海外文学読書録

書評と感想

イスマイル・カダレ『夢宮殿』(1981)

★★★

オスマン・トルコ帝国。アルバニアの名門出のマルク=アレムは、秘密機関の<夢宮殿>に奉職することになる。そこでは国民たちの夢を収集・分析し、帝国の将来に関わる重大な出来事に対処していた。マルク=アレムは短期間で順調に出世していく。

彼はこうしていっとき懐疑的な気分に囚われていたが、そのあいだにも手にしたペンはしだいに重くなり、下がりに下がってとうとう紙に当たると、アルバニアという地名のかわりに<向こう>と書きつけた。彼は故国の名にとってかわったこの言い回しを眺めて、たちどころにずっしりくるものを感じとった。彼の意識はとたんにこの重さをキョプリュリュ的悲しみと形容し、この表現は世界のいかなる言語にも見当たらないが、あらゆる言語に導入されてしかるべきだと思ったのである。(pp.231-2)

著者はアルバニアの作家で、本書はフランス語からの重訳。

カフカを彷彿とさせる何とも言えない雰囲気の小説だった。<夢宮殿>という謎めいた官僚機構がまさにカフカ的世界といった感じで、主人公のマルク=アレムは何らかの見えない思惑で出世していく。イスマイル・カダレの小説はこれで邦訳されているぶんは全部読んだけれど、こういう浮世離れした世界観は初めてだったかもしれない。だいたい著者の小説ってアルバニアの風習が前面に出てくるので、そういうのが抑えめの本作はかなり異質な感じがする。本作だとアルバニアは帝国の一地方に過ぎず、一族は<大臣>を出すほどには権勢を振るっているものの、ある事件を機に主人公のアルバニア人としてのアイデンティティは雲散霧消してしまう。著者は様々な角度からアルバニアを描いている人なので、これはこれでパズルのピースを新たに手に入れたという感じだった。

マルク=アレムは慎重というよりはむしろ小心者で、夢を解釈するにも保身が働き、上司がどう思うか忖度して仕事をする。この辺の官僚っぽさが本作の魅力であり、なおかつストーリー上で重要な役割を果たすことになる。マルク=アレムと深く関わってくるある夢が、一族に悲劇をもたらすという筋書きは何とも皮肉で、これってちゃんと大きな動きのある小説なんだなって意外にも思った。てっきり<夢宮殿>での官僚的日々が延々と続くと予想していたので、いい意味でそれを裏切られたのである。本作はカフカの系譜に連なる小説として忘れ難い印象を残す作品だった。

キャシー・アッカー『ドン・キホーテ』(1986)

★★

中絶手術を目前にして発狂した女はドン・キホーテになり、犬になった聖シメオンをお供に奇妙な冒険をする。ドン・キホーテは66歳、聖シメオンは44歳。彼女は愛を求めながらも様々な社会制度に立ち向かっていくのだった。

「信心深い白人の男たちが女たちを憎むのは、彼らが女を聖母マリアのイメージに仕立てているからです」と夜士は結論した。彼女は、一人として愛してくれる男がいなかったので悲しかった。(p.238)

著者は女バロウズと呼ばれているようだけど、確かによく分からない小説だった。フェミニズムの意匠を身にまとい、カットアップというコピペ芸を駆使し、筋を追うのが困難な強烈なオブセッションを撒き散らす。正直言って、この小説をどう評価すべきか見当もつかないし、そもそもきちんと読解したような手応えもない。ただひたすら文字を追っていくのに精一杯だった。世の中にはこんな意味不明な小説があるのだなあ、と敗北感に打ちのめされている。このわけ分からない狂気は本家ドン・キホーテよりもドン・キホーテっぽいし、作中作が出てくるところもドン・キホーテっぽい。だから『ドン・キホーテ』【Amazon】と比較・対照する読み方もあるのだろうけど、個人的にはその方面でもお手上げだった。本作については全面的に降伏するしかない。

あまり人に勧めづらい小説だけど、とりあえず書き出しが良かったので、これに興味をおぼえた人は一読してみるといいかもしれない。

中絶手術を目前にしてついに発狂した彼女は、女ならだれでも考えつく最もキチガイじみたことを思いついた。愛することである。女はどのように愛することができるのだろうか? 自分以外の誰かを愛することによって、彼女は別の人を愛するだろう。別の人を愛することによって、彼女はあらゆる種類の政治的、社会的、個人的悪事を正すだろう――そういった危険極まる状況に我が身を挺する栄光ある彼女の名は、世に轟き渡るであろう。堕胎は今まさに始まろうとしていた―― (p.7)

というわけで、本作はわけ分からない小説を読みたい人にお勧め。文学の懐の深さを感じることができる……かもしれない。

ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』(1985)

★★★

ジャネットは赤ん坊の頃、狂信的なキリスト教徒の女の養子になり、以来伝道師になるべく厳しい宗教教育を叩き込まれた。キリスト教の教えを信じ込んだジャネットだったが、ある女性に恋をすることで人生が変わることになる。

わたしたちは物語を自分の望む形にこしらえる。物語とは、世界の謎を解き明かしながら、世界を謎のまま残す術、時のなかに封じ込めてしまうのではなく、生かしつづける術だ。一つの物語を百人が語れば、百通りの物語ができあがる。それはつまり、一人ひとりの物の見方が違っているということだ。(p.151)

単行本で読んだ。引用もそこから。

自伝的小説である。

キリスト教の暗黒面をこれでもかと描いていて面白かった。とにかく牧師と母親が悪辣を極めていて、少しでも自分たちの考えから外れたことをしたら相手を悪魔呼ばわりする。反論すると、「取り憑いたものが口をきいているのだ」とにべもない。特に幼い頃のジャネットは彼らに抵抗する手段がないから悲惨で、洗脳されたまま学校に通って周囲から浮いた存在になる。僕はこれを読んで、卓球少女の福原愛を思い出した。福原も幼い頃から親のエゴで人生を決められ、虐待まがいの英才教育を受けて遂にはオリンピックのメダリストになったけれど、あの人生が幸福かどうか問われたら答えに窮してしまう。凡人では叶わぬ栄光を勝ち取ったものの、それは親に操られた主体性のない人生に過ぎない。本作を読んで、幸福な人生とはどういうものなのか考えさせられた。

ジャネットが通う教会にゲストとして来ているフィンチ牧師が強烈だった。彼は悪魔について世にも恐ろしい説教をする人で、聴衆を不安な気持ちにさせている。のみならず、そのファッションもキチガイ染みていて、片側に地獄に落ちて恐怖におののく罪人ども、反対側に天使の群れを描いたバンに乗っている。キリスト教版の「痛車」といったところだろう。さらに、後部ドアとボンネットに〈天国か地獄か? それはあなた次第〉と大書してあるのだから、救いようのないキチガイであることは確実だ。宗教とは人を狂わせる。僕はこのことを再確認したのだった。

自我に目覚めたジャネットが母親と決別して家出をし、しばらく自立して生活した後、クリスマスに帰ってきた場面が印象的だった。出ていくときは母親がジャネットを悪魔呼ばわりして怒り心頭といった感じだったのに、戻ってみたら喧嘩前と変わらない親子然とした態度だったのである(ただし、母親は相変わらず狂信者のままだ)。福原愛も親に反抗して卓球を辞めても、案外家族とは上手くいっていたかもしれない。オレンジだけが果物じゃないように、卓球だけが人生じゃないのだ。

というわけで、親に英才教育を受けている子供は本作を読むべきである。

ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『コスモス』(1965)

★★★

部屋探しをしていた「ぼく」とフクスは、町外れの一軒家に間借りすべくその家に向かう。道中、2人は首くりりのスズメを発見するのだった。その後、宿泊先の部屋の天井に矢印があったため、その方向へ行くと、今度は首くくりの木切れを見つける。誰が何の意図でそんなことをしたのか?

「あんたはこのわしを、きっと、頭のおかしな男と思っとるだろうな?」

「いくらか」

「そういってもらうと楽だね。わしがちょっと気違いのふりをするのは、楽な気になるためさ。楽でもしなくちゃ、とてもやり切れやしないからね。あんたは楽しみが好きかね」

「好きです」

「官能のほうは? 好きかね」

「好きです」

「そうか、これでなんとか、お互いに意見が一致した。簡単な事さ。人間の……好きなものがある……何か? すすきっき。すきっきベルグ」(p.300)

本作はイスマイル・カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』【Amazon】やアントニオ・タブッキ『ダマセーノ・モンテイロの失われた首』【Amazon】といった探偵小説仕立ての文学作品に分類できるだろう。ただし、作中に大きな謎はあるものの、それを明快に解く探偵はおらず、謎そのものは宙吊り状態のままで終わる。些細な日常に「徴」を見出して事件に関連づけていくところは、探偵小説のパロディと解釈できないこともない。すなわち、意味のないものに意味を嗅ぎ取るパラノイア的妄想だ。アントニイ・バークリーあたりがこういう小説を書いていてもおかしくなさそうだけど、不思議なことに書いてないのだった。

「ぼく」ことヴィトルドは、その場の勢いで家主一家の猫を絞め殺して庭の鉤に吊るしてしまう。まるで首くくりのスズメを模すように自ら新たな謎を作ってしまう。彼は探偵であると同時に犯人にもなるのだった。乱暴なことを言うと、探偵と犯人は探偵小説を構成する共犯であるわけだけど、ここまで露骨にその構造を再現してみせたのはなかなか面白い。左右の両端を結合することでその共犯関係を暴き出している。

最終章でルドヴィクの首吊り死体が発見されるところが衝撃的で、さらには何とも言えないユーモアを感じて笑ってしまった。イベントを通じてようやく「ぼく」の関連妄想が収まったと思ったら、ここに来て再燃してしまうのである。神の手(作者)のいたずらというか、よくここでスイッチを切り替えたものだと感心した。

フランソワ・ラブレー『第四の書』(1552)

★★★

聖なる酒びんのご宣託を受けるため、パンタグリュエルと愉快な仲間たちが航海する。道中では、島民全員が親類縁者の鼻欠け島や、殴られることで生計を立てるシカヌー族の島など、奇妙な風習の島々に立ち寄る。また、航海中に嵐に遭ったり、原住民と戦争したりするのだった。

「おやまあ、泣き虫のパニュルジュちゃん、子牛みたいに泣いちゃって。そんなところでサルみたいに、たまきん座布団の上に座って、めそめそ泣いてるよりは、こっちに来て、わしらを助けてくれたほうが、よっぽどましだろうに。」(p.202)

『第三の書』の続編。

様々な架空の部族を登場させて、現実の教皇やら修道士やらを風刺する。『ガリヴァー旅行記』【Amazon】の200年前に既にこういう小説があったとは驚いた。キリスト教って基本的に抑圧的な宗教だと思うのだけど、その抑圧が創作の源泉になるのだから、後世の我々からしたらちょっと複雑である。そういえば、酒を称揚した『ルバイヤート』【Amazon】も、イスラム教が抑圧したおかげで生まれたのだった。何かを創作をするには、ある程度の不自由さ、あるいは不満が必要なのかもしれない。

この巻は、古代ギリシャの詩人アイスキュロスのエピソードが印象的だった。彼は占い師に、「あなたは、これこれの日に、上からなにかが落ちてきて死ぬでしょう」と言われたため、街を避けて大平原のど真ん中に身を委ねていた。上にあるのは大空だけ。これで安心だろうと思っていたら、空から亀の甲羅が落ちてきて殺されてしまった。鷲が亀の甲羅を上から落としてそれが脳天をかち割ったという。おいおい、そんなバカなことがあるかよとWikipediaを見たら、どうやらそういう類の伝説があったらしい。そもそもの出典は何なのかがちょっと気になった。

登場人物が事あるごとに古代ギリシア古代ローマの故事を引き合いに出すところは、中国の文官、もっと遡れば春秋戦国時代諸子百家に似ているかもしれない。昔の中国人は他人を説得するとき、やたらと故事を引いていた。あるときは君主を諌めるため、あるときは他人を論駁するため。僕はそれを読むたびに、昔の人の博識ぶりと、その知識を当意即妙に活かす才気に憧れを抱いていたのだった。古典を大切にする西洋のルネサンスと中国の文化は、精神的に共通するものがあるのかもしれない。