海外文学読書録

書評と感想

莫言『蛙鳴』(2009)

蛙鳴(あめい)

蛙鳴(あめい)

  • 作者:莫 言
  • 発売日: 2011/05/01
  • メディア: ハードカバー
 

★★★★★

2002年。高密県東北郷。劇作家のオタマジャクシこと万足が、日本の作家に手紙を書く。彼は伯母を題材に演劇を書こうとしていた。万足の伯母は若い頃から産婦人科医として村の赤ん坊を取り上げてきており、1960年には戦闘機のパイロットと結婚するという噂が立った。ところが、そのパイロットは飛行機で台湾に亡命してしまう。やがて文化大革命が勃発、伯母は同僚の誣告によって吊るし上げられる。その後、伯母は農村の計画出産を指導するが……。

軍の党指導者から至急電報を示されました。妻の王仁美が第二児を孕んだというのです。指導者は厳しく申し渡しました。きみは党員で、幹部だぞ。一人っ子証明を受領し、毎月一人っ子手当を受領しておきながら、なぜ妻に第二児を孕ませたりしたのかね? わしは呆然としてなすすべありません。指導者は命じました。ただちに帰宅し、断乎流せ!(p.160)

一人っ子政策を題材にした小説だけど、半世紀に及ぶ歴史を射程に収めつつ、中国農村部のディープな人間模様を描いていて迫力があった。やはりアジアナンバーワンの作家は莫言かな。ちなみに、万足が手紙を送っている相手は大江健三郎がモデルで、作中では彼が困難な子供を育てたことについてちらっと触れている。大江健三郎は『暴力に逆らって書く』【Amazon】のなかで、ギュンター・グラスマリオ・バルガス=リョサスーザン・ソンタグといった一流どころと書簡を交わしていて、その人脈の広さはさすがノーベル賞作家という感じがする。

計画出産の恐ろしいところは、2人目を孕んだら基本的には問答無用で堕胎に及ぶところだろう。といっても農民の場合、第一子が女の場合は第二子も産めるので、彼らは3人目を孕んだら堕胎である。男にはパイプカット、女には避妊リングと、ある程度は妊娠抑制の手段がとられるとはいえ、それらを振り切ってでも「子供が欲しい!」と願って妊娠するところは実にたくましい。そして、あくまで計画出産を遵守しようと堕胎を遂行する体制側と、それを逃れようとする妊婦との争いは壮絶で、その顛末はなかなか悲しいものがある。国のために出産がコントロールされるとは何て酷いことだと義憤を覚える反面、しかし人口を抑制しなければ子供が食べたり着たり学んだりできなくなるから複雑だ。無軌道に子供を出産したとして、彼ら全員を食わせていくだけの力が国家にはない。これを敷衍すれば、地球の人口問題にまで及ぶわけで、計画出産とは必要悪ではないかと思える。作中の言葉を借りれば、「小さな非人道で大きな人道に取って代わらせる」ということだ。

ただ一方で、年配の世代は「女は子供を産むために生まれてくる」「女子の地位は子供を産むことででき、女子の尊厳も子供を産むことでできる」「子供を産まぬことは女子のいちばん大きな苦痛」と考えていて、こういうのを目にすると、産みたい人には産ませたらいいのではないかという気持ちに傾く。現代の日本人から見たらPCに反する考えではあるけれど、そこはそれ、この小説は中国が舞台なので。人口問題という大義をとるか、自由という別の大義をとるか。ここまで来るともはや哲学の領域に入っていて答えが出ない。

話が21世紀に移ると計画出産も形骸化しており、金持ちは罰金を払えば何人でも産めるし、子供が欲しい人のために代理出産サービスまで出来ている。この辺の強かさはいかにも中国といった感じで苦笑してしまう。結局、現実世界の一人っ子政策は、少子高齢化のため2014年に緩和されたけれど、にもかかわらず出生率が大して上がってないところが皮肉である。中国も経済が発展して日本みたいな価値観になったということだろうか。今後、この国がどうなっていくのか気になるところである。

タイトルにもなっている「蛙」は子供の隠喩で、伯母はこれのことを卒倒するほど苦手にしている。産婦人科医の伯母はたくさんの赤ん坊を取り上げてきた反面、計画出産に従ってたくさんの胎児を殺してきた。蛙が苦手なんて実に辛辣な設定だと思う。

アリ・スミス『両方になる』(2014)

★★★

カメラの章。21世紀のイギリス。10代の少女ジョージは、ゲリラ広告活動家の母親を抗生剤のアレルギーで亡くしていた。ジョージは母の生前、一緒にイタリアに行ってルネサンス期に描かれた絵を見ている。その絵にはある曰くがあった。目の章。15世紀のイタリア。絵の才能を持った少女が父の指導のもと男として生きることに。彼女はフランチェスコ・デル・コッサの名で仕事をする。さらに、彼女の魂は21世紀に生きる少女を見ていた。

私が死んだときもきっと、町はこんな風景なんだ、とジョージは思う。じゃあ、もし今飛び降りたら? 何も変わらないだろう。私がまき散らした汚れはきれいに洗い流されて、次の夜はまた雨が降って通りの表面に光沢があるか、雨は降らずに通りの表面はつや消しになっているかのどちらかで、時々下を車が通るだろう。忙しい日なら、買い物に出掛ける人たちの車が駐車場の前に列を作って、この最上階も車でいっぱいになり、また夜になれば空っぽになり、月日が巡り、また二月がやって来て、また来て、また来て、二月の後に二月の後に二月と過ぎ、それにもかかわらず、この歴史を持った町は歴史を持った町であり続けるだろう。(pp.71-72)

カメラの章と目の章が共に第一部という対等な関係になっていて、ノンブルも別々についている。両者は相互補完的な関係で、読者はどちらから読んでもいいことになっているけど、書籍で読む場合はとりあえず印刷されている順に読むだろう。ちなみに、原書のKindle版【Amazon】だと読む順番を選択できるらしい。また、原書の書籍版【Amazon】は、目→カメラの順のものとカメラ→目の順のものがそれぞれ半々の割合で印刷され、全く同じパッケージで書店に並べられたという。その辺、邦訳版の本書はどうなんだろう? あいにく確認出来ていない。

ウラジミール・ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』【Amazon】のなかで、「まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである」と述べているけど、本作はまさしく再読を要求される小説だと思う。というのも、1回読んだだけでは2つの章がどう関連しているのか掴みづらいので。僕はカメラの章から読んだけれども、目の章を読み終えてから再読して画家の名前を見つけたときは「あっ!」と驚いてしまった。ひょっとしたら読む順番によって驚きのポイントが違うかもしれない。目の章から読んだ人はどう思ったのだろう? ともあれ、こういう二重螺旋みたいな小説はあまり見かけないので、貴重な読書体験ができた。

目の章で印象に残っているのが、売春宿でフランチェスコが娼婦たちに絵を描くエピソード。その絵を見た娼婦たちが、自分に自信を持って賃上げを要求したり、別の人生を歩もうと表から堂々と出ていったりするところに芸術の力を感じた。それと、バルトとの関係もなかなかせつないというか、けっこう訳ありで心に残る。15世紀を舞台にしたこの章は、ジェンダーという今日的な問題に注目していて、古くて新しい内容だと思う。

一方、カメラの章で印象に残っているのが、iPadやグーグルマップ、フェイスブックといった現代的なガジェットがやたらと出てくるところ。現代文学において現代性を担保するのがこれらITなのかと思うと、隔世の感がある。というのも、僕が現代文学を読み始めた頃って、前述のガジェットは一つも存在していなかったから。ITと言ったら、ダイヤルアップ接続でようやくインターネットに繋がるという時代だった。作家も時代に合わせて現代性を演出しないといけないから大変だと思う。

ハイヒールで歩いてるところを「美しさに似つかわしくないよちよちした足取り」と表現していて、ハイヒールとは現代の纏足ではないかという考えが脳裏をよぎった。今は道にうんこが落ちてることなんてそうそうないから、実用的な意義も薄れているし。かつて纏足がお洒落だったように、今日ではハイヒールがお洒落になっている。後世の人はグロテスクに思うんじゃないかな。現代人が纏足に対して思うように。

ニコルソン・ベイカー『U&I』(1991)

★★★★

1989年8月。2作目の小説を書き終えた「わたし」は、ドナルド・バーセルミの訃報に思いを馳せる。そして、「わたし」は自分に影響を与えたジョン・アップダイクについて、彼が生きているうちにエッセイを書こうと決意する。ところが、「わたし」はアップダイクが書いた文字の半分も読んでいなかった。

笑ってしまうほど取るに足りないだろうか? 信じがたいだろうか? そうかもしれない。それでも、ぼくが先に、かつて南カリフォルニアで見て触ったことのある音楽家のたこのことを書いていなかったとしたら、アップダイクはジェインの美しいチェロだこのことを書いていなかっただろう。ぼくが印刷物のなかに存在したから、アップダイクの本がほんのわずかではあっても変わったのだと思う。一分か二分、一九八三年のあるとき、恩義の向きが逆転した。ぼくがアップダイクに影響をあたえた。そしてこれがぼくの必要とする空想上の友情のすべてだ。(p.211)

これはジョン・アップダイクへの一風変わったラブレターである。作中ではわりと率直に彼への不満も述べているけれど、それも含めての「愛」なのだろう。「わたし」にとってアップダイクは「20世紀アメリカ文学者の模範」だというのだから、その存在は大きいようだ。そして面白いのは、そんな「わたし」がアップダイクの著作をあまり読んでいないところである。5ページも読んでない本が5冊、20ページ未満が7冊、半分未満が4冊。一方、半分以上読んだのが6冊で、最後まで読んだのが8冊だという。作家が他の作家について語るときって、著作を全部読んだうえで語るのが普通だと思っていたので、この有様には苦笑してしまった。しかも、本人が「読まず語り」と称しているのだからたまらない。僕もアップダイクの小説はあまり読んでないので、実は本書を読むのを躊躇していたのだけど、著者自身があまり読んでないことが分かって安心したのだった。

ちなみに、ピエール・バイヤールは『読んでいない本について堂々と語る方法』【Amazon】のなかで次のように述べている。

教養ある人間が知ろうとつとめるべきは、さまざまな書物のあいだの「連絡」や「接続」であって、個別の書物ではない。(……)教養の領域では、さまざまな思想のあいだの関係は、個々の思想そのものよりもはるかに重要だということになる。
(……)
したがって、教養ある人間は、しかじかの本を読んでいなくても別にかまわない。彼はその本の内容はよく知らないかもしれないが、その位置関係は分かっているからである。つまり、その本が他の諸々の本にたいしてどのような関係にあるかは分かっているからである。(pp.23-24)

僕みたいに大して本を読んでない人間にとってはまったくもって心強い言葉である。それにバイヤールの言っていることが真実なら、「わたし」の読まず語りも正当化されるだろう。時間は有限で読める本にも限りがあるので、読まなくていい本はなるべく読まないようにしたい。

本作を読んで印象に残ったのが、ウラジミール・ナボコフやアイリス・マードックなど、英米の作家がたくさん引き合いに出されているところだ。しかも、「わたし」はティム・オブライエンとパーティで顔を合わせて会話までしている。オブライエンはアップダイクとゴルフをするほどの仲らしい。本作は英米文学好きにとっては、ご当地の文壇事情が垣間見えて興味深いと思う。アップダイクがナボコフの小説の書評を書いてナボコフがどういう反応を示したとか、日本では黙殺されているアラン・ホリングハーストが向こうでは話題になっているとか。他にも知ってる作家の名前がいっぱい出てきてミーハー心がくすぐられた。

読んでいる最中はとりとめのない内容だと思っていたけれど、ラストがビシッと決まっていて読後感が良かった。「終わりよければすべてよし」という言葉は本作のためにある。そう言っても過言ではないかもしれない。本作は英米文学が好きな人だったら面白く読めるだろう。作家の名前がたくさん出てくるので、読書欲が刺激されること請け合いである。僕も今まで以上にどんどん読んでどんどん書いていこうと思う。

ポール・オースター『インヴィジブル』(2009)

★★★★

1967年。ユダヤ人の大学生アダム・ウォーカーが、国際情勢研究所の客員教授ルドルフ・ボルンと出会う。ボルンはウォーカーに、資金を提供するから雑誌を作ってそれで生計を立てるよう提案する。さらに、ボルンは自分と同棲している女マルゴと寝るようウォーカーにけしかけるのだった。やがてある事件が起きて……。

君たちは二人ともトルストイドストエフスキーを、ホーソーンメルヴィルを、フロベールスタンダールを愛するが、この時点では君がヘンリー・ジェームズに耐えられないのに対し、グウェインはジェームズこそ巨人のなかの巨人だ、ジェームズの前ではほかの小説家はみなこびとみたいなものだと主張する。カフカベケットについては完全に意見が一致するが、セリーヌも同じ次元に属すと君が言うと彼女はあざ笑い、あんなのはファシストの狂信者だと断じる。(p.115)

これは面白かった。ボルンの申し出があまりに突拍子もないので、ジョン・ファウルズの『魔術師』【Amazon*1みたいな企みがあるのかと思ったら、実は小説の構造そのものに企みがあった。作中では殺人や近親相姦といったショッキングな出来事が語られるのだけど、その真実性を揺さぶるところはいかにも現代文学という感じがする。このブログで何度も書いている通り、現代の作家はとにかく一筋縄では語らない。何らかの工夫を凝らすなり、捻りを入れるなりしてくる。Aという物語に外枠を作って、実はそのAは信用できないのだと示す手法は、『ギデオン・マック牧師の数奇な生涯』でも使われていた。しかし、同じやり口でも本作のほうが一枚上手で面白い。というのも、『ギデオン・マック~』はいくぶん取ってつけた感があったので……。その点、本作は用意周到というか技巧的というか、とにかく興味の引き方が上手かった。アダム・ウォーカーもルドルフ・ボルンも、そして外枠にいる作家も実は……という部分は、架空のオートフィクションみたいで個人的にもっとも気に入った箇所だ。ここまで来ると、どこまでが真実でどこからが虚構なのか気になるし、もし虚構だとしたらなぜそんな嘘をでっちあげたのか気になる。気にしちゃ負けなんだろうけど気になる。そんなわけで、作者の術中に見事にはまってしまった。

いわゆる「信頼できない語り手」をやるに当たって、前述のように外枠を作るのはスマートではないだろう。読んでいる途中はそう思っていた。カズオ・イシグロの『日の名残り』【Amazon】みたいに、それとなく分からせるのが至芸だろう。読んでいる途中はそう思っていた。けれども、読み終わってみるとそういう思い込みが覆されたので、自分の小説観が広がったような気がした。小説に限らず、本というのは読めば読むほど経験値が得られて世界が拓けてくる。そのことを実感したので、これからも色々な本をたくさん読んでいきたい。

地の文と会話文が溶け合った文章は、英語の原文で読むより日本語訳で読んだほうが遥かに分かりやすいと思う。日本語だと一人称で男女の区別がつくし、会話も男口調と女口調で色分けしやすい。敬語もあるから上下関係や距離感なんかもすんなり理解できる。だから文章が入り組んでいても誰が話しているのか判別しやすい。訳者の柴田元幸もそこを意識していたのではなかろうか。こういう小説を日本語で読めるのは幸せなことだと思う。

*1:この小説は傑作だ。個人的にはオールタイム・ベスト10に入る。

ギョーム・アポリネール『一万一千本の鞭』(1907)

★★★★

ブカレスト。大金持ちの家系のモニイ・ヴィベスクは、友人であるセルビアの副領事にオカマを掘られた後、パリに移住する。そこで女2人とスカトロプレイをするも、直後に2人組の強盗に押し入られる。そこでまた乱交が始まり、興奮した女が1人の強盗のペニスを噛みちぎる。その強盗は相棒に止めを刺されて死亡、スキャンダルになる。やがて生き残った強盗と再会したモニイは、彼を子分にしてオリエント超特急に乗り込む。

マドモワゼル、あなたに気がついたとたんに、わたしは恋の虜になって、わたしの生殖器があなたのこの上ない美しさに向かって突っぱるような感じがしたんですよ。それに、アラック酒を一杯飲んだよりはるかに自分の体が熱くなる思いがするんです」

「どなたの家で? どなたのところでお会いしたかしら?」

「わたしは、自分の財産も愛情も、あなたの足許に投げ出しますよ。もしわたしがあなたをベッドにお連れしたら、続けて二十回も情熱を証明して見せられるんですがねえ。もしこれが嘘だったら、一万一千人の処女の罰を受け、いや、一万一千本の鞭でたたかれてもかまいませんよ!」(p.30)

ポルノ小説というよりは、エログロ要素の強めな悪漢小説という感じだった。主人公のモニイが、ブカレストからパリを経て、最後は日露戦争下の旅順にたどり着く。その間にスカトロやらSMやら、さらに老婆を犯すやら乳飲み子を犯すやら*1、つまり変態性欲がてんこ盛りでお腹いっぱいになった。この部分で印象に残っているのは、オリエント超特急でモニイと子分が2人の女とセックスする場面。そこで片方の女が不慮の事故で死んでしまうのだけど、モニイの子分がその女の内臓を引っ張り出して自分の体に巻きつけているのは壮観だった。さらにその後、モニイがもう1人の女をナイフで刺して瀕死になったところを犯し、断末魔の痙攣を味わう場面もあって、こいつらようやるわと思った。ポルノ小説の目的って自慰のオカズにすることにあると思うけど、さすがにこれで抜ける人はいないだろう(抜ける人がいたら怖い)。本作は露出狂とでも言うべき悪徳の数々をただただ眺めるような趣向になっていて、戦場ポルノならぬ悪徳ポルノと言えるかもしれない。

作中では躊躇いなく人を殺したり、男女問わず性的に蹂躙したりもするけれど、それらも含めてのブラックユーモアなのだろう。今考えると、けっこう突っ込みどころが多かったような気がする。本作で一番笑えたのがスカトロの場面で、モニイが女に対して「わたしの手の上にうんこをしてくれ、手の中にうんこをしてくれ!」と大声で言ったのが可笑しかった。

ちなみに、女の尻からうんこが出る場面は以下の通りである。

軟らかいソーセージが、あたかも船のケーブルのように繰り出してきた。だんだんと間隔の開いてゆく美しい尻のあいだで、優雅にブランラブランと宙に揺れていた。まもなくいちだんと大きく揺れて、尻はさらに大きくふくれ上がり、ちょっと体を動かすと、うんこは、それを受けとめようとして伸ばしていたモニイの手の中に、ホカホカと暖かいまま、湯気をたててポツンと落ちた。(p.50)

僕はこんなに笑える排便シーンを今まで読んだことがない。名文と言っていいだろう。

終盤では日露戦争下の旅順が舞台になるのだけど、ここで出てきた日本人娼婦のキリエムがなかなかの存在感を発揮していた。何より日本文化を交えた身の上話がいい。自分を連れ去った武器商人のことを「まるでカマクラのダイブー(大仏)のような美男」と評したのはギャグにしか思えなかった。美男を形容するのに鎌倉の大仏はないだろ、鎌倉の大仏は。とはいえ、与謝野晶子が「鎌倉や/御仏なれど/釈迦牟尼は/美男におわす/夏木立かな」と詠んでいるので、昔の人はあれを美男だと思っていたのかもしれない。この辺の感覚は自分にはよく分からないかな。

というわけで、変態性欲の饗宴を味わった。

*1:この2つはモニイがやるのではなく、他の人がやる。