海外文学読書録

書評と感想

ウンベルト・エーコ『前日島』(1994)

★★★★

1643年。小貴族のロベルト・ド・ラ・グリーヴは、戸板一枚で海を漂流して一隻の船にたどり着く。見たところそこは無人のようだった。船からは島が見えるものの、ロベルトは泳げないので渡ることができない。彼はなぜ漂流したのか? それまでの経緯が語られていく。

「つまり、フェッランテは、あなたの恐怖心と羞恥心の象徴なのです。人間という動物は、往々にして、自分の運命を定めているのが自分自身であることを認めたくないので、あたかも想像力のたくましい無頼漢によって語られた小説のごとく、自らの運命を見たがるものなのです」(p.93)

エーコ流のバロック文学といったところだろうか。自然科学やら神学やら妄想やらがボリュームたっぷりに詰め込まれていて、17世紀の西洋世界をここまで再現したのはすごいと感心した。遠い過去を題材にするには、綿密な時代考証とそれを再現する強固な文体が必要だけど、本作はそのどちらも兼ね備えている(翻訳が素晴らしい)。当時の人が世界をどのように認識していたのかが肌で感じられる力作だった。ちょっとこれは並の作家では書けないだろうなと思う。

本作の主筋は、ロベルトがいかにして船から島へ旅立つか? というシンプルなものだけど、さすがにそう簡単には事を運ばせない。物語は若い頃に体験したカザーレの町の包囲戦から説き起こし、その後は枢機卿の奸計に乗せられて〈定点〉の探索をするはめになり、さらには船内でカスパル神父との様々なやりとりが続く。特筆すべきはフェッランテという架空の兄の存在で、ロベルトは最後まで彼の幻影と格闘することになる。最初の登場からしばらくは鳴りを潜めるものの、終盤の小説論を交えたクライマックスに彼が絡んでくるから油断できない。そして、意外に思ったのが、子午線を決定する方法が重要なトピックになっているところだ。これを発見することが至上命令であり、国家の上層レベルまで関わってくるのだから驚く。「前日島」というタイトルは、この子午線の問題に繋がっているというわけ。この小説の面白さはこういった時代を感じさせるディテールにあるので、17世紀の西洋を体験したい人は必読だろう。

あと、随所にユーモアも織り込んであってちょっとニヤリとした。自作である『薔薇の名前』【Amazon】のエピソードがさりげなく披露されたり、カスパル神父が鐘のなかに入って海底を歩こうとして帰らぬ人になったり(その前の押し問答も笑える)、恋文の代筆をしてくれた親友サン・サヴァンが早すぎる退場をしたり。ロベルトの父親が一騎打ちを申し込んできた敵を剣で相手するのではなく、銃であっさりと射殺したのもウケた。エーコは本作をけっこう楽しみながら書いたのではないかと思う。

ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(2013)

★★★

(1) 19世紀。軍人フレッド・バーナビーと女優サラ・ベルナールは気球で空を飛んだ。(2) フレッド・バーナビーがサラ・ベルナールに結婚を申し込む。(3) 作家の「私」ことジュリアンは妻を亡くして自殺を考えていた。

人生の各段階で、世界はざっと二つに分けられる。まずは、すでに初体験をすませた者とそうでない者。次いで、愛を知った者とまだ知らない者。さらにのちには――少なくとも運がよければ(いや、見方を変えれば、悪ければ、だろうか)――悲しみに堪えた者とそうでない者。この区分けは絶対的だ。いわば回帰線であり、越えるか越えないしかない。(p.84)

一流の作家が自分の悲しみを題材にして小説を書くとこうなるのかという感じ。発想からして全然違った。物語は3部構成である。なぜ気球のエピソードで始まるのだろうかと疑問に思い、後にそれが本筋である自己のエピソードと上手く噛み合っていることが分かって感心する。本作は日本だと「私小説」に分類されそうだが、こういう意表を突いた組み合わせ、シナプスが好調に働いたような小説は珍しいような気がする。また、自己の生活をめぐる省察にくわえ、オペラや小説(アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』【Amazon】が登場する!)など出てくる話題も幅が広く、個人的な体験を芸術に昇華することのすごみを感じた。僕もアニメばかり見てないでもっと色々なことに関心をもったほうがいいと思った。すべてが血肉になってる有様は年の功という感じがする。

愛する人を失った者の心理を知るという意味でも興味深い。幸運にも僕はまだそういう経験がないので。あと、僕は前々から食うためにプライベートを切り売りしなければならない人は不幸だと思っていた。売文業を軽蔑さえしていた。しかし、著者にとっては本作を書くことがグリーフ・ワーク(喪の作業)であり、人生を次の段階へ進める通過儀礼なのである*1。そう考えると、自分のこれまでの見識を改めるべきかと殊勝な気持ちになっている。そして話は戻るが、何で自分の悲しみを書くにあたって気球のエピソードを入れようと思いついたのか、著者にインタビューしたいと思った。この発想が本当に光っている。

*1:追記。イーユン・リー『理由のない場所』も本作と同様のグリーフ・ワーク的な小説だった。この手の形式は以外とポピュラーなのだろうか。

キャサリン・ダン『異形の愛』(1989)

★★★★

小人で禿のオリンピア・ビネウスキは、サーカスを運営する両親によって奇形になるよう生み出された。他にも、兄はアザラシ少年、姉はシャム双子、弟は超能力者に生まれついている。サーカスでは兄アーティが権力を握り、遂には健常者を心服させてカルト宗教を形成するまでに至る。

「(……)あなたはきっと、これまで百万回も普通になりたいって願ったでしょ?」

「いいえ」

「え?」

「わたしは頭がふたつ欲しかった。それとも透明になりたかった。足のかわりに魚の尾がついてればって思った。もっとずっと特別なものになりたかった」(p.50)

ペヨトル工房版【Amazon】で読んだ。引用もそこから。

我々が「通常」や「普通」と考えているものとは違った、別の社会規範が堂々とまかり通っている、その独特の世界観がすごかった。ここでは健常者が「フツウ」と見下され、見世物としてより価値のあるフリークスが偉いものだとされている。特に長男アーティのプライドは高く、彼は介護なしで日常生活を送ることができないにもかかわらず、兄弟の間で王様のように振る舞っている。なぜならアザラシ少年である彼のショーは人気だからだ。この世界では人々の耳目を惹くことこそが正義であり、存在の拠り所になる。そして、人の目を向けさせるには奇形度が高ければ高いほどいい(乙武洋匡程度では駄目だろう)。生き抜くためには健常者の世界に適応できないほど重度の奇形、つまり「特別」である必要がある。まさに我々の世界とは価値の逆転が起こっており、『マクベス』【Amazon】の魔女が言っていた「きれいはきたない、きたないはきれい」は、ちょうどこのような状況を指しているのだと思う。

後半でアーティが健常者の一部から神格化され、カルト宗教みたいになっていくところがすごかった。オウム真理教もそうだったけれど、人は見た目が浮世離れしている者に何らかの聖性を感じるのだろう。あるいは無垢と言い換えてもいい。ともあれ、この集団の過激なところはその目的で、信者たちは己の四肢切断を望んでいるのだから半端ない。世の中には欠損フェチなる人がいるらしいけど、もはやそういうレベルではなく、完全に常軌を逸している。僕なんかはここまで来るとまったく理解不能だけど、世界は広いから、こういう人たちもひょっとしたら存在するのではないかと思ってしまう。何が普通で何が異常なのか分からない世界。本作は既存の価値観を揺さぶられたい人にお勧めである。

マヌエル・プイグ『天使の恥部』(1979)

★★★★

(1) 1936年。映画女優の女は、夫によって電流を流した鉄柵のなかに閉じ込められていた。彼女は死者との密約により、30歳になったら他人の心が読めるようになるという。女はスパイの男に恋をして一緒に脱出する。(2) 1975年。メキシコ。癌で闘病中のアンは日記をつけたり、友達や愛人と会話をしたりしている。(3) ポスト原子力時代。セックス治療部に所属するW218はLKJSという男と恋に落ちるも、彼は某国のスパイだった。

でも、世界は男の人たちのもの。法王だって男性、政治家も科学者も。そして、世界はそうしたもの。男の姿に、類似点に合わせて世界は作られている。どれもこれもひどくひどく非人間的で醜悪で荒っぽい。(p.257)

ペロリストとかペロニズムとか、アルゼンチンの政治についてやたらと会話を繰り広げているので、てっきりこれが主題なのかと思っていたら、案に相違して女性の恋の物語、さらには母と娘の物語だった。といってもまあ、そういった政治状況が創造の源になっているのだからまったく無関係とは言いきれない。強いて言うならば、ライトモチーフといったところだろう。本作は(2) があるからこそ、(1) と(3) もあるという構造で、その中に創造主の願望や欲望の破片を見出すところにささやかな楽しみがある。これこれこういう状況があるから、こういう物語が生まれたのだという感じ。人が物語を作るとはどういうことなのか。本作はその根源に迫った小説と言えるかもしれない。

スパイ小説風のメロドラマが意外と面白く、わくわくしながらページを捲っていったのだけど、それにしても、(1) のあっけない終わり方には面食らってしまった。このまま物語の最後まで引っ張っていくのかと思ったのでびっくり。その後を引き継いだ(3) はSFを取り入れながらもやっぱりスパイが絡んでいて、お前はどんだけスパイが好きなんだとツッコミを入れてしまった。たとえば007シリーズは男のハーレクインと呼ばれているけれど、実はこれって女性にも需要があるのかもしれない。ここから自分を連れ出していってくれる白馬の王子様として受容されている、というか。

それにしても、本作は終わり方が良かった。世の中にはラスト一行に余韻が乗る小説が多々ある。本作もその仲間に入るだろう。小説って終わり良ければ全て良しというところがある。

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』(1534)

★★★★

巨人族の王家に生まれたガルガンチュアは、長じてからパリに留学する。そこへ村人たちの些細ないざこざから祖国が攻め込まれて戦争になっているとの知らせが来た。帰国したガルガンチュアは兵を率いて敵を打ち破る。

先日、われ脱糞しつつ

わが尻に残りし借財を感ず

その香り、わが思いしものにあらずして

われ、その臭さに撃沈さる

 

嗚呼、誰か、

われが脱糞しつつ、待つ貴女を、

連れてきてくれぬものか。

さすれば、われ、女の小用の穴を、

がばっとふさぎて、

女は、脱糞しつつ、

その指にて、わが糞穴をふさがんものを。(pp.118-9)

これは面白かった。『ドン・キホーテ』【Amazon】の先駆けみたいな愉快な小説である。訳注や解説によると、本作は当時のカトリック社会におけるアクチュアルな問題を風刺したようだけど、そういうのを抜きにしても、ハチャメチャな騎士道物語といった感じで楽しめる。特に序盤は小学生が好むような下ネタ(糞尿やちんこ)が多くて、何で当代きってのインテリがこんなお下劣な要素を作中に取り入れたのか気になった。小便をしたら洪水が起きて人間が溺れるエピソードとか神話的でさえある。

本作はルネサンス期の小説だからか、ホメロスソクラテスプラトンといった古代ギリシャの文化が引き合いに出されているのが感動的だった。500年前の人も現代人と同じものを読んでいたのだなあという素朴な感慨。他にもカエサルキケロといった古代ローマ人にも触れていて、当時の知識人が何を拠り所にしていたのか分かって興味深い。ルネサンスというのは、キリスト教と古典文化の幸福な結婚だったのだなと思う。

当時はフランス語が書き言葉として認知されはじめた時期のようで、そのせいか作中にはフランス語で初出の言葉がいくつか出てきた。このように作家が言葉を創造するところは、夏目漱石に代表される明治文学に似ているかもしれない。それと、著者が医者であるせいか、解剖学的描写が妙に詳しいところも特徴的だった。

ところで、『ドン・キホーテ』を読んだときも気になったけれど、この時代のトリッパ(臓物料理)って味はどんなものだったのだろう? どうやら牛の胃腸の煮物らしいけど、たとえば現代のもつ煮込みみたいな感じだったのだろうか。昔の人が何を食べていたのかとても気になる。