海外文学読書録

書評と感想

鈴木清順『けんかえれじい』(1966/日)

★★★

昭和10年。岡山の旧制中学に通う南部麒六(高橋英樹)はバンカラだった。彼は下宿先の女性・道子(浅野順子)に惚れているが、周囲の目もあってそれを表に出せない。麒六は中学のOB・スッポン(川津祐介)に喧嘩を教わり、学校の不良たちと大立ち回りを演じるのだった。その後、軍事教練にきた教官に反抗した麒六は、ほとぼりを冷ますために会津若松へ移住する。

原作は鈴木隆の同名小説【Amazon】。

バンカラをネタにしたコメディで、テイストとしては初期の『魁!!男塾』【Amazon】に近い。ただ、『男塾』が途中でシリアス路線に舵を切ったように、本作も終盤はシリアスである。娯楽ものと文芸ものを横断するような映画だった。

バンカラとは男性性を誇示するホモソ集団で、「男を磨く」と称して独特の活動をしている。たとえば、喧嘩に明け暮れるとか、校則を破るとか、女性との交際は避けるとか。見たところ戦前のボーイズクラブといった感じで、ジェンダー規範に縛られた行いをしている。まあ、当時はそういう時代だったのだろう。お上である大日本帝国軍国主義だったから、末端の学生も似たような思想に染まっている。そう考えると、バンカラとは軍隊の縮小再生産だったのだなと思う。

バンカラにとって反抗は男子の本懐で、その実践として校則を破ることが推奨されている。校則破りだなんて随分しょぼいと思われそうだけど、当時は軍人が教練に来ていたから今よりもハードルが高かった。軍人に反抗することはすなわち大日本帝国に反抗することである。学生といえどもただでは済まない。強烈な制約があるからこそ、それを破ることが美学になるのだ。こういった度胸試しはいつの時代も大なり小なりあるわけで(僕の学生時代にもあった)、ボーイズクラブに所属するのも大変だと痛感する。

僕も歳をとってすっかり忘れていたけれど、若者とは本来エネルギーに溢れた存在なのだ。放っておいたらそのエネルギーを悪いことに使ってしまう。実際、本作のバンカラたちは喧嘩でエネルギーを発散していた。よく言われているように、現代の学校が部活動を設置しているのは、若者がしょうもないことにエネルギーを使わないようにするためだろう。部活動によって非行を防止しようという腹なのだ。まったくもって余計なお世話である。僕も学生時代はその制度に乗せられて若い力を浪費していた。部活動がなければ時間とエネルギーを有効活用できたはずなので、今でも学校教育には反感を抱いている。

ラスト。麒六はある事件を機に東京行きの汽車に乗り込む。その表情はいつになく真剣でモラトリアムの終焉を示すものだった。本作は前半がバカバカしかったからこそオチが効いているわけで、モラトリアムを扱った映画としてよくまとまっている。