海外文学読書録

書評と感想

ニコス・カザンザキス『キリストはふたたび十字架に』(1948)

★★★★

トルコの役人アガスに統治されているリコヴリシ村。復活祭の火曜日、地元の長老会は来年の復活祭で上演予定のキリスト受難劇の配役を発表する。キリスト役に選ばれたマノリオスは癩病に罹って山に籠り、使徒ヨハネ役に選ばれたミヘリスは自宅の財産を難民に寄付し、マグダラのマリア役に選ばれたカテリーナはマノリオスに思いを告げる。やがてアガスの小姓が何者かに殺害され、怒り狂ったアガスによって村に激震が走るのだった。

「司祭様、どのように神を愛すべきなのでしょうか?」

「人を愛しながらだよ、マノリオス」

「それでは、どのように人を愛すべきなのでしょうか?」

「人を正しい道に導こうと努めながらだ」

「それでは、正しい道とはどんな道なのでしょうか?」

「上り坂の道だ」(下 p.140)

本作には日本語訳が3種類ある。僕が読んだのは恒文社の福田千津子・片山典子訳。とても読みやすい訳で、なぜ後に新訳が2つも出たのか疑問に思ったけれど、調べたら恒文社も新風舎も倒産したようで、絶版を防ぐためにこうなったのだと推測される。なかなか難儀な経緯だ。

内容はというと、キリストの受難を描いた宗教寓話であり、同時にギリシャ民族の受難を描いた国民文学でもある。寓話としての図式はわりと単純で、キリスト受難劇の俳優に選ばれた村人たちがそれぞれ自分の役と同化していく。たとえば、キリスト役のマノリオスはキリストっぽい聖人になり、ユダ役に選ばれたパナヨタロスはユダっぽい裏切り者になる。トルコの役人アガスはユダヤ属州総督ピラトのポジションになるだろう。司祭や長老といった村の支配階級は自分たちのことしか考えない守銭奴であり、難民の処遇をめぐってマノリオスたちと対立する。この小説は主題も明白で、キリストがもう一度地上に降りてきても長老や司祭が再び十字架にかける。つまり、キリストの教えに忠実な社会になると、支配階級にとって都合が悪いから殺すしかなくなる。「キリストはふたたび十字架に」というタイトルは、そのことをストレートに表わしている。

本作で目を引いたのは、村の支配階級がマノリオス一派をアカと罵っているところだった。ロシアのスパイだとも言っている。世の中に正義と平等を持ち込むと当然主教もいなくなり、身分を重んじる教会にとって都合が悪い。さらに、金持ちがいなくなって貧乏人だけになる社会、支配者がいなくなって奴隷だけになる社会、そういう社会をマノリオス一派は目指しているのだと非難している。これは言い掛かりにも程があるのだけど、ただ見ようによってはそういう面もあることは確かで、キリストの教えに忠実だと現在よりも共産主義に近づくのは否めないだろう。難民に自分たちの富を分け与える。難民に自分たちの土地を分け与える。このアカ扱いは個人的にはけっこうな驚きで、キリスト教共産主義の意外な共通点に不思議な縁を感じたのだった。僕にとってキリスト教は資本主義の原動力というイメージだったので……。でも、キリスト教原理主義的に捉えると実は共産主義になってしまう。これは面白い論理だった。

結局はギリシャ人同士、キリスト教徒同士で争っているのだけど、その上にはイスラム教国家のトルコが君臨しており、彼らの争いはコップの中の嵐である。イエス・キリストは自分と同じユダヤ人によって十字架にかけられた。本作のマノリオスも自分と同じギリシャ人によって殺されている。どちらも本来なら助け合うべき者たち――被支配者層――が争っているわけだ。この構図があまりに救いようがなくて暗澹たる気分になる。

ウィリアム・シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』(1594)

★★★

ヴェローナの青年紳士ヴァレンタインは、恋など一瞬の快楽だとケチをつけていた。ところが、ミラノに旅行すると大公の娘シルヴィアと相思相愛の仲になり、駆け落ちの算段までつけてしまう。一方、ヴァレンタインの友人プローティアスはジュリアのことを愛していたが、ミラノでシルヴィアに会った途端、彼女に一目惚れする。ヴァレンタインはプローティアスに裏切られてミラノから追放されるのだった。その後、ジュリアが小姓に変装してミラノにやってくる。

プローティアス 恋をしていて友を大事にする男がいますか?

シルヴィア プローティアス以外の男はみな大事にします。

プローティアス ええい、心に触れるやさしい言葉を尽くしても

あなたの態度を和らげることができないなら、

軍人らしく剣の先を突きつけて求愛し、

愛の本質に逆らった愛し方をしよう――力で犯す。

シルヴィア ああ、神様!

プローティアス 力ずくで俺の欲望に屈服させてやる。(p.160)

これはけっこうな問題作で、作中にもそういう感じの注釈がついていた。何が問題かというと、女性をもの扱いしているところだ。「シルヴィアは俺のもの」とか、「シルヴィアに対する俺の権利はすべて譲る」とか、男性が女性をまるで所有物のように扱っている。思えば、『じゃじゃ馬馴らし』【Amazon】も女性の扱いに問題があって、初めて読んだときは面食らったのだった。これはたぶん時代の制約なのだろう。女性に人権がなかった時代。男性が女性を支配していた時代。だから、いちいち目くじらを立てるのはお門違いなのだろう。しかし、現代に生きる僕としては、読んでいてショックを受けたのは確かだ。

ショックといえば、プローティアスがシルヴィアをレイプしようとしたところもショッキングだった。これは安心と安全のシェイクスピア劇じゃなかったのかよ! みたいな。実はプローティアスの人物像もなかなかぶっ飛んでいて、ジュリアという恋人がいるにもかかわらず、シルヴィアに横恋慕して、親友であるヴァレンタインを陥れている。プローティアスは一応、「ジュリアを捨てれば誓い破りになる、/美しいシルヴィアを愛せば誓い破りになる、/友を裏切ればもっと大きな誓い破りになる。」と葛藤している様子を見せているのだけど、それにしてもやっていることがえげつなくて、恋とは人をここまで狂わせるのかと恐れおののいた。といってもまあ、この部分は演劇用に誇張されているというか、キャラとしてデフォルメされているような感じもするので、あまり真に受けてはいけないのかもしれない。あくまでストーリーに奉仕するためのキャラクター。いずれにせよ、プローティアスは注目に値する人物像になっている。

シェイクスピア劇の面白いところは、脇役同士のやりとりがアクセントになっているところだ。本作の場合、スピード(ヴァレンタインの召使い)とラーンス(プローティアスの召使い)のやりとりがそれに相当する。思うに、こういう些細な部分に劇作家の力量が表れるのではないか。本筋ではない箸休め的な部分が隠れた見所なのだ。そんなわけで、本作も一定のクオリティを保っていて楽しめた。

トーマス・ベルンハルト『凍』(1963)

★★★★

研修医の「ぼく」が勤務先の下級医から任務を託される。下級医の弟にして画家のシュトラウホを精確に観察するように、と。山岳地帯の寒村ヴェングに止宿した「ぼく」は、シュトラウホと接触して彼から色々な話を聞く。独特の思想を持ったシュトラウホは孤独な人生を歩んでいた。

彼は、その言葉によれば「眠るためでなく、恐ろしい静けさの中でひとり泣くため、自分だけを相手にむせび泣くために」自室に引き下がる前に言った「何たることだろう、何もかもが粉々にされ、何もかもが解体され、すべてのよりどころが壊れ、確乎たるものすべてが塵と化し、何ひとつ存在しなくなり、ほんとうにもはや何ひとつ存在しなくなったとは。分かるかね、宗教からも、非宗教からも、すべての神的存在に関する滑稽な長さに引き伸ばされた見解からも何ひとつ、まったく何ひとつ生まれず、いいかね、もはや信仰も無信仰も存在せず、つまずきの石である科学、今日の科学、数千年も前菜であり続けている科学ときたら、一切を放り出し、一切を褒め殺し、一切を大気中に吹き飛ばしたのだ。いまでは一切が空気でしかない……耳を澄ますのだ、一切がいまでは空気でしかない、あらゆる概念が空気だ、あらゆるよりどころが空気だ、一切がもはや空気でしかない……」。しばらくして彼は言った「凍てついた空気、一切はもはや凍てついた空気でしかないのだ」。(p.172)

本作は語り手が画家を観察し、彼の発言を切り貼りして断片的に紹介していくのだけど、その画家というのがなかなか興味深いパーソナリティをしていて、起伏のない筋書きであるにもかかわらず、まったく飽きずに読むことができた。画家は人生の酸いも甘いも噛み分けた孤独な世捨て人みたいな感じで、とにかくやたらと箴言めいたセリフを吐く。「自然の原動力は犯罪的なものであって、自然をよりどころにするなどというのは言い逃れにすぎない。人間の手が触れると何もかもが言い逃れの種になってしまう」とか、「時間は、時間という問題に取り組むための手段ではない」とか、「私にはここの石くれのひとつひとつに人間の歴史が刻みこまれているのが感じられる」とか。僕はこの発言の数々を見て、元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムを思い出した。オシムもまた気の利いた発言をたくさんしていたのだった。彼の半生を描いた『オシムの言葉』【Amazon】はけっこう売れていたと思う。

それはともかく、本作の画家はあらゆる面で恵まれておらず、枯れた人生観なり世界観なりを吐露している。これはこれである種の悟りを開いていると言えるほどだ。しかし、語り手はそんな画家を「無能な人間」と評価していて、親しくしているわりにはけっこう手厳しい。まあ、確かに客観的に見れば負け犬ではあるだろう。でも、僕はこういう報われない年長者がどうにも好きで、ちょっとだけなら友達付き合いをしてもいいかなと思ってしまう。その人生経験から得た叡智を授けて欲しい。持たざる者の諦念を思いっきりぶつけてほしい。期せずして本作はそんな僕の願望をシミュレートする形になっていて、偏屈な年長者との友達付き合いを疑似体験することができた。ネットでは「キモくて金のないおっさん(キモカネ)」が話題になっているけれど、彼らもその先を極めれば画家みたいな賢者になれるのではないか。キモカネのみなさんは悟りを開いてぜひ迷える若者を導いてほしい。

あとは旅館の女将や皮剥人といった地元民を通して、先行きの見えない山岳地帯の寒村を描出していたのが良かった。この時代はまだ戦争の記憶が残っていて、当時のエピソードがぽつぽつ語られている。住民たちは多くが戦争経験者。当時の村は犯罪者だらけだった。過去も現在も、そして未来にも希望がないところが何とも物寂しい。本作はその凍てついた寂寥感がたまらなく身にしみる。

大西巨人『神聖喜劇』(1978-1980)

★★★★★

1942年。新聞記者の東堂太郎が補充兵として対馬に招集される。彼は超人的な記憶力と持ち前の論理によって、軍隊内の様々な不条理に抵抗する。東堂は学生時代に社会主義活動の疑いをかけられて逮捕され、九州帝大法学部を中退していた。彼は同年兵の冬木と友情で結ばれる一方、軍曹の大前田に目をつけられる。

「止めて下さい。誰にも許されていません、そんなことをするのは。」

むろん、まるきり私は、そういう事態の発生を予想も予期もしなかったのであったが、私の絶叫とほぼ同時に、さながら山彦のように、もう一つの絶叫が、私の左後方で上がったのである。

「止めて下さい。人のいのちを玩具にするのは、止めて下さい。」(vol.5 p.209)

ハードカバー版で読んだ。引用もそこから。

これはすごかった。風刺文学とか戦争文学とか、本作をひとことで言い表すのはおよそ不可能で、とにかく色々なものが詰まっていてお腹いっぱいになった。これだけ充実した読書ができるのもなかなかないって感じ。本作には風刺文学や戦争文学の要素は多分にあるけれど、それ以外にも日本人論だったり、文化論だったり、教養小説だったり、ヒューマニズムだったり、推理小説だったり、諸々の要素がごった煮的に混ざっていて一筋縄ではいかない。もちろん、優れた大長編によくあるように、しばしば脱線もする。本作については、ある側面を説明すると別の側面がこぼれ落ちるし、その総体を手際よく説明するのも難しくて、結局どういう内容なのかは実際に読んでもらうしかない。インテリが本気を出して小説を書くとこうなるのかという感じで、一読者としてはとても厄介な小説だった。

特徴的なのが論理的細部への徹底した拘りだろう。たとえば、主人公の東堂は上官の理不尽な言動に対し、幾度となく法規を参照してその間違いを明らかにしている。その結果、部下の軍規無視を咎めている上官が、実は彼自身軍規無視をして咎めているという捻れた構造が浮き彫りになっていて、軍隊の理不尽さの源泉が透視されている。要するに、上官が軍規を正確に理解しないまま慣習的に部下を裁いているわけだ。

この部分で面白いのが、「知りません」禁止、「忘れました」強制の慣習を考察するところで、話があれよあれよと天皇の絶対無責任にまで及ぶのがスリリングだった。そうなのだ。日本人が無責任なのは、天皇が制度的に無責任にされているからなのだ。特に昭和天皇が戦争責任をとらなかったのは象徴的で、だから下々である日本国民も無責任なのである。だって国のトップが無責任なんだものね、そりゃしょうがないよ。というわけで、個人的にこの論考はとても腑に落ちた。

模擬死刑の章で、東堂と冬木が吊し上げを食らっている同年兵を庇う場面は最高に胸熱だった。この小説でこんなにぐっとくるとは予想外だったよ。あと、前述の冬木は特殊部落出身のうえ、傷害致死で執行猶予の身であるため、何かと上官に目をつけられているのだけど、彼の冤罪を晴らそうとシャーロック・ホームズばりに推理を働かせる東堂が格好よかった。冬木は上官から剣𩋡すり替えの犯人と目されていたのだ。この推理部分も論理的細部への徹底した拘りが発揮されていて、ミステリファンを満足させるんじゃないかと思う。

本作は部落差別だったり、軍隊の給料だったり、中世実践武士道と近世理念武士道の違いだったり、とにかく色々な考察が目白押しなので、筋道立った話が好きな人は大いにはまるだろう。面白いのは、超人的な記憶力をもった東堂が無謬ではないところで、最後に些細なミスを犯して足元を掬われたのには驚いた。そういう風に捻ってくるとは思わなかったので……。本作は読みづらいわりに意外とサービス精神が旺盛である。

今の日本の作家っておたくはいてもインテリはいないから、もう二度とこういう桁外れな小説は書かれないだろう。圧倒的な知の衰退。優秀な人間はもはや小説を書かなくなってしまった。そういうわけで、本作は日本文学最後の本格大長編と言っていいと思う。

ホレス・ウォルポール『オトラント城』(1764)

★★★

オトラントの領主マンフレッドには、18歳の娘マチルダと15歳の息子コンラッドがいた。羸弱な後者を溺愛したマンフレッドだったが、婚礼の日にコンラッドは巨大な兜に押しつぶされて死んでしまう。跡継ぎがほしいマンフレッドは、息子の婚約者であるイザベラに言い寄るも、謎の青年の助けもあって、彼女に逃げられてしまう。やがてオトラントに真の領主を名乗る者が現れ……。

「真の城主、容れ能わざるほど巨大になりしとき、偽りの城主とその同胞、オトラントの城を去らん」――この予言がいったい何を暗示しているのか、その解釈をよくする者はひとりとしておりません。まして、今般の婚儀との繋がりとなると見当もつきません。しかしながら謎が深ければ深いほど、矛盾が大きければ大きいほど、領民たちは婚礼と予言との結びつきをいつまでも信じるのでした。(p.9)

ゴシック・ロマンスの始祖らしい。中編くらいの長さだったけれど、なかなか濃い読書体験ができた。普段ゴシック小説を読まない僕からしたら、中世の城を舞台にしたこの小説は目新しさに溢れている。魔術師や超常現象などが普通に存在するものとして扱われているのは驚きだし、十字軍の時代を舞台にしているせいか、騎士道精神が当たり前のように出てきて感動した。当時の読者にとってはアナクロ趣味かもしれないけど、現代人の僕からしたら一周回って新しいのである。だって僕はオーソドックスな騎士道物語を読む前に『ドン・キホーテ』【Amazon】を読んでしまったから。そのせいで騎士についてはパロディの元ネタという認識しか持ってない。だから、古城と騎士の組み合わせはいいものだと無邪気に喜んだ。

農民のセオドアが実は神父の息子だったとか、そのセオドアがさる貴族の子孫でオトラント城の正当な持ち主だったとか、そういうサプライズを仕込んでいるところが小憎らしい。そもそも冒頭に分かりやすい予言を置いて、オトラントの領主が代わることを示唆するあたり、古い小説のお約束という感じがする。僕は昔の小説には昔の小説らしい振る舞いを期待しているので、このサービスぶりには満足した。冷静に考えてみればマンフレッドが気の毒だけど、本作を読むにあたっては登場人物に感情移入する必要はないのだろう。あくまで古城と騎士を中心としたゴシック的雰囲気に飲まれていればいいような気がする。

しかし、作中でマチルダを殺したのはいくらなんでもご都合主義ではないかと思う。ヒロインは2人もいらないから、片方を殺してすっきりさせようということなのだろう。おまけに彼女はマンフレッドの血筋だから、生かしておくのも座りが悪い。悪役の娘とは思えないくらい性格が良かっただけに死なすのは惜しかった。