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1970年代。ダブリンで生まれ育った「僕」は、修道士としてニューヨークに渡った弟コリガンを追うように渡米する。コリガンは売春婦への慈善活動と介護施設で老人介護をしていた。あるとき、コリガンは売春婦を乗せてバンを運転中に予期せぬ事故に見舞われる。
ニューヨークを訪れた当初、彼はこの街が気に入らなかったというーーゴミだらけの、せわしない街だとーーけれどもだんだん慣れてみると、ぜんぜん悪くなかった。この街にやってくるのは、トンネルに入るようなものなんだ。しばらくすると、大事なのは出口の光じゃないと分かって驚くことになる。時には、トンネルのおかげで出口の光に耐えられるんだと分かることもある。(上 p.237)
全米図書賞受賞作。
読み始めは退屈で正直凡作だろうと思っていた。ところが、無関係と思われたエピソード群がほのかに繋がってきたあたりから面白くなり、終盤は尻上がりに良くなっていって、最後には読んで得したと思わせる傑作になっていた。「純文学」とは本作のためにある言葉だろう。たいていの小説は序盤からある程度評価が固まって動かないものだが、この小説は星3→星4→星5と読み進めるごとに評価がうなぎ登りになっている。とても珍しい例だった。
本作の中心には、1974年に世界貿易センターで綱渡りをしたフィリップ・プティのエピソードがあって、その周りを下界の人たちの暮らしがぐるぐるような回っているようなイメージになっている。修道士コリガンを皮切りに、ベトナム戦争で息子を亡くした母親、ニューヨークの芸術家カップル、地下鉄のトンネルでタグを撮影する男など、章ごとに焦点となる人物が変わっていくのだが、前述の通りこれらが繋がっていくところに快感があり妙味がある。日本の作家だと伊坂幸太郎がこういう構成を用いそう。構成に一工夫あるところが本作に奥行きを与えていて、世界とはこのように繋がり回っているのだということを実感させる。
章ごとに文体を変えているところも良かった。売春婦視点のエピソードやハッカー視点のエピソードなど、よくこんな多彩に描けたものだと感心する。本作は『ならずものがやってくる』の上位互換と言えるかもしれない。巧みな構成によって世界をワイドスクリーンで捉えているところが共通している。日本ではあまり売れておらず、あまり読まれていないのが残念だ。いやホント、これは傑作だから読んだほうがいいと思う。21世紀の文学とはこういうものだということが分かる。
追記。コラム・マッキャンは他に『ゾリ』も翻訳されている。こちらも負けず劣らずの傑作だった。残りの著作も早く翻訳・出版すべきである。