞれ連想したけれど、クライドとラスコーリニコフはだいぶ毛並みの異なった人物だし、後者の裁判も被告人の性格が全然違っているから、それほど似通った印象は受けなかった。裁判については、実を言うとどちらも冤罪なのだ。『カラマーゾフの兄弟』のミーチャは人を殺してないし、本作のクライドも故意に人を殺してない。クライドの場合、殺意を持って相手を呼び出したものの、結果的には事故によって死なせてしまったのだった。ただ、それを知っているのはクライド本人だけなので、状況はかなり不利になっている。この裁判もだいぶ頁を割いているだけあって、近年のリーガル・サスペンスみたいに読み応えがあった。検察官も弁護士もかなりのやり手で、その筋運びがなかなか面白い。

アメリカの格差社会がクライドの人生を翻弄しているところが興味深い。アメリカン・ドリームという言葉が彼の国にはある。ところが、実際に所属する階級を突き破って成功する人間は、他の先進諸国よりも低いという。貧しい家庭に生まれたクライドが、金持ち連中と関わることによって、彼らの仲間に入りたいと思うのはごく自然な感情だろう。自分と彼らを分かつものが何なのか疑問に思うのもよく分かる。結局のところ、人生の大半は生まれによって決まるのであって、そこから這い上がるには相当な運が必要なのだ。クライドはあと少しのところまで行った。ところが、女工ロバータを妊娠させたことによって台無しにしてしまった。状況を打開しようと殺人計画を練ることで、さらなる泥沼にはまってしまうのだから救いようがない。クライドの人生は最初から詰んでいたのではないかと思える。

クライドの魂を救おうと獄中にやってきた牧師が、彼の胸の内を聞いて、「わが子よ! わが子よ! そのとき、きみは心のなかで人を殺した」と言い放つところが印象的だった。つまり、実際に人を殺していなくても、相手が死ねばいいと思った時点で、それは人を殺したも同然なのだ。この辺の理屈は哲学者のカントみたいだと思った。行為の帰結よりも、行為の動機に重きを置く立場*1。現代の裁判において、動機を重視して量刑を決めるのも、おそらくこれと関係しているのだろう。仮に自分が裁判を担当したとして、情状酌量の余地がどの程度あるかを判断するのは難しそうだ。

*1:というか、聖書に「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイによる福音書)というくだりがあった。