海外文学読書録

書評と感想

リチャード・フラナガン『奥のほそ道』(2013)

奥のほそ道

奥のほそ道

 

★★★

1915年頃にタスマニアで生まれたドリゴ・エヴァンスは、本土の大学で勉強して外科医になり、第二次世界大戦では将官として従軍することになった。ところが、彼は日本軍の捕虜になってタイの収容所の責任者にされる。捕虜たちは全長415キロメートルに及ぶ泰緬鉄道の建設に駆り出され、飢餓と病に喘ぎながら日本軍にこき使われる。日本の軍人は天皇の名のもと、捕虜に理不尽な暴力を加えるのだった。

彼女といたい、彼女とだけいたい、昼も夜も彼女といたい、彼女の語るどうしようもなく退屈な逸話やわかりきった見解にも付き合いたい、彼女の背中に鼻を走らせたい、彼女の脚がこの脚にからみつくのを感じたい、彼女がうめくようにこちらの名を口にするのを聞きたいというこの欲求、人生のほかのすべてを圧倒するこの欲求はなんなのか。彼女を思うとき腹に感じるこの痛み、胸を締めつけられる感覚、制御できないめまいをなんと名づけたらいいのだろう。彼女のそばに、彼女とともに、彼女とだけいなくてはならない。この直感とも感じられるただ一つの考えにいま取り憑かれているということを、わかりきった言葉以外の言葉で、どう言えばいいのだろう。(pp.213-214)

ブッカー賞受賞作。

これはなかなか気が滅入る読書だった。戦時中の捕虜への虐待が凄まじく、ややもすれば靖国神社の陰に隠れがちな日本人の加害性がこれでもかと暴かれている。『四世同堂』の項でも書いたけれど、原爆の投下や本土の空襲のせいで、日本人は自分たちを被害者だと位置づけがちだけど、実は俯瞰的に見たら加害者としての面が大きいし、世界的にもそれが常識なのだろう。本作は日本の軍人の精神性に驚くほど肉迫していて、その人物像は、日本の読者が読んでもあまり違和感がないと思う。ああ、こういう無茶苦茶な軍人、絶対いたよなって感じ。捕虜には鉄拳制裁で強制労働させ、場合によっては日本刀で首を斬り落とし、物資が足りないのを精神論で乗り切ろうとする。捕虜たちは飢餓と病で青息吐息。にもかかわらず、「天皇陛下のために」と発破をかけ、捕虜たちをボロ雑巾のようにこき使っている。これを地獄と呼ばずして何と呼ぶべきだろう。第二次世界大戦にしても太平洋戦争にしても、オーストラリアはなかなかクローズアップされることがないけれど、こと日本との関係においては、こんな過酷な仕打ちが行われていたのだ。オーストラリア人からしたら、日本の収容所よりもドイツの収容所に入ったほうが遥かにマシだったという。人間が同じ人間に対して残酷な扱いをするのって、国籍関係なく嫌な感じがするけれど、加害者が自分と同じ日本人だと思うと、ますます嫌な感じが募ってくる。小説を読んでこんなに気が滅入るとは思わなかった。

ただ、本作は捕虜の虐待だけではなく、ドリゴの恋愛や戦後の逸話なども描かれている。扱っている物事の幅は意外と広い。大筋では時系列通りに語られているけれど、細かいところでは過去へ行ったり未来へ行ったりしていて、真っ直ぐに進まないところが現代文学らしい。ドリゴが戦後も生き残り、テレビのインタビューを受けて、戦争の英雄として有名になったことが比較的早い段階で明かされている。こういう「どのようにして語るか」という部分も、本作の注目すべき点だろう。個人的には、上に引用したような詩的な表現がぐっときた。日本の有名な文学作品をタイトルにしているだけあって、読み返したくなるような文章がいくつもある。ドリゴの恋愛が道ならぬ恋で、これが彼の人生の中心にあるところが何とも言えない。これが戦争を扱っただけの小説だったら、ここまで詩情を感じることもなかっただろう。

本作は戦犯の死刑についても触れているけれど、死刑囚のなかに朝鮮人と台湾人がいたことにショックを受けた。よくよく考えてみれば、朝鮮も台湾も植民地にされた後、住人たちは日本人として戦争に駆り出されていたのだった。こうやって加害者として巻き込まれた挙げ句死刑に処されるなんて、あまりにも理不尽だと思う。すべて戦争が悪いと言えばそれまでだけど、その状況を作ったのは我々人間なので、人間というのは本質的に罪深い存在だと言える。

なお、この記事は今話題の「HINOMARU」【Amazon】を聴きながら書いた。RADWIMPS野田洋次郎にはぜひ本作を読んでもらいたい。