海外文学読書録

書評と感想

賈平凹『廃都』(1993)

★★★★

1980年代の西京。周敏が人妻の唐児を伴って潼関から駆け落ちしてくる。文章で身を立てたい周敏は、教授の孟雲房に大作家の荘之蝶を紹介してもらい、彼に雑誌社の編集部に職を斡旋してもらう。やがて荘之蝶は唐児と不倫し、周敏は荘之蝶をネタにした記事で筆禍を巻き起こす。

荘之蝶は女に接吻して言った。「だったら笑っておくれ」。女はそのことばどおりに笑った。二人はあらためて抱き合って、ベッドに転がった。荘之蝶がまたものしかかると、女が言った。「またできるの?」。荘之蝶が言った。「できる。ほんとにできるんだ!」□□□□□□(作者、五百十七字削除)。(上 p.247)

西京は西安がモデルの地方都市で、四方が城壁で囲まれている。今まで読んできた中国文学は、どれも田舎を舞台にした小説ばかりだったけれど、都市を舞台にしたものもそんなに印象は変わらなくて、中国人の本質はどこに住んでいても同じだなと思った。誰も彼もが一人前の弁論家で、思ったことをオブラートに包まず口に出し、男も女も当たり前のように罵り合う。自分の利益を守るには言葉がすべて、時には相手を丸め込めようと作り話を拵える。各々が言いたいことを遠慮なく何でも吐き出すという世界観がすごく新鮮。さらに生活もソフィスティケートされておらず、みんな都市に住む田舎者といった印象だけど、実はそこが魅力的でついついのめり込んでしまう。空気を読むことに慣れきった日本人には、この剥き出しの人間関係はなかなか衝撃的だったりするのだ。よく中国人は日本人のことを虚礼がどうのって批判するけれど、本作を読んでその意味が分かったような気がする。

主人公の荘之蝶は最初出てきたときは気さくないい人っぽかったのに(牛の腹の下で四つん這いになって乳を吸うところがポイント高い)、女関係についてはだらしがなくて、唐児を中心に複数の女と情事を重ねていく。彼は風采はあがらないものの、有名人だけあってモテモテで、そのあまりの色男ぶりにどこかエロゲのテキストを読んでいる気分になる。本作は過激な性描写を理由に中国で発禁処分になったそうだけど、濡れ場のたびにいちいち伏せ字が入るのはギャグにしか思えない。ともあれ、これらの情事によって何人かの人生が台無しになり、最終的にはこの世が男社会であることが暴かれるのだから、深いと言えば深いのである。いくら男女間で公然と罵り合っても、その間にある見えない不平等は埋まらない。本作を読んで、この世界の残酷さの一端を垣間見たような気がした。

ニコス・カザンザキス『その男ゾルバ』(1943)

★★★

作家の「私」はクレタ島へ向かう船内で、ゾルバという労働者風の男と出会う。ゾルバに島へ一緒に連れていってくれるよう頼まれた「私」は、彼を自分が所有する炭鉱の現場監督に任命する。2人は島で共同生活を送るのだった。

私にはよく分かった。ゾルバこそ、私が長い間探して見つけることが出来ないでいた男なのだ。生きた心の持ち主で、大きな飽くことを知らない口、偉大な野蛮な魂、母なる大地から、未だ切り離されてない男であった。(p.40)

インテリと労働者という異文化コミュニケーションの魅力がたっぷり詰まった小説だった。作家の「私」はインテリらしく本の虫で、人生に対してどこか受動的なところがあるのだけど、ゾルバはそれとはまったく正反対で、「人生とは面倒を求めること」と言いながら能動的な生を送っている。ゾルバは開けっぴろげな田舎者といった感じでずけずけ物を言うし、人生経験――とりわけ女性経験――が豊富で、出会った女たちを片っ端から口説いてはモノにしている。「私」が草食系男子だとすれば、ゾルバは肉食系男子なのだ。個人的に、インテリがこういう自由人にコロリと参ってしまう気持ちはよく分かるから困る。中小企業の叩き上げ社長みたいな魅力というか。ネットの世界でも、ニコ生やツイキャスの雑談配信者(その多くは社会の底辺にいるスペックの低いおじさん)を小金持ちがタニマチになって金銭的に支援していることがあるけれど、そのタニマチ連中も画面の向こうにいる強烈な野生に参ってしまったのだろう。人が人に魅力を感じるのには大きく2つの理由があって、自分と共通点があるから惹かれることもあれば、自分にないものを持っているから惹かれることもある。「私」とゾルバは後者のパターンで、読んでいるこちらも「ゾルバみたいな友達がいたらさぞ刺激的で楽しいだろう」と思ってしまう。本作は、快男児ゾルバの魅力を存分に堪能する小説、と言えるかもしれない。

それにしても、本作は女たちの末路が酷かった。作中にはマダム・オルタンスという宿屋の女主人と、村外れに住む後家女の2人の女性が出てくるのだけど、結局は両者とも死んでしまう。前者はゾルバと結婚の約束までした女で、死因は病死だからまだいい(といっても、その死はいささか唐突)。問題は後家女の最後。彼女は村人たちから逆恨みを受けて首を切られてしまうのだった。後家女が村の若者の求愛を断り、若者がそれを気に病んで自殺、村人たちはその死を後家女のせいだとして殺しにかかるのだからたまったものではない。男はどこに住んでいても自由に生きられるけど、女はそうはいかない。この部分を読んで戦々恐々となった。

イスマイル・カダレ『夢宮殿』(1981)

★★★

オスマン・トルコ帝国。アルバニアの名門出のマルク=アレムは、秘密機関の<夢宮殿>に奉職することになる。そこでは国民たちの夢を収集・分析し、帝国の将来に関わる重大な出来事に対処していた。マルク=アレムは短期間で順調に出世していく。

彼はこうしていっとき懐疑的な気分に囚われていたが、そのあいだにも手にしたペンはしだいに重くなり、下がりに下がってとうとう紙に当たると、アルバニアという地名のかわりに<向こう>と書きつけた。彼は故国の名にとってかわったこの言い回しを眺めて、たちどころにずっしりくるものを感じとった。彼の意識はとたんにこの重さをキョプリュリュ的悲しみと形容し、この表現は世界のいかなる言語にも見当たらないが、あらゆる言語に導入されてしかるべきだと思ったのである。(pp.231-2)

著者はアルバニアの作家で、本書はフランス語からの重訳。

カフカを彷彿とさせる何とも言えない雰囲気の小説だった。<夢宮殿>という謎めいた官僚機構がまさにカフカ的世界といった感じで、主人公のマルク=アレムは何らかの見えない思惑で出世していく。イスマイル・カダレの小説はこれで邦訳されているぶんは全部読んだけれど、こういう浮世離れした世界観は初めてだったかもしれない。だいたい著者の小説ってアルバニアの風習が前面に出てくるので、そういうのが抑えめの本作はかなり異質な感じがする。本作だとアルバニアは帝国の一地方に過ぎず、一族は<大臣>を出すほどには権勢を振るっているものの、ある事件を機に主人公のアルバニア人としてのアイデンティティは雲散霧消してしまう。著者は様々な角度からアルバニアを描いている人なので、これはこれでパズルのピースを新たに手に入れたという感じだった。

マルク=アレムは慎重というよりはむしろ小心者で、夢を解釈するにも保身が働き、上司がどう思うか忖度して仕事をする。この辺の官僚っぽさが本作の魅力であり、なおかつストーリー上で重要な役割を果たすことになる。マルク=アレムと深く関わってくるある夢が、一族に悲劇をもたらすという筋書きは何とも皮肉で、これってちゃんと大きな動きのある小説なんだなって意外にも思った。てっきり<夢宮殿>での官僚的日々が延々と続くと予想していたので、いい意味でそれを裏切られたのである。本作はカフカの系譜に連なる小説として忘れ難い印象を残す作品だった。

キャシー・アッカー『ドン・キホーテ』(1986)

★★

中絶手術を目前にして発狂した女はドン・キホーテになり、犬になった聖シメオンをお供に奇妙な冒険をする。ドン・キホーテは66歳、聖シメオンは44歳。彼女は愛を求めながらも様々な社会制度に立ち向かっていくのだった。

「信心深い白人の男たちが女たちを憎むのは、彼らが女を聖母マリアのイメージに仕立てているからです」と夜士は結論した。彼女は、一人として愛してくれる男がいなかったので悲しかった。(p.238)

著者は女バロウズと呼ばれているようだけど、確かによく分からない小説だった。フェミニズムの意匠を身にまとい、カットアップというコピペ芸を駆使し、筋を追うのが困難な強烈なオブセッションを撒き散らす。正直言って、この小説をどう評価すべきか見当もつかないし、そもそもきちんと読解したような手応えもない。ただひたすら文字を追っていくのに精一杯だった。世の中にはこんな意味不明な小説があるのだなあ、と敗北感に打ちのめされている。このわけ分からない狂気は本家ドン・キホーテよりもドン・キホーテっぽいし、作中作が出てくるところもドン・キホーテっぽい。だから『ドン・キホーテ』【Amazon】と比較・対照する読み方もあるのだろうけど、個人的にはその方面でもお手上げだった。本作については全面的に降伏するしかない。

あまり人に勧めづらい小説だけど、とりあえず書き出しが良かったので、これに興味をおぼえた人は一読してみるといいかもしれない。

中絶手術を目前にしてついに発狂した彼女は、女ならだれでも考えつく最もキチガイじみたことを思いついた。愛することである。女はどのように愛することができるのだろうか? 自分以外の誰かを愛することによって、彼女は別の人を愛するだろう。別の人を愛することによって、彼女はあらゆる種類の政治的、社会的、個人的悪事を正すだろう――そういった危険極まる状況に我が身を挺する栄光ある彼女の名は、世に轟き渡るであろう。堕胎は今まさに始まろうとしていた―― (p.7)

というわけで、本作はわけ分からない小説を読みたい人にお勧め。文学の懐の深さを感じることができる……かもしれない。

ジャネット・ウィンターソン『オレンジだけが果物じゃない』(1985)

★★★

ジャネットは赤ん坊の頃、狂信的なキリスト教徒の女の養子になり、以来伝道師になるべく厳しい宗教教育を叩き込まれた。キリスト教の教えを信じ込んだジャネットだったが、ある女性に恋をすることで人生が変わることになる。

わたしたちは物語を自分の望む形にこしらえる。物語とは、世界の謎を解き明かしながら、世界を謎のまま残す術、時のなかに封じ込めてしまうのではなく、生かしつづける術だ。一つの物語を百人が語れば、百通りの物語ができあがる。それはつまり、一人ひとりの物の見方が違っているということだ。(p.151)

単行本で読んだ。引用もそこから。

自伝的小説である。

キリスト教の暗黒面をこれでもかと描いていて面白かった。とにかく牧師と母親が悪辣を極めていて、少しでも自分たちの考えから外れたことをしたら相手を悪魔呼ばわりする。反論すると、「取り憑いたものが口をきいているのだ」とにべもない。特に幼い頃のジャネットは彼らに抵抗する手段がないから悲惨で、洗脳されたまま学校に通って周囲から浮いた存在になる。僕はこれを読んで、卓球少女の福原愛を思い出した。福原も幼い頃から親のエゴで人生を決められ、虐待まがいの英才教育を受けて遂にはオリンピックのメダリストになったけれど、あの人生が幸福かどうか問われたら答えに窮してしまう。凡人では叶わぬ栄光を勝ち取ったものの、それは親に操られた主体性のない人生に過ぎない。本作を読んで、幸福な人生とはどういうものなのか考えさせられた。

ジャネットが通う教会にゲストとして来ているフィンチ牧師が強烈だった。彼は悪魔について世にも恐ろしい説教をする人で、聴衆を不安な気持ちにさせている。のみならず、そのファッションもキチガイ染みていて、片側に地獄に落ちて恐怖におののく罪人ども、反対側に天使の群れを描いたバンに乗っている。キリスト教版の「痛車」といったところだろう。さらに、後部ドアとボンネットに〈天国か地獄か? それはあなた次第〉と大書してあるのだから、救いようのないキチガイであることは確実だ。宗教とは人を狂わせる。僕はこのことを再確認したのだった。

自我に目覚めたジャネットが母親と決別して家出をし、しばらく自立して生活した後、クリスマスに帰ってきた場面が印象的だった。出ていくときは母親がジャネットを悪魔呼ばわりして怒り心頭といった感じだったのに、戻ってみたら喧嘩前と変わらない親子然とした態度だったのである(ただし、母親は相変わらず狂信者のままだ)。福原愛も親に反抗して卓球を辞めても、案外家族とは上手くいっていたかもしれない。オレンジだけが果物じゃないように、卓球だけが人生じゃないのだ。

というわけで、親に英才教育を受けている子供は本作を読むべきである。