海外文学読書録

書評と感想

呉明益『歩道橋の魔術師』(2011)

★★★★

短編集。「歩道橋の魔術師」、「九十九階」、「石獅子は覚えている」、「ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた」、「ギター弾きの恋」、「金魚」、「鳥を飼う」、「唐さんの仕立屋」、「光は流れる水のように」、「レインツリーの魔術師」の10編。

魔術師とますます仲良くなったので、誰もいないときを見計らって、ぼくは黒い小人の秘密を教えてくれと何度もせがんだ。魔術師は小人のときだけは厳しく言った。

「小僧、いいか。わたしのマジックはどれも嘘だ。でも、この黒い小人だけは本当だ。本当だから、言えない。本当だから、ほかのマジックと違って、秘密なんてないんだ」(p.21)

想像以上にモダンでシンプルな短編集で驚いた。どれも台北の中華商場に関係した連作で、歩道橋の魔術師が作中に出てきてはアクセントをつけている。この魔術師、歩道橋で手品をして見物に来ている子供たちに手品グッズを販売しているのだけど、歩道橋の欄干を透明にしたり、双子の片割れをノートに閉じ込めたり、どさくさに紛れて超現実的な魔術を披露している。こういうあり得ないことをしれっと書くところが小説の面白さで、フィクションとは元来「嘘」を表現するものなんだよなと思いを巡らせてしまう。しかもこの超魔術、連作の最後に意表を突いた転回を見せるのだから何とも言えない。全体として、子供時代の回想を通して詩情を感じさせる短編が多かったけれど、その反面、なかなか人を食ったところもあって、その混ざり具合がいかにも現代小説という感じがした。

台湾人の生活が垣間見えるところも興味深かった。今まで台湾を舞台にした小説は東山彰良『流』【Amazon】しか読んだことがなかったので、てっきり本作もバイタリティ溢れる荒々しい生活が活写されるものだと思っていた。ところが、案に相違して彼らの生活は穏やかで、そしてささやかで、先進国とあまり変わらないところに驚く。印象としては、中国よりも昭和の日本にちょっと近いかなという感じ。本書を読んで、新たな台湾人像が僕の脳内にインプットされた。

本書は飛び抜けて良い短編もなければ悪い短編もなく、平均値が高くて安心して楽しむことができる。訳文も平易ですらすら読めるのがいい。最近の台湾を肌で感じられたのが収穫だった。

カリンティ・フェレンツ『エペペ』(1970)

★★★★

言語学者のブダイはヘルシンキ行きの飛行機に乗ったつもりが、間違って別の便に乗ってしまい、見知らぬ土地で降ろされてしまう。そこはやたらと行列ができる人口密集都市で、ブダイの知らない謎の言語が使われていた。人々は外国語を理解せず、言葉が一切通じない。ブダイは都市を探索して何とか状況を打開しようとする。

彼は憤怒のあまり、ナイトスタンドのガラス製の笠を、力いっぱい床に叩きつけた。するとそれは床に飛びちり、彼は右手を切ってしまった。おびただしい出血だった。手の周りにハンカチを巻き、さらにタオルを巻きつけたが、そこからも血は滲み出てくるのだった。彼はこの都市を憎んだ。なぜなら、この都市はありとあらゆる角度から彼を痛めつけ、傷つけようとしているし、性格の変容を彼に迫ってくるからだった。なぜなら、この都市は彼の身柄を幽閉し、脱出させようとはしないからだった。なぜなら、この都市は彼の血と精魂とを吸い尽してしまったからだった……。(p.84)

硬派な不条理文学ですごかった。なぜ硬派なのかというと、言葉が通じないためほとんど会話文がなく、地の文がひたすら続くからである。意味のある会話文は全部合わせても10行以下だろうか。ブダイは言語学者だけあって、ヨーロッパの諸言語はもとより、トルコ語ペルシャ語古代ギリシャ語まで操ることができる。そのうえ、中国語や日本語の素養もあって、まさに言語のエキスパートといったところだ。しかし、そんな完璧超人でもこの都市では無力であり、現地の人たちが何を話しているのかさっぱり分からない。同様に、文字を見ても何を意味するのかさっぱり分からない。パスポートはホテルのフロントが預かったまま返してくれないうえ、空港へどうやって戻るかも見当がつかない。ブダイはあらゆる手段を駆使して言語の解読に奮闘する。本作は紙幅の大半がその様子に費やされていて、これからどうなるのか気になりながら読んだ。

ブダイが状況に抗う様が本作の読みどころだろう。売春婦と2人きりになって意思の疎通をはかるも失敗。警官に暴力をふるって連行されれば通訳がつくだろうと目論んで実行するも失敗。そうこうしているうちに時は過ぎて金もなくなっていく……。こんな八方塞がりな状況って滅多にないのではなかろうか? といっても、かすかに希望はあって、エレベーターガールと心を通わせたり、地下鉄で同国人を見かけたりはする。ところが、それらは根本的な解決には繋がらず、遂には予期せぬ動乱に巻き込まれてしまう。死線をくぐり抜けた先が実にさわやかで、たとえるなら春先に芽を出した植物を見つけたような気分になった。ブダイの決して諦めない態度が素晴らしい。不条理文学もたまには読んでみるものだと思った。

賈平凹『廃都』(1993)

★★★★

1980年代の西京。周敏が人妻の唐児を伴って潼関から駆け落ちしてくる。文章で身を立てたい周敏は、教授の孟雲房に大作家の荘之蝶を紹介してもらい、彼に雑誌社の編集部に職を斡旋してもらう。やがて荘之蝶は唐児と不倫し、周敏は荘之蝶をネタにした記事で筆禍を巻き起こす。

荘之蝶は女に接吻して言った。「だったら笑っておくれ」。女はそのことばどおりに笑った。二人はあらためて抱き合って、ベッドに転がった。荘之蝶がまたものしかかると、女が言った。「またできるの?」。荘之蝶が言った。「できる。ほんとにできるんだ!」□□□□□□(作者、五百十七字削除)。(上 p.247)

西京は西安がモデルの地方都市で、四方が城壁で囲まれている。今まで読んできた中国文学は、どれも田舎を舞台にした小説ばかりだったけれど、都市を舞台にしたものもそんなに印象は変わらなくて、中国人の本質はどこに住んでいても同じだなと思った。誰も彼もが一人前の弁論家で、思ったことをオブラートに包まず口に出し、男も女も当たり前のように罵り合う。自分の利益を守るには言葉がすべて、時には相手を丸め込めようと作り話を拵える。各々が言いたいことを遠慮なく何でも吐き出すという世界観がすごく新鮮。さらに生活もソフィスティケートされておらず、みんな都市に住む田舎者といった印象だけど、実はそこが魅力的でついついのめり込んでしまう。空気を読むことに慣れきった日本人には、この剥き出しの人間関係はなかなか衝撃的だったりするのだ。よく中国人は日本人のことを虚礼がどうのって批判するけれど、本作を読んでその意味が分かったような気がする。

主人公の荘之蝶は最初出てきたときは気さくないい人っぽかったのに(牛の腹の下で四つん這いになって乳を吸うところがポイント高い)、女関係についてはだらしがなくて、唐児を中心に複数の女と情事を重ねていく。彼は風采はあがらないものの、有名人だけあってモテモテで、そのあまりの色男ぶりにどこかエロゲのテキストを読んでいる気分になる。本作は過激な性描写を理由に中国で発禁処分になったそうだけど、濡れ場のたびにいちいち伏せ字が入るのはギャグにしか思えない。ともあれ、これらの情事によって何人かの人生が台無しになり、最終的にはこの世が男社会であることが暴かれるのだから、深いと言えば深いのである。いくら男女間で公然と罵り合っても、その間にある見えない不平等は埋まらない。本作を読んで、この世界の残酷さの一端を垣間見たような気がした。

ニコス・カザンザキス『その男ゾルバ』(1943)

★★★

作家の「私」はクレタ島へ向かう船内で、ゾルバという労働者風の男と出会う。ゾルバに島へ一緒に連れていってくれるよう頼まれた「私」は、彼を自分が所有する炭鉱の現場監督に任命する。2人は島で共同生活を送るのだった。

私にはよく分かった。ゾルバこそ、私が長い間探して見つけることが出来ないでいた男なのだ。生きた心の持ち主で、大きな飽くことを知らない口、偉大な野蛮な魂、母なる大地から、未だ切り離されてない男であった。(p.40)

インテリと労働者という異文化コミュニケーションの魅力がたっぷり詰まった小説だった。作家の「私」はインテリらしく本の虫で、人生に対してどこか受動的なところがあるのだけど、ゾルバはそれとはまったく正反対で、「人生とは面倒を求めること」と言いながら能動的な生を送っている。ゾルバは開けっぴろげな田舎者といった感じでずけずけ物を言うし、人生経験――とりわけ女性経験――が豊富で、出会った女たちを片っ端から口説いてはモノにしている。「私」が草食系男子だとすれば、ゾルバは肉食系男子なのだ。個人的に、インテリがこういう自由人にコロリと参ってしまう気持ちはよく分かるから困る。中小企業の叩き上げ社長みたいな魅力というか。ネットの世界でも、ニコ生やツイキャスの雑談配信者(その多くは社会の底辺にいるスペックの低いおじさん)を小金持ちがタニマチになって金銭的に支援していることがあるけれど、そのタニマチ連中も画面の向こうにいる強烈な野生に参ってしまったのだろう。人が人に魅力を感じるのには大きく2つの理由があって、自分と共通点があるから惹かれることもあれば、自分にないものを持っているから惹かれることもある。「私」とゾルバは後者のパターンで、読んでいるこちらも「ゾルバみたいな友達がいたらさぞ刺激的で楽しいだろう」と思ってしまう。本作は、快男児ゾルバの魅力を存分に堪能する小説、と言えるかもしれない。

それにしても、本作は女たちの末路が酷かった。作中にはマダム・オルタンスという宿屋の女主人と、村外れに住む後家女の2人の女性が出てくるのだけど、結局は両者とも死んでしまう。前者はゾルバと結婚の約束までした女で、死因は病死だからまだいい(といっても、その死はいささか唐突)。問題は後家女の最後。彼女は村人たちから逆恨みを受けて首を切られてしまうのだった。後家女が村の若者の求愛を断り、若者がそれを気に病んで自殺、村人たちはその死を後家女のせいだとして殺しにかかるのだからたまったものではない。男はどこに住んでいても自由に生きられるけど、女はそうはいかない。この部分を読んで戦々恐々となった。

イスマイル・カダレ『夢宮殿』(1981)

★★★

オスマン・トルコ帝国。アルバニアの名門出のマルク=アレムは、秘密機関の<夢宮殿>に奉職することになる。そこでは国民たちの夢を収集・分析し、帝国の将来に関わる重大な出来事に対処していた。マルク=アレムは短期間で順調に出世していく。

彼はこうしていっとき懐疑的な気分に囚われていたが、そのあいだにも手にしたペンはしだいに重くなり、下がりに下がってとうとう紙に当たると、アルバニアという地名のかわりに<向こう>と書きつけた。彼は故国の名にとってかわったこの言い回しを眺めて、たちどころにずっしりくるものを感じとった。彼の意識はとたんにこの重さをキョプリュリュ的悲しみと形容し、この表現は世界のいかなる言語にも見当たらないが、あらゆる言語に導入されてしかるべきだと思ったのである。(pp.231-2)

著者はアルバニアの作家で、本書はフランス語からの重訳。

カフカを彷彿とさせる何とも言えない雰囲気の小説だった。<夢宮殿>という謎めいた官僚機構がまさにカフカ的世界といった感じで、主人公のマルク=アレムは何らかの見えない思惑で出世していく。イスマイル・カダレの小説はこれで邦訳されているぶんは全部読んだけれど、こういう浮世離れした世界観は初めてだったかもしれない。だいたい著者の小説ってアルバニアの風習が前面に出てくるので、そういうのが抑えめの本作はかなり異質な感じがする。本作だとアルバニアは帝国の一地方に過ぎず、一族は<大臣>を出すほどには権勢を振るっているものの、ある事件を機に主人公のアルバニア人としてのアイデンティティは雲散霧消してしまう。著者は様々な角度からアルバニアを描いている人なので、これはこれでパズルのピースを新たに手に入れたという感じだった。

マルク=アレムは慎重というよりはむしろ小心者で、夢を解釈するにも保身が働き、上司がどう思うか忖度して仕事をする。この辺の官僚っぽさが本作の魅力であり、なおかつストーリー上で重要な役割を果たすことになる。マルク=アレムと深く関わってくるある夢が、一族に悲劇をもたらすという筋書きは何とも皮肉で、これってちゃんと大きな動きのある小説なんだなって意外にも思った。てっきり<夢宮殿>での官僚的日々が延々と続くと予想していたので、いい意味でそれを裏切られたのである。本作はカフカの系譜に連なる小説として忘れ難い印象を残す作品だった。