海外文学読書録

書評と感想

イタロ・カルヴィーノ『不在の騎士』(1960)

★★★

中世ヨーロッパ。シャルルマーニュ大帝は異教徒のサラセン軍と戦争していた。皇帝の下に集った騎士アジルールフォは、白い鎧を身に着けていたが、中身は空洞の「不在の騎士」として参戦している。彼は意志の力で動いていた。アジルールフォは自分に騎士の資格があることを証明するため、従者のグルドゥルーを連れて15年前に助けた処女ソフローニアを探す旅に出る。

「おお、これは愉快じゃ! ここには存在しておりながら、自分の存在しておることを知らぬ男、そしてむこうには、おのれの存在していることを承知してはいるが、その実、存在しておらぬわしの臣将! これはみごとな一対じゃ、間違いないぞ!」(p.36)

思ったよりもまっとうな騎士道物語だった。騎士のアジルールフォは鎧の中がからっぽだし、従者のグルドゥルーは目の前の人物を自分と思い込む変態だったから、てっきり『ドン・キホーテ』【Amazon】みたいに旅先でいじめられるんじゃないかと心配していた。ところが、そんなことは杞憂とばかりに主従はスムーズに目的を遂行している。ドン・キホーテサンチョ・パンサの主従とは一味違っていたのだ。特にソフローニアを助ける場面が機知に富んでいて、自身の不在性を逆手にとったところにに感心した。

この小説は他にも何人か登場人物がいて、女騎士を交えた恋の三角関係が展開したり、アジルールフォとは別の騎士が自身の出生を探る旅に出ていたり、複数の糸が相互に絡まり合っている。ただ、それでも話自体はとてもシンプルなので、イタロ・カルヴィーノの入門編にぴったりだろう。少なくともこの前読んだ『冬の夜ひとりの旅人が』よりはよっぽどシンプルで読みやすい。僕の知人はイタロ・カルヴィーノが苦手だと言っていたので、その人にぜひ勧めてみたいと思った。

古めかしい雰囲気を纏いながらも、プロットに捻りが効いているところが本作の特徴だろう。古代の物語のテンプレよろしくあわや母子相姦かと思っていたら、上手くその関係を回避していたり、修道女だという語り手が実はAという人物かと思っていたら、別の意外な人物だったり。この辺の調整の上手さがいかにも20世紀の小説だと思う。

なお、シャルルマーニュ大帝はフランス語読みで、高校の世界史だとカール大帝として習う人物(少なくとも僕の時代はそうだった)。『ローランの歌』【Amazon】や『狂えるオルランド』【Amazon】にも出てくる。

リチャード・パワーズ『エコー・メイカー』(2006)

★★★

ネブラスカ州。マークがトラックを運転中に事故に遭って意識不明の重体になる。姉のカリンが病院に駆けつけて彼を看病するも、意識を取り戻したマークは彼女のことを偽物だと思い込んでいた。マークはカプグラ症候群という障害を負っており、姉を認めないのはその症状だという。カリンはその道の権威である神経科学者のウェーバーに連絡を取る。

人間とそのほかの動物が皆同じ言葉を話していた時、鶴の鳴き声は言いたいことを素直に伝えていた。今の私たちは不明瞭な谺の中で生きている。「山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る」とエレミヤは言った。人間だけが神の秩序を思い出せずにいる。(pp.253-254)

全米図書賞受賞作。

家族の絆を中心に据えたいかにもなアメリカ文学だった。もともとアメリカ文学は家族ものが多かったけれど、最近のは専門知識を交えた家族小説が目立つ。といっても本作の場合、家族と言っても姉と弟しかいなくて、しかも2人の関係はカプグラ症候群によって絶望的な状況にあるという……。カプグラ症候群は統合失調症と似たところがあって、自分の違和感を妄想によって埋めてしまうため、正しい現実認識ができない。愛しの姉をよく似た別人だと思い込み、それは何らかの陰謀だとして彼女の献身を拒んでいる。2人の関係がどのように変わっていくのかが、本作の見どころの一つだろう。

一方で、本作にはミステリ小説的な要素もある。マークの事故には他に2台の車が絡んでいたが、それらは行方不明である。また、マークの病室にはまるで詩のような意味深な置き手紙があった。マークは意識を取り戻すも、事故前後の記憶は喪失している。さらにカプグラ症候群については、神経科学者のウェーバーが探偵のような役どころで治療を模索する。正直、600ページもの長尺を読ませるにはいささか弱い謎だし、手紙についてはミスディレクションがないから誰の仕業かバレバレだったけれど、こういう構築の仕方はいかにも現代小説だと思う。

本作は人間関係のあやが丁寧に描かれていて、登場人物はキャラではなく人間といった感じになっている。こういう人たちが実在してもおかしくないというか。作中では何度か視点が変わるのだけど、それによってお互いがお互いを誤解しながら何とか関係を保っていることが分かって興味深い。「人間を描く」ことに関しては、日本の現代小説は海外にだいぶ遅れをとっている。根本的に表現の厚みが違っているのだった。

ウンベルト・エーコ『前日島』(1994)

★★★★

1643年。小貴族のロベルト・ド・ラ・グリーヴは、戸板一枚で海を漂流して一隻の船にたどり着く。見たところそこは無人のようだった。船からは島が見えるものの、ロベルトは泳げないので渡ることができない。彼はなぜ漂流したのか? それまでの経緯が語られていく。

「つまり、フェッランテは、あなたの恐怖心と羞恥心の象徴なのです。人間という動物は、往々にして、自分の運命を定めているのが自分自身であることを認めたくないので、あたかも想像力のたくましい無頼漢によって語られた小説のごとく、自らの運命を見たがるものなのです」(p.93)

エーコ流のバロック文学といったところだろうか。自然科学やら神学やら妄想やらがボリュームたっぷりに詰め込まれていて、17世紀の西洋世界をここまで再現したのはすごいと感心した。遠い過去を題材にするには、綿密な時代考証とそれを再現する強固な文体が必要だけど、本作はそのどちらも兼ね備えている(翻訳が素晴らしい)。当時の人が世界をどのように認識していたのかが肌で感じられる力作だった。ちょっとこれは並の作家では書けないだろうなと思う。

本作の主筋は、ロベルトがいかにして船から島へ旅立つか? というシンプルなものだけど、さすがにそう簡単には事を運ばせない。物語は若い頃に体験したカザーレの町の包囲戦から説き起こし、その後は枢機卿の奸計に乗せられて〈定点〉の探索をするはめになり、さらには船内でカスパル神父との様々なやりとりが続く。特筆すべきはフェッランテという架空の兄の存在で、ロベルトは最後まで彼の幻影と格闘することになる。最初の登場からしばらくは鳴りを潜めるものの、終盤の小説論を交えたクライマックスに彼が絡んでくるから油断できない。そして、意外に思ったのが、子午線を決定する方法が重要なトピックになっているところだ。これを発見することが至上命令であり、国家の上層レベルまで関わってくるのだから驚く。「前日島」というタイトルは、この子午線の問題に繋がっているというわけ。この小説の面白さはこういった時代を感じさせるディテールにあるので、17世紀の西洋を体験したい人は必読だろう。

あと、随所にユーモアも織り込んであってちょっとニヤリとした。自作である『薔薇の名前』【Amazon】のエピソードがさりげなく披露されたり、カスパル神父が鐘のなかに入って海底を歩こうとして帰らぬ人になったり(その前の押し問答も笑える)、恋文の代筆をしてくれた親友サン・サヴァンが早すぎる退場をしたり。ロベルトの父親が一騎打ちを申し込んできた敵を剣で相手するのではなく、銃であっさりと射殺したのもウケた。エーコは本作をけっこう楽しみながら書いたのではないかと思う。

ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(2013)

★★★

(1) 19世紀。軍人フレッド・バーナビーと女優サラ・ベルナールは気球で空を飛んだ。(2) フレッド・バーナビーがサラ・ベルナールに結婚を申し込む。(3) 作家の「私」ことジュリアンは妻を亡くして自殺を考えていた。

人生の各段階で、世界はざっと二つに分けられる。まずは、すでに初体験をすませた者とそうでない者。次いで、愛を知った者とまだ知らない者。さらにのちには――少なくとも運がよければ(いや、見方を変えれば、悪ければ、だろうか)――悲しみに堪えた者とそうでない者。この区分けは絶対的だ。いわば回帰線であり、越えるか越えないしかない。(p.84)

一流の作家が自分の悲しみを題材にして小説を書くとこうなるのかという感じ。発想からして全然違った。物語は3部構成である。なぜ気球のエピソードで始まるのだろうかと疑問に思い、後にそれが本筋である自己のエピソードと上手く噛み合っていることが分かって感心する。本作は日本だと「私小説」に分類されそうだが、こういう意表を突いた組み合わせ、シナプスが好調に働いたような小説は珍しいような気がする。また、自己の生活をめぐる省察にくわえ、オペラや小説(アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは…』【Amazon】が登場する!)など出てくる話題も幅が広く、個人的な体験を芸術に昇華することのすごみを感じた。僕もアニメばかり見てないでもっと色々なことに関心をもったほうがいいと思った。すべてが血肉になってる有様は年の功という感じがする。

愛する人を失った者の心理を知るという意味でも興味深い。幸運にも僕はまだそういう経験がないので。あと、僕は前々から食うためにプライベートを切り売りしなければならない人は不幸だと思っていた。売文業を軽蔑さえしていた。しかし、著者にとっては本作を書くことがグリーフ・ワーク(喪の作業)であり、人生を次の段階へ進める通過儀礼なのである*1。そう考えると、自分のこれまでの見識を改めるべきかと殊勝な気持ちになっている。そして話は戻るが、何で自分の悲しみを書くにあたって気球のエピソードを入れようと思いついたのか、著者にインタビューしたいと思った。この発想が本当に光っている。

*1:追記。イーユン・リー『理由のない場所』も本作と同様のグリーフ・ワーク的な小説だった。この手の形式は以外とポピュラーなのだろうか。

キャサリン・ダン『異形の愛』(1989)

★★★★

小人で禿のオリンピア・ビネウスキは、サーカスを運営する両親によって奇形になるよう生み出された。他にも、兄はアザラシ少年、姉はシャム双子、弟は超能力者に生まれついている。サーカスでは兄アーティが権力を握り、遂には健常者を心服させてカルト宗教を形成するまでに至る。

「(……)あなたはきっと、これまで百万回も普通になりたいって願ったでしょ?」

「いいえ」

「え?」

「わたしは頭がふたつ欲しかった。それとも透明になりたかった。足のかわりに魚の尾がついてればって思った。もっとずっと特別なものになりたかった」(p.50)

ペヨトル工房版【Amazon】で読んだ。引用もそこから。

我々が「通常」や「普通」と考えているものとは違った、別の社会規範が堂々とまかり通っている、その独特の世界観がすごかった。ここでは健常者が「フツウ」と見下され、見世物としてより価値のあるフリークスが偉いものだとされている。特に長男アーティのプライドは高く、彼は介護なしで日常生活を送ることができないにもかかわらず、兄弟の間で王様のように振る舞っている。なぜならアザラシ少年である彼のショーは人気だからだ。この世界では人々の耳目を惹くことこそが正義であり、存在の拠り所になる。そして、人の目を向けさせるには奇形度が高ければ高いほどいい(乙武洋匡程度では駄目だろう)。生き抜くためには健常者の世界に適応できないほど重度の奇形、つまり「特別」である必要がある。まさに我々の世界とは価値の逆転が起こっており、『マクベス』【Amazon】の魔女が言っていた「きれいはきたない、きたないはきれい」は、ちょうどこのような状況を指しているのだと思う。

後半でアーティが健常者の一部から神格化され、カルト宗教みたいになっていくところがすごかった。オウム真理教もそうだったけれど、人は見た目が浮世離れしている者に何らかの聖性を感じるのだろう。あるいは無垢と言い換えてもいい。ともあれ、この集団の過激なところはその目的で、信者たちは己の四肢切断を望んでいるのだから半端ない。世の中には欠損フェチなる人がいるらしいけど、もはやそういうレベルではなく、完全に常軌を逸している。僕なんかはここまで来るとまったく理解不能だけど、世界は広いから、こういう人たちもひょっとしたら存在するのではないかと思ってしまう。何が普通で何が異常なのか分からない世界。本作は既存の価値観を揺さぶられたい人にお勧めである。