海外文学読書録

書評と感想

ウィリアム・サローヤン『ヒューマン・コメディ』(1943)

★★★

第二次大戦下のカリフォルニア州イサカ市。14歳の少年ホーマー・マコーリーが、電報配達の仕事をして大人たちと関わる。マコーリー家では2年前に父親が死に、長男のマーカスが兵隊に取られていた。ホーマーは仕事のかたわら、高校で勉強やハードル競争に励んでいる。やがてマコーリー家に通知が届くのだった。

グローガンは、送信済みの頼信紙を掛けておく鈎を黙って指した。ホーマーは三通の電報から鈎を取り、一通ずつ読んだ。読み終わって、老通信士の顔を見た。

「戦争で誰かが死ぬっていうのはーーその人が知ってる人でも、会ったこともない人でもーーそれはただの無駄死にじゃないですよね」

老通信士はちょっと考えていたが、あまりにも言いたいことが多く、自力ではとても言いきれないといったふうに、自分の作業テーブルの引出しへ行き、ボトルを取り出してたっぷり一口、らっぱ飲みした。そして座り、どう言うべきかまたしばらく考えた。

「長いこと生きてきたが、その質問への答えは、私には分からん。答えがあるのかどうかも分からんのだよ。若い人の疑問なのだよ、それは。私はもう若くないから」(pp.123-124)

ちくま文庫Amazon】の関汀子訳で読んだ。引用もそこから。

読んでいて心が浄化されるような小説だった。何でそう感じたかというと、登場人物のやりとりを通して人間らしさとは何かということを示しているからだろう。出てくる大人たちが円熟した人格の持ち主というか、子供の手本になる存在というか、とにかく市井の偉人といった感じの立派な人たちばかりなのだ。

たとえば、ホーマーの通う高校で古代史を教えるヒックス先生。彼女はホーマーが授業中に同級生と口喧嘩したので居残りをさせたのだけど、そのときにホーマーに対してかけた言葉はまさに人知を開くようなもので、これは教師の鑑ではないかと思った。先生によると、裕福な家庭の子供と貧しい家庭の子供、お互いが反感を抱きながらも、お互いが敬意を払うことが文明化だという。そして、これが古代史から学ぶべきことだというのだ。いやー、僕の子供の頃なんかこんな立派なことを言う教師なんていなかったよ。クラスでいじめがあっても見て見ぬふりをするような教師しかいなかった。

電報局のスパングラー局長もやさしい人物だ。職場に青年が強盗に来るのだけど、スパングラーは彼に対して進んであり金を差し出そうとする。それは青年が本当にお金を必要としていると感じたからで、お金を持ち去っても警察に通報しないとまで言っている。「墓場や刑務所は、運が悪かったせいで苦労した善良な若者でいっぱいだよ」(p.139)なんてセリフは普通の人ではまず出てこないだろう。青年は「他人をまともに扱う人」に生まれて初めて出会い、結局は強盗するのを止める。僕はこのエピソードを読んで、現代日本の、たとえばコンビニ強盗が本当に欲しいものは、金じゃなくて人の温もりなのかもしれないと思った。

ホーマーの母親マコーリー夫人の言葉も、短いながら人間らしさの本質を突いている。哀れみがなければ一人前の男とは言えない。この世の痛みを思って泣いたことのない人は人間として半人前。いい人間は痛みをなくそうと努力し、愚かな人間は他人にも痛みがあるのだということに気づかない。そして、世の中にいるよこしまな人たちは好んでよこしまなのではなく、ただ運が悪いだけだという。前述のスパングラー局長に通じる器の大きさに僕は感銘を受けたのだった。

最後にこの小説、アメリカの理想を語った部分も見逃せない。

「は、アメリカ人だ! ギリシャセルビアポーランド、ロシア、メキシコ、アルメニア、ドイツ、黒人、スエーデン、スペイン、バスクポルトガル、イタリア、ユダヤ、フランス、イギリス、スコットランドアイルランドーーなんでもあり。それがわれわれだよ。それがアメリカ人だ」(p.245)

この思想はアーリア人しか存在を認めないナチス・ドイツとは正反対で、多様性を高らかと宣言しているところに心強さを感じた。現代人も本作を読んで、昨今の移民排斥の風潮を吹き飛ばしてもらいたい。

フラナリー・オコナー『賢い血』(1952)

★★★

テネシー州イーストロッド出身のヘイゼル・モーツ(ヘイズ)は、18歳で徴兵されて4年間軍隊にいた。除隊後は汽車に乗って見知らぬ街へ行き、売春宿に入った後に中古車を買う。彼は車のボンネットの上に乗って、聴衆に《キリストのいない教会》を説くのだった。やがてヘイズは盲目の伝道者の娘に目をつける。

「おれは清らかだ」とヘイズは言った。

もう一度彼がそう言ってから、イーノックにはやっと彼の言っていることがわかった。

「おれは清らかだ」と彼はまた言ったが、顔にも、声にも、なんの表情もなく、まるで壁でも見ているようにただその女を見ていた。「もしイエスが存在したら、おれは清らかではないだろう」と彼は言った。(p.93)

ヘイズが説いている《キリストのいない教会》とはいったい何なのだろう? 彼は「イエスが十字架にかけられたのは、あなたがたのためではなかった」(p.56)と主張し、さらには「《堕落》がなかったから《救済》もない。この二つのものがなかったから《審判》もない」(p.107)と説いている。どうやらイエスは人類の罪を背負って十字架にかけられたわけではないらしい。彼が十字架で死んだのはあくまで人間としてであって、そこに神性はないというのである。キリスト教からイエスを排除したら、それはキリスト教ではなくなるんじゃないかと思ったら、イエスの存在自体は否定せず、内部に少しも神を持っていない人間としてのイエスを信じているのだという。門外漢からすれば、ある種の異様さは認めるにしても、既成のカトリックよりはまっとうに思えるし、これはこれで一定の支持者を集めそうではある。アメリカ南部だったら尚更だろう。僕はキリスト教に詳しくないので、ヘイズの主張に元ネタがあるのか、この主張がどういう流れに位置づけられるのか、その辺の神学的な解説が欲しいと思った。

物語は要所要所でブラックユーモアが効いていてなかなか面白い。少年が博物館に展示されているミイラを新しいイエスだと信じてヘイズに渡したり、ヘイズが自分の邪魔をしてくるカネ目当ての《預言者》を車で轢き殺したり、警官が運転中のヘイズを止めて彼の車を路肩から突き落としたり、読んでいて思わずツッコんでしまうような展開がちらほらある。とりわけ、《預言者》を金で雇ってヘイズと似たような説教をして、聴衆からお布施をもらう詐欺師の存在が面白かった。ヘイズが彼らに対して怒っているのがツボにはまる。真面目に伝道している身からしたら、さぞ許せないことだろう。

フラナリー・オコナーは短編でもよく「啓示」の瞬間を描いていたけれど、それが本作のラストにも受け継がれていて、著者のライフワークみたいなものを垣間見たのだった。全体としては『フラナリー・オコナー全短篇』【Amazon】のようなすごみはないものの、これはこれで著者の特色が出ていて興味深い。

グレアム・スウィフト『マザリング・サンデー』(2016)

★★★★

1924年3月30日。母を訪う日曜(マザリング・サンデー)。この日はメイドに許された年に一度の里帰りの日であり、ニヴン家に仕える孤児のジェーンにも暇が出される。ところが、ジェーンはシェリンガム家の令息ポールと最後の逢引きをするのだった。ポールは同じ階級の女性との結婚が決まっている。情事が終わって別れる2人だったが……。

様々な場面。それらを想像することは、可能性を想像すること、さらには未来の現実を予言することかもしれない。しかし、想像はまた、実在しないものを呼び出す呪文でもある。(p.71)

いかにも芸術作品といった感じの上質な中編だった。このところ古い小説ばかり読んでいたせいか、21世紀の小説の進化ぶりには驚きの念を禁じ得ない。たとえば、ジェイン・オースティンの作品世界を平面的とするなら、グレアム・スウィフトのそれは立体的だ。登場人物の言動や細部の書き込み、時系列の操作など、あらゆるテクニックを駆使して虚構の世界をもっともらしくでっちあげている。19世紀と21世紀では、小説の巧拙にここまで差があるのかと感動してしまった。最近の読者が古典を読まずに新刊ばかり追いかけている理由も分かるような気がする。明らかに現代の小説のほうがレベルが高い。長編作家による中編なんて所詮は手慰みだろうと思って舐めてかかったら、いい意味で予想を裏切られたのだった。

メイドのジェーンは読書好きが高じて後に作家になったことが明かされていて、70代、80代、90代のときにインタビューを受けている。そして、1901年生まれの彼女は、98歳で亡くなったことになっている。そういう20世紀を体現する長大な人生から、1924年3月30日という特別な一日にスポットを当てているわけで、このミクロとマクロの組み合わせが絶妙だった。現代の小説は単純な時制では語らないということだろう。本作はこれに加えて、登場人物の言動や細部の書き込みに説得力があって、21世紀らしい立体的な小説世界になっている。キャラではなく人物、書き割りではなく背景といった感じの解像度の高さは特筆すべき点かもしれない。

個人的には現代文学の基準点に置きたい小説だ。今後小説を出す際は最低限このレベルを維持してもらいたい。じゃないと物足りなく感じるだろう。21世紀に入ってから小説のレベルは確実に底上げされている。

サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』(1988)

★★★

ジブリール・ファリシタはインド映画界の大スター。一方、彼のライバルとなるサラディン・チャムチャは英国で教育を受けた舞台俳優。2人が乗り合わせたジャンボ・ジェット機がハイジャック犯によって爆破され、ジブリールサラディンドーヴァー海峡の雪の海岸に落下して奇跡的に命が助かる。その後、ジブリール預言者マハウンドに関する白日夢を見るようになるのだった。

バールは言った。「もうお終いだ、何とでも好きなようにしれくれ。」

そこで彼は一時間以内に絞首刑に処すとの宣告を受けた。テントから連行されて死刑執行人に引き渡される時、バールは振り返って叫んだ。

「マハウンド、あんたには娼婦も作家も同じなんだ。どちらも許せない存在なんだ。」

マハウンドは答えた。

「作家と娼婦と、どこが違うというのかね。」(下 pp.170-171)

イスラム教に対して冒涜的だとして、イスラム世界で問題になった小説。表題の「悪魔の詩」は コーランのことを指しており、神の預言として書かれたメッカの多神教を認める記述が、実は悪魔によるものだったと預言者ムハンマドによって否定されたエピソードに依る。正直、これのどこが問題なのかよく分からないのだけど、他にもムハンマドのことをマハウンド(イスラム教で軽蔑の対象になっている犬を連想させる名前)と表記したり、ムハンマドの12人の妻と同じ名前を持つ12人の売春婦が登場したり、門外漢からすれば、むしろこういう侮辱的な小ネタのほうが問題だと思う。

質問・信仰心の反対は何?

不信心ではない。それはたしかにあまりに決定的にすぎしっかりと閉ざされている。それ自身一種の信仰心である。

疑いの心。(上 p.103)

ここ10年くらい日本において表現規制問題が取り沙汰されている。槍玉に挙がっているのは、マンガやアニメなど二次元のポルノ的表現だ。特に2010年の「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案」では、非実在青少年という概念を無理やりでっちあげ、実在しない彼らを保護する名目で表現の自由が侵されようとしていた。また、これに限らず、世界的にもPC*1であることをフィクションに求める風潮がある。たとえば、人種や性別、宗教に関して問題のある表現をしている文学作品は、ここ最近は市場に流通していない(少なくとも僕は目にしていない)。反PCと思われる作品はどれも昔のものである。

と、こういう背景が現代の読者にはあるため、我々は本作について次のような疑問が思い浮かぶのだ。宗教について書くときPCはどうなるのか? 表現の自由に任せて特定の宗教を冒瀆していいのか?

イエス・キリストを再解釈した小説に『キリスト最後のこころみ』がある。この作品は解釈に問題があるとしてカトリック教会から禁書扱いにされた。そして、ムハンマドの再解釈をした『悪魔の詩』も、冒涜的だとしてイスラム世界では禁書扱いにされている。つまり、表現の自由とPCが対立しているわけだ。こういった場合、我々はどちらを支持すべきなのだろう? 表現の自由か、それともPCか。本作が発表された当時は、前者を支持する声が圧倒的だった。しかし、仮にこれが現代で発表されたとしたら、昔みたいに表現の自由が支持されるだろうか? 下手したら反PCだとして、自由主義陣営のメディアから弾劾を受けるかもしれない。表現の自由とPCは対立する概念であり、今後も両者のせめぎ合いが激化するだろう。これを機に我々は、どちらを支持するのか考えておいたほうがいいと思う。

なお、著者のサルマン・ラシュディは本作を出版したことで、イランのホメイニ師から死刑宣告のファトワーを受けた。また、訳者の五十嵐一は、勤務先の筑波大学で何者かによって刺殺された。表現の自由を守るのも命懸けである。

*1:ポリティカル・コレクトネス。政治的な正しさ。

ユードラ・ウェルティ『大泥棒と結婚すれば』(1942)

★★

18世紀後半。ミシシッピ川周辺に住む地主のクレメント・マスグローブが、ジェイミー・ロックハートという紳士に命を救ってもらう。クレメントには美しい娘ロザモンドがおり、彼女は醜い継母にいじめられていた。ある日、ロザモンドが森の中で追い剥ぎに遭って丸裸にされてしまう。その追い剥ぎはイチゴ汁で顔を隠したジェイミーだった。ジェイミーは紳士と泥棒の2つの顔を持っている。

森の美しさときたら、それはみごとなものだった! 黒柳、緑柳、糸杉、ペカン、カタルパ、マグノリア、柿、桃、ハナミズキ、野李、さくらんぼ、ざくろ、棕梠、ミモザ、ゆりのき。それらがそこいらじゅうに生い茂り、夏の最後の深まりのなかで、きらきらと緑一色に輝いていた。頭上ではカッコーが鳴き、いりくんだ小道を女王ロザモンドが通りぬけると、雛をつれたうずらがよろめき歩いた。赤鳥の群れが、とつぜん開いた扇のように、ひいらぎの茂みからぱっと飛びたって、狐は巣穴から顔をだした。(p.82)

一応リアリズムの手法で書かれているけれど、内容は随分と荒唐無稽でどこかおとぎ話を彷彿とさせる小説だった。訳者あとがきによると、グリム童話の「強盗のおむこさん」を参考にしているらしい。ひとことで言えば、アメリカ南部のフェアリーテイルといったところだ。美しい娘と醜い継母という設定は、この手の物語のテンプレのような気がする。

紳士の顔と泥棒の顔をもつジェイミー・ロックハートの二面性が大きな柱になっている。紳士の顔を見せている相手には泥棒の顔は決して見せないし、泥棒の顔を見せている相手には紳士の顔は決して見せない。こういう二重生活は極端だけど、しかしSNS時代の我々も、多かれ少なかれ二面性を使い分けながら生きている。たとえば、このアカウントでは品行方正にしよう、別のアカウントでは本音で語ろう、みたいな。後者は俗に言う裏アカである。しかし、こういうのは何もSNSだけに限ったわけではない。現実生活においても我々は二面性を使い分けている。言うまでもなく、仕事とプライベートでは周囲に見せている顔は違うはずだ。あるいは、他人に見せる顔と家族に見せる顔もまったく違うだろう。そう考えると、ジェイミー・ロックハートは我々のカリカチュアなのかもしれない。

この時代はおおらかだったのか、インディアンの描き方が現代から見るといくぶん差別的だった。ただ、見方を変えればこういう描き方はもう絶対に出来ないので、ある意味では貴重な作品と言えるのかもしれない。良くも悪くも現代人は価値観のアップデートを強要されている。ともあれ、同じ南部の女性作家でもカーソン・マッカラーズやフラナリー・オコナーが現代でも読まれているのに対し、ユードラ・ウェルティはほとんど読まれていない(キャサリン・アン・ポーターはどうだろう?)。いい機会なので他の作品も読んでいこうと思う。