海外文学読書録

書評と感想

笑笑生『金瓶梅』(1573-1620?)

★★★

宋の徽宗の時代。河北で薬屋を営む西門慶は、人妻の潘金蓮と密通してその夫・武大を毒殺させる。武大の弟・武松が復讐に行くも、2人は運よく助かるのだった。西門慶の第五夫人に納まった潘金蓮は、後に第六夫人として加わった李瓶児に敵対心を抱きながら、淫蕩の限りを尽くす。一方、西門慶は商売の手を広げ、さらには官職に就いて権勢をふるう。

迎春がいってしまうと、西門慶は女を懐に抱き、両手を胸にやってその乳をまさぐりながら、

「いい子、お前、子供を産んでるのに、お乳はまだこんなにぴいんとしまってるんだね」

と、ふたりで顔を合わせて口づけをし、しばらく舌をしゃぶりあっております。(下 p.110)

中国古典文学大系(小野忍、千田九一訳)で読んだ。引用もそこから。

水滸伝』【Amazon】のスピンオフ。全百回。

水滸伝』が好漢の世界を描いていたのに対し、本作は庶民の世界を描いている。中国人って今も昔も変わらないのだなと思った。男たちは賄賂を使って法を捻じ曲げ、女たちは不満があるたび誰彼構わず悪態をつく。本当にこれ、400年前の話かよって思う。今と全然変わってない。特に同時代の西洋文学と比べて目を引くのが、女たちがやたらと口の悪いところで、中国って意外と開放的だったのかもと感心した。見た目は可憐でも、中には毒が詰まっているというか。とにかくみんなたくましくて油断ならない。ちょっとでも目を離したら浮気をするし、隙を見せたら殺されかねないところがある。僕はこういう傑物たちと渡り合う自信がないので、中国に生まれなくて良かったと胸を撫で下ろした。

主人公の西門慶は精力絶倫の色男で、6人もいる妻たちでは飽き足らず、女の使用人や他人の妻にまで手を出して色事に励んでいる。おまけに彼は廓通いもしていた。性質は悪と言ってよく、李瓶児を手に入れる際には、ヤクザものを夫のところへ派遣して借金の証文をでっちあげている。また、彼は下男の妻とも通じているのだけど、その下男が邪魔になったら、今度はそいつを強盗に仕立てて遠方に追放している。まさに金と権力にまかせてやりたい放題。絵に描いたような悪党である。

と、このように西門慶はどうしようもないろくでなしだけど、しかし李瓶児が死んだときには涙を流して悲しんでいて、こんな鬼畜にも人間の心があるのかと見直した。他の奥方連中が淡白だっただけに尚更である。不良がたまに善行をするといい人に見える現象だろうか。とはいえ、あれだけ色々な女と浮気しながらも、妻に対して情があったのは意外で、人間というのは善悪できっちり分けられるものではなく、多面性があるのかもしれないと思った。

本作のもう一人の主人公は潘金蓮で、こいつはとんでもない性悪女だ。夫を毒殺して西門慶の元に転がり込んだ経緯も去ることながら、家庭内では常に揉め事の中心にいて、他の奥方連中――特に李瓶児――を讒言して足を引っ張っている。こいつは西門慶と違っていいところはひとつもない。筋金入りのエゴイストである。だから第八十七回で武松に惨殺されたときはすかっとしたのだった。最後は内臓を引きずり出されて首を斬られている。人が殺されて溜飲が下がる小説って滅多にないのではないか。勧善懲悪ってこんなに気持ちいいものだとは思わなかった。

なお、本作は過激な性描写が特徴とされているけど、翻訳ではその部分が削除されたりマイルドにされたりしていて、全体的に骨抜きにされていた。正直、あまりにエロくなくて拍子抜けである。ところが、今年刊行された田中智行による新訳【Amazon】だと、性描写も忠実に訳しているという。ただ、残念なことに新訳版はまだ上巻(全体の1/3)しか出てないので、エロを堪能したい人はしばらく待つ必要がある。僕も全巻出たら新訳版で再読して、今度はエロ中心の感想を書くつもりだ。中国四千年の秘術、是非とも味わいたい。

呉明益『自転車泥棒』(2015)

★★★

作家の「ぼく」は、20年前(1993年)に父親が自転車と共に失踪して以来、古い自転車を集めるようになった。父親の自転車はどこに消えたのか? と長年疑問に思っていたが、あるときコレクターの家でそれが見つかる。その自転車を起点に、日本統治時代からの様々な物語が語られる。

静子が手紙を読むのを聞きながら、ぼくは深く、長い息を吸った。物語はいつだって、自分がどうやって過去から現在のここにやってきたか、知ることができないからこそ存在している。最初は、物語が時間に摩耗されてもなお、冬眠のようにどこかで生き残っている理由がだれもわからない。でも、耳をそばだてているうちに、呼び覚まされた物語は呼吸とともに体内に入ってくる。あとはまるで針が脊椎から脳のなかへ滑り込むように、冷たく、熱く、また冷たく……心に刺さる。(p.396)

思ったよりも話のスケールが大きくて驚いた。『歩道橋の魔術師』が中華商場という限られた場所を舞台にしていたのに対し、本作はそれがマレーシアのジャングルだったり、ビルマの森だったり、戦時中のアジアを視野に収めている。出てくる人たちも、台湾の原住民や日本の老婦人など様々だ。自転車というひとつの物を通して、家族の記憶、ひいては戦争の記憶までをも引っ張ってくる。これは並大抵の構想じゃないと感心したのだった。昔は自転車がメルセデスベンツと同じくらい貴重で、一生に一台持てるか持てないかだったという。そういう時代から始まって、自転車が人の思いを受け継ぐバトンみたいな役割を担ってあちこち移動している。物語としては探偵小説みたいに自転車の来歴を探求する話なのだけど、それが遠い戦争の記憶を眼前に呼び起こすのだから意表を突かれた。

もちろん、この戦争には日本が大きく関わっている。当時の台湾は日本の統治下にあったし、マレーシアもビルマも日本が攻め込んでいった地域だ。台湾に住む人たちも、日本人として戦争に駆り出されている。最近、日本では台湾文学がブームになっているけど、これは日本が歴史的に台湾と関わりが深いうえ、現在のややこしい政治状況のなかで「こちら側の国」と目されているからだろう。しかし、一連の台湾文学を読むと事情は複雑で、日本が台湾を含むアジア地域に残した爪痕は大きい。「台湾は親日国だ、万歳!」なんて喜んでいる場合ではないのである。台湾人からすれば、日本は外来政権のひとつで、振り返ってみればそれなりに割り切れないところもあるのだろう(これはあくまで想像に過ぎないけど)。そして、だからこそ日本人は台湾文学を読むべきなのだ。台湾を理解することは日本を理解することにも繋がる。日本がアジア地域で何をしてきたのか。当該地域の人たちはどういう生活を送ってきたのか。そのことを知るのは日本人としての義務だと思う。

作中に出てくる台湾人の名前が、アブー、ナツ、アッバスと中国風じゃないのが気になった。どうやら別に中国風の本名があるようだけど、普段はこれら外来風の名前で呼ばれている。これはどういうことなのだろう? 台湾では実際にそういう習慣があるのだろうか? でも、今まで読んできた台湾文学ではみんな中国風の名前が使われていたので、本作にはいささか戸惑ったのだった。

ギ・ド・モーパッサン『女の一生』(1883)

★★★★

男爵の一人娘ジャンヌが、17歳になって修道院の寄宿舎から出てくる。間もなく彼女は子爵のジュリアンと出会い、彼と結婚するのだった。コルシカへのハネムーンまでは比較的良好な関係だったが、その後はジュリアンの吝嗇ぶりに拍車がかかり、愛情も薄れていく。やがてジュリアンが女中のロザリと寝ていることが発覚し……。

「神様はどこにいるの、叔母さん?」

するとリゾン叔母は空を指さして言った。

「あの高い所にですよ。プーレ、でもだれにもそんなことをお話しでないよ」

リゾン叔母は男爵を恐れていたのだった。

ところがある日のこと、プーレが彼女に堂々と宣言した。

「神様はどこにもいらっしゃるんだよ。だが、教会の中にはいらっしゃらないんだよ」(pp.556-557)

新潮社の世界文学全集(新庄嘉章訳)で読んだ。引用もそこから。

少女から老境に至るまでの一人の女の人生を追っている。これがまた嫌な感じで、イケメンの夫に浮気されるわ、可愛い子供はろくでなしに育つわ、最初から最後まで踏んだり蹴ったりである。僕だったらこういう人生は絶対に送りたくないけど、それを他者の経験として追体験できるのがフィクションの醍醐味だろう。やっぱり他人の人生、とりわけ不幸な人生は面白いのである。特に最近ではTwitterで自己開示する人が多く、僕はそういう人たちのツイートを見るのが好きだ。自分は日本社会から迫害されている迫害されているとボケ老人のように繰り返す女性作家。毎日のようにブロン【Amazon】をODしては発作的に狂った言動をする薬物依存症の青年。そういう負け犬たちの人生を反面教師にして、僕は弱肉強食の世界を生きている。

本作を読んで思ったのは、人生に期待してはいけないということだ。ジャンヌは貴族の生まれで比較的恵まれた境遇なのだけど、それでも結婚によってケチがついて不幸な日々を送ることになる。その後、ある事件で夫が死んで不幸の源から解放されたと思いきや、今度は可愛い息子が夫と同じくらいのろくでなしに育ってジャンヌを失望させることになる。一般的に人は配偶者に対してはある程度諦めがつくけれど、子供にはまっとうに育ってほしいと期待してしまうわけで、それが裏切られたときのダメージは大きい。もし自分の子供が犯罪者になったらどうしよう? あるいはどこの馬の骨とも分からぬ男と駆け落ちして行方不明になったらどうしよう? いくら手塩にかけて育てても、そうなる可能性は捨てきれない。だから我々は人生に期待せず、たとえ最悪の状況になってもたくましく生きていく。そういう覚悟が必要なのだ。

本作には前述のような知見が詰まっているので、できれば学生のうちに読んでおいたほうがいいと思う。僕も学生時代は受験戦争に勝ち抜いて人生楽勝だと舐めていたから、自分が思わぬところで躓くとはまったく想定していなかった。人生には浮き沈みがあるなんて考えもしなかった。ただ、総じて今の状況には満足しているので、問題は肉体が衰えていくこれから、日本社会が沈没していくこれからということになる。仕事にせよ家庭にせよ、将来何が起きるか分からない。幸せな人生を送ろうなんて考えず、与えられた条件のなかで図太く生きる。本作を読んでそう決意したのだった。

モーパッサンは短編の名手だけあって、本作はラスト一文が素晴らしい。これを味わうためだけに読む価値がある。

ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』(1857)

★★★★

開業医のシャルル・ボヴァリーが、年増の妻を病気で亡くす。彼は農家の一人娘エマを後妻に迎えるのだった。エマは物語のような結婚生活を夢見ていたが、やがてシャルルの凡庸さに失望する。彼女は書記の青年レオンに恋した後、遊び人のロドルフと不倫する。エマはロドルフに駆け落ちを迫るが……。

結婚するまでエマは恋をしているように思っていた。しかしその恋からくるはずの幸福がこないので、あたしはまちがったんだ、と考えた。至福とか情熱とか陶酔など、本で読んであんなに美しく思われた言葉は世間では正確にどんな意味でいっているのか、エマはそれを知ろうとつとめた。(pp.36-37)

新潮社の世界文学全集(生島遼一訳)で読んだ。引用もそこから。

不倫を題材にした小説はたくさんあるが、本作はそのなかでも1位2位を争う知名度だろう。対抗はもちろん『アンナ・カレーニナ』【Amazon】だ。両作とも不倫したヒロインが絶望の果てに自殺するという筋だが、本作の場合は気持ちのすれ違い以上に借金の影響が大きく、エマが金策に奔走する様子は切迫感があって読み応え抜群である。ロマン主義が凡庸な現実に敗北するというのが本作の主題のようで、我々の人生は恋愛小説のようにはキラキラしていないのだと残酷なまでに表している。全体的にトルストイみたいな説教臭さはなく、敗れゆく者を冷徹に突き放しているところがいい。エマの死後、彼女を追うように不幸な最後を迎えるシャルルと、それとは逆に出世していくオメーを対比するところがまた何とも言えず、善人だからといって報われるわけではない、人生とはままならないものだという思いを強くさせる。

物語に憧れて不倫に走ったエマは、現代で言えば恋愛至上主義に囚われた人になるので、これはある意味では今の時代と繋がった出来事として読める。いつだってロマン主義は人生を狂わせるのだ。とはいえ、昔と違って今は不倫のハードルが下がっているため、理想を追い求めてもそうそう酷い目に遭ったりはしない。せいぜい離婚されて慰謝料を取られるくらいだろう。この記事を書いている現在、日本ではパパ活やママ活といった割り切った関係が流行しており、不倫の新時代を迎えている。欲望の赴くまま生きることが可能になっている。そうなると、逆にエマみたいな人生が劇的で素晴らしいものに見えてしまい、彼女の悲劇が新たなロマン主義の地位に君臨することになる。これは随分と倒錯しているが、時代によって価値観が変転することを示していて興味深い。不倫して破滅的な人生を突き進む。それこそが現代の聖典にふさわしいのだ。

技術的には自由間接話法を用いた心理描写が斬新らしい。その辺の妙味はいまいちよく分からなかった。ただ、これは翻訳の影響が大きく、たとえば芳川泰久による新訳【Amazon】だと、原文を忠実に訳してその特色を引き出しているという。ともあれ、僕が気に入ったのは共進会でお偉いさんの演説と平行してエマとロドルフのやりとりを進行させる場面で、現代文学ばりの対位法的手法に感心したのだった。この部分は一読の価値がある。

というわけで、本作は不倫を題材にした文学作品を読みたい人にお勧めだ。「不倫は文化だ」の時代に生きる現代人なら、昔の人とは違った読み方ができるだろう。

ミロスラフ・ペンコフ『西欧の東』(2011)

★★★

短編集。「マケドニア」、「西欧の東」、「レーニン買います」、「手紙」、「ユキとの写真」、「十字架泥棒」、「夜の地平線」、「デヴシルメ」の8編。

女性が六十年も大事にとっておくような手紙を書けるなんて、私には想像もできない。あの男ではなく、私だったならよかったのだが。人生の終わりよりも始まりに近かったころ、ノラが出会ったのが。これがありのままの事実なのだーー私たちの人生は終わりかけている。私はまだ終わりたくない。いつまでも生きていたい。若者の体と、若者の心に生まれ変わりたい。ただし、自分の心と体で生まれ変わるのはごめんだ。私の記憶などない人間としてやり直したい。その、もうひとりの男になりたい。(p.10)

8編中7編がブルガリアを舞台にしている。ブルガリアと言ったら、ストイチコフ琴欧洲と碧山くらいしか知らなかったので、本書はとても新鮮だった。著者はアメリカの大学院で創作を学んだだけあって、どの短編も驚くほど洗練されている。翻訳も読みやすいので、万人向けの短編集と言えるだろう。

お気に入りは、「マケドニア」、「西欧の東」、「レーニン買います」の3編。

以下、各短編について。

マケドニア」。脳梗塞で倒れた妻とそれに付き添う71歳の夫。夫が妻の持ち物から恋文を見つける。それは夫と出会う前、60年前に死んだ男からのものだった。手紙にはオスマン・トルコとそれに反抗する義勇軍の物語が綴られている。僕はブルガリアの歴史についてまったく無知だったけれど、こういうのは普遍性があって心を揺さぶられる。本作はブルガリアの歴史と家族の物語が絡み合うところが良かった。色々困難はあるにしても、歳をとったらやはり孫の顔を見たいと思う。家族同士のやりとりが温かい。

「西欧の東」。一つの村が川を挟んでブルガリアセルビアに分割される。両岸の人たちは5年に1度集まって飲み食いする。そんななか、ブルガリアに住むハナという少年と、セルビアに住むヴェラという少女のロマンスが進行する。最近まで世界が西側と東側に分かれていたのをすっかり忘れていた。こうやって勝手に国境線を引かれてしまうのは悲しいことだけど、住民たちはそれを受け入れて生活している。何と言っても、大人になってハナがヴェラに会いに行ったときのせつなさが堪らない。世の中には個人の力ではどうにもならないことが多すぎる。

レーニン買います」。ブルガリアからアメリカに留学した「僕」と、共産主義の理想を信じている祖父。2人が電話で話をする。祖父の人物像がやや戯画的に見えるのは、孫の「僕」が語り手をしているからだろうか。それにしても、祖父とこうやって打ち解けた会話をしているのが羨ましい。僕は生まれる前に父方の祖父を亡くし、中学生のときに母方の祖父を亡くしたから、あまり深い部分を知らないのだ。ともあれ、2人のやりとりが電話というのがアナクロでいい。今だったらLINEでコミュニケートすることになって、また違った感触になってしまう。

「手紙」。おばあちゃんと2人で暮らしている少女マリアは、近所に住む金持ちから金品を盗んでいた。マリアには双子の妹マグダがおり、彼女は孤児院で暮らしている。ある日、マグダの妊娠が発覚する……。21世紀の西洋でこんな暮らしをしている人がいるとは思わなかった。同じEUでも、イギリスとブルガリアでは生活レベルが違う。マリアが1000ドルを手に入れるくだりはご都合主義に思えたけど、それを持ったときの「遠くへ行ける」という心理はなかなかせつないものがある。

「ユキとの写真」。ブルガリア出身の「ぼく」は、シカゴの空港で日本人のユキと出会う。結婚することになった2人は、ユキの不妊治療のためにブルガリアへ。車を運転していると、目の前には自転車に乗ったジプシーの男の子が……。直接は撥ねたり轢いたりしなかったのだけど、男の子を転倒させてしまった。彼が死んだのは親に打たれたせいではなく、おそらくこの件が原因なわけで、そう考えるとかなりきつい状況だ。ブルガリアアメリカ、日本、ジプシー。この短編は様々なレベルでのカルチャーギャップが見所だろう。

「十字架泥棒」。並外れた記憶力を持つ少年ラドは、<驚異の少年ラド>として有名になる。父親に連れられてソフィアに移住したラドは、天才専用の学校に入るべく入試を受ける。ところが、不合格になるのだった。その後、15歳になったラドは親友のゴゴと教会の十字架を盗みにいく。政権崩壊による混乱した様子と、少年たちの荒れた生活がいかにも東欧という感じだった。「ラド、そりゃ円周率を五十桁まで言えるのは大したものだ。でも、それは計算機でできるわけだし、今はほら、インターネットの時代だしな」というセリフが心に残る。あと、聖人のミイラだと思ってキスしたら瀕死の老人だったというくだりもツボ。

「夜の地平線」。バグパイプ作りの父親と娘のケマル。2人はトルコ人イスラム教徒だった。ある時、共産党の方針でブルガリア風に改名させられることになる。ケマルが何で男の名前をつけられたのかと思ったら、なるほどそういう理由があったのか。共産主義ってどの国も抑圧的でホント最悪の政治形態だよな。ブルガリアも例外ではない。

「デヴシルメ」。妻子と共にブルガリアからアメリカに移住したミハイルだったが、妻を医者に寝取られて現在は独身でいる。その彼が娘に祖国の物語をする。この短編だけアメリカが舞台。最初、友人がマイケル、マイケルと言ってたから何のことかと思ったら、これはミハイルの英語読みか。そして、本作を読むまでブルガリアオスマン帝国支配下にあったことをすっかり忘れていた。