海外文学読書録

書評と感想

ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(1953)

★★★

1939年8月。ポーランドからアルゼンチンに渡航したゴンブローヴィッチは、遠い祖国で戦争が始まったことを聞く。アルゼンチンに残ることにした彼は当座の金を得ようと職探しをするも、その前に奇人変人が立ちはだかる。さらには公使から文豪と祭り上げられるのだった。その後、金持ちでホモのゴンサーロと盟友になり……。

小生は思わず大声を張り上げた。「だまれ。言わせておけば、いい気になりやがって。父親や祖国に小生を歯向かわせようなんて、冗談も休み休み言ってもらいたい。しかも、このような時局だのに!」奴さんはぶつぶつと、「父親だの祖国だの、そんなものくそくらえ! 息子、息子、そうか、やっとわかった! あんた、口癖のように祖国、祖国って言うけれど、それって何なの? それより、孫国の方がステキじゃない? 祖国の代わりに孫国と唱えたら、おもしろいかも!」(p.89)

荒削りでアッパー系な文章と戯画的な人間模様が絡み合った「奇書」とも言うべき小説だった。著者は本作で、「ポーランドとは何か?」を追求したようだけど、僕は彼の国には詳しくないのでその辺については何とも言えない。ただ、第二次世界大戦ポーランドは悲劇に見舞われたのに、そういった被害者意識を一切出すことなく、ここまで喜劇に徹したのはすごいことだ。ホモのゴンサーロはある青年に色目を使ったことから決闘するはめになったけれど、それは周囲のお膳立てで茶番に終わる。かと思えば、終盤では奇妙な暗殺計画が持ち上がってカーニヴァル的なドタバタになだれ込む。ゴンサーロは唇を赤く塗った変態で、そのキャラはどこかシャルリュス男爵(『失われた時を求めて』【Amazon】の登場人物)を彷彿とさせる。結局のところ、本作とポーランドとの間に何の関係があるのかいまいちよく分からない。けれども、そのアッパー系な熱狂にはインパクトがあって圧倒された。

著者のゴンブローヴィッチは、ポーランドからアルゼンチンに移住した作家である。そこで一つの疑問が生じる。果たしてこの作家はポーランド文学に分類すべきなのか、それともアルゼンチン文学に分類すべきなのか? こういった例は他にもあって、たとえば『ロリータ』【Amazon】で有名なウラジーミル・ナボコフはロシアからアメリカに亡命した作家だし、ノーベル賞作家のJ・M・クッツェー南アフリカからオーストラリアに移住した作家である。僕がこのブログでアメリカ文学やフランス文学といったカテゴリを設けてないのは、越境が容易な現代においてそういう括りが難しくなっているからだ。このままグローバル化が進んでいったらいつか無効になるんじゃないかとすら思っている。いつか我々は国民文学の伝統をゴミ箱に捨てる日がやって来るだろう。そのときの混乱が少し楽しみではある。

コラム・マッキャン『世界を回せ』(2009)

★★★★★

1970年代。ダブリンで生まれ育った「僕」は、修道士としてニューヨークに渡った弟コリガンを追うように渡米する。コリガンは売春婦への慈善活動と介護施設で老人介護をしていた。あるとき、コリガンは売春婦を乗せてバンを運転中に予期せぬ事故に見舞われる。

ニューヨークを訪れた当初、彼はこの街が気に入らなかったというーーゴミだらけの、せわしない街だとーーけれどもだんだん慣れてみると、ぜんぜん悪くなかった。この街にやってくるのは、トンネルに入るようなものなんだ。しばらくすると、大事なのは出口の光じゃないと分かって驚くことになる。時には、トンネルのおかげで出口の光に耐えられるんだと分かることもある。(上 p.237)

全米図書賞受賞作。

読み始めは退屈で正直凡作だろうと思っていた。ところが、無関係と思われたエピソード群がほのかに繋がってきたあたりから面白くなり、終盤は尻上がりに良くなっていって、最後には読んで得したと思わせる傑作になっていた。「純文学」とは本作のためにある言葉だろう。たいていの小説は序盤からある程度評価が固まって動かないものだけど、この小説は星3→星4→星5と読み進めるごとに評価が変わっていった珍しい例だった。

本作の中心には、1974年に世界貿易センターで綱渡りをしたフィリップ・プティのエピソードがあって、その周りを下界の人たちの暮らしがぐるぐるような回っているようなイメージになっている。修道士コリガンを皮切りに、ベトナム戦争で息子を亡くした母親、ニューヨークの芸術家カップル、地下鉄のトンネルでタグを撮影する男など、章ごとに焦点となる人物が変わっていくのだけど、前述の通りこれらが繋がっていくところに快感があり妙味がある。日本の作家だと伊坂幸太郎がこういう構成を用いそう。構成に一工夫あるところが本作に奥行きを与えていて、世界とはこのように繋がり回っているのだということを実感させる。

章ごとに文体を変えているところも良かった。売春婦視点のエピソードやハッカー視点のエピソードなど、よくこんな多彩に描けたものだと感心する。本作は『ならずものがやってくる』の上位互換と言えるかもしれない。巧みな構成によって世界をワイドスクリーンで捉えているところが共通している。日本ではあまり売れておらず、あまり読まれていないのが残念。いやホント、これは傑作だから読んだほうがいいと思う。21世紀の文学とはこういうものだということが分かる。

追記。コラム・マッキャンは他に『ゾリ』も翻訳されている。こちらも負けず劣らずの傑作だった。残りの著作も早く翻訳出版すべきである。

ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』(1991)

★★★★

80年代。ウォール街で働く26歳のパトリック・ベイトマンは、ブランドものに身を包み、仲間たちとレストランで会食したり、女たちとセックスしたりする生活に明け暮れていた。その一方で、彼は殺人嗜癖を満たすべく、無差別に人を殺している。

いまラスティーズでチャールズ・マーフィーと酒を飲んでいて、これで勢いをつけてから、イヴリンのクリスマスパーティーに顔を出すところだ。私が着ているのは、四つボタンでダブルのウールとシルクのスーツ、ボタンダウンカラーをつけたヴァレンチノ・クチュールのコットンシャツ、連続模様の絹ネクタイがアルマーニ、キャップトウの革のスリップオンマフラー靴がアレン・エドモンズ。マーフィーが着ているのは、六つボタンでダブルのウールギャバジンのスーツで、これはクレージュのもの。タブカラーをつけたストライブのコットンシャツと、シルククレープのフラール織ネクタイが、どちらもヒューゴ・ボス。(p.214)

80年代の駄目な部分をこれでもかと突きつけていてインパクトがあった。本作を読むと、当時のアメリカも日本のバブル時代と変わらなかったのだと思う。ここでは不動産王ドナルド・トランプヒエラルキーの頂点にあり、どれだけいいブランド品を身に着け、どれだけ高級なレストランで食事をするかが至上の価値にある。人物が登場するとまず着ている服に注目し、上の引用のような描写が何度も出てくる。作中に氾濫するブランドの名前、有名人の名前。本作は物質文明の境地を極めている。

語り手のパトリック・ベイトマンはエリートビジネスマンなのだが、仕事の場面はほとんどなく、もっぱらプライベートの部分に焦点が当てられている。仲間たちとの会食、女たちとのセックス、フェイシャル(美顔術)、マニキュア(美爪術)、 ペディキュア(足の手入れ)、ジムでのトレーニング。そして、退屈な人生に一片の刺激を与えるかのように殺人がある。本作にはこれといった明確なストーリーはなく、『トレインスポッティング』【Amazon】のように生活の断片を積み重ねているのが特徴だ。ベイトマンの過去はほとんど謎で、分かっているのはハーヴァードのビジネススクールを出たことくらい。確かに高収入でいい生活は送っているのものの、その消費生活はどこか空虚に見える。本作の登場人物は何のために生きているのかさっぱり分からないのだ。ひたすら顕示的消費に明け暮れる人生。これの何が楽しいのだろう?

しかし翻って自分のことを考えると、彼らと大差ない不毛な人生を送っていると思う。朝起きて飯食って仕事して風呂入って寝るの繰り返し。回し車を走るハムスターのような生活。我々はいったい何のために生まれ、何のために生きるのか? 本作はそんな哲学的な問いを突きつけてくる。殺人描写が猟奇的でえぐいので、そういうのが好きな人にもお勧めできる。

エリートビジネスマンが無差別殺人に及ぶのは、弱者を収奪する資本主義社会とパラレルである。サイコパスは弱者を殺すことで己の嗜癖を満たし、資本主義エリートは弱者を殺すことで己の富を増やす。経営者にサイコパスが多いことは周知の事実だろう。本作は徹底して資本主義の寓話を書いている。

ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』(2012)

★★★★

イラク戦争。19歳のビリー含む8人のブラボー分隊の兵士たちは、英雄としてテキサスのスタジアムに駆り出されていた。彼らはフットボールの試合で、芸能人たちと戦意高揚の見世物になっている。兵士たちはこれが終わったら中東に帰任することになっていた。

彼らの年齢がいくつであれ、人生での地位がどうであれ、同胞のアメリカ人たちのことをビリーは子供であると考えずにはいられない。彼らは大胆で、誇り高く、自信たっぷりだ。自尊心に恵まれすぎた賢い子供のようであり、どれだけ教え諭しても、戦争が向かう先の純然たる罪の状態に彼らの目を開かせることはできない。(……)アメリカ人は大人になるために――そしてときには死ぬために――よそに行かなければならない子供なのだ。(p.62)

全米批評家協会賞受賞作。

アメリカを皮肉の効いた筆致で描いていて面白かった。とある翻訳家が「アメリカの小説は無国籍化した」とどこかで書いていたけれど、それはとんでもない間違いなのではないか。また、別の翻訳家は「アメリカ文学アメリカを語らなくなった」と書いていたけれど、これもとんでもない間違いなのではないか。まあ、もしかしたら本作が例外なだけかもしれない。いずれにせよ、本作みたいな気の利いた小説を読むと、アメリカ文学もまだまだ捨てたものじゃないなと思う。

アメリカはフットボールとチアガールが大衆娯楽の華で、人々は祈ることがやたらと好き、資本家たちは兵士たちの英雄的行動を映画にしようと目論み、しかもその映画にはヒラリー・スワンクが主演したがっている(モデルになった兵士は男だというのに)。ブッシュ大統領を含む政権上層部は、ベトナム戦争のときに兵役逃れをしたにもかかわらず、若い世代には戦争を押し付けていた。同様にアメリカ国民も、自分は戦場に行きたくないくせに戦争を熱烈に支持している。この圧倒的歪みが、卑語や罵倒語で話す兵士たちと呼応し、さらにはショーの狂騒と同調することで、とんでもなくグロテスクな空間を作り出している。戦場を舞台にしていないのに戦争の本質を暴いたのが本作のすごいところで、ポスト9.11のアメリカを肌に感じたいのだったら本作は必読だと思う。

それにしても、何かと英雄を欲しがるアメリカの国民性って当のアメリカ人は無自覚だと思っていたけれど、実はそうでもなかったようだ。

ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(2010)

★★★★

盗癖を治すべく精神科医にかかっているサーシャは、かつて有名音楽プロデューサーであるベニーのもとで働いていた。ベニーは元パンクロッカーで、サーシャも彼に負けない数奇な人生を歩んでいる。物語は2人を軸に様々な人物に焦点を当てていく。

「お前にはやれる、スコッティ……やらねばならん」とベニーが言った。いつも通りの穏やかな声だが、その薄くなった白髪の隙から、頭皮が汗に光るのが見えた。「時間ってやつはならずものだ。そうだろ? そのならずものたちを、のさばらせておくつもりか?」(p.421)

ピュリッツァー賞、全米批評家協会賞受賞作。

本作は全部で13章あるのだけど、どれも主人公が違っていて、なおかつ語りの形式も変えてある野心的な内容だった。語りについては、一人称・二人称・三人称といった違いは序の口で、もっといくと芸能記事を模した形式やパワーポイントで作ったスライド形式の章まである。時系列も過去・現在・未来を章ごとに行き来するのだから、これはもう「一筋縄では語らないぞ」という著者の意気込みがひしひしと伝わってくる。ならずもの=時間を捉えるには、このようにワイドスクリーンかつ多面的に描かないといけないのだ。物語そのものは凡庸だったけれど、野心的な形式に惹かれるところがあったので評価は星4にした。やはり現代文学は、何を語るかではなく、どのようにして語るかが重要なのだろう。語るべきものが何もない時代において小説とはどうあるべきか? そのひとつの回答がここにある。

その場を壊したいという一種の破滅衝動が本作に通底している。ある人物は独裁者に余計なことを言って命を危険に晒しているし、ある人物はインタビュー相手の女性を突然強姦しようとしているし、ある人物は友達と一緒のときにわざと怒らせるようなことを言っている。そもそも、本作の主人公格であるサーシャが、盗癖のある問題人物だった。このように精神的自傷行為をする人物が多く登場するのが何とも不思議で、現代のアメリカ人はこんなに病んでいるのか、それとも著者にその傾向があるのか、何とも判然としない気持ちを抱きながら読んだのだった。

追記。全米図書賞を受賞したコラム・マッキャン『世界を回せ』は本作の上位互換である。両方を読み比べてみると面白い。アメリカ文学の進化の方向性が分かる。