海外文学読書録

書評と感想

エドガー・G・ウルマー『恐怖のまわり道』(1945/米)

★★★★

ニューヨークのナイトクラブでピアニストをしているアル(トム・ニール)が、恋人スー(クローディア・ドレイク)のいるハリウッドに行くためヒッチハイクする。アリゾナ州でハスケル(エドマンド・マクドナルド)に乗せてもらうも、彼はアルが運転している間に助手席で病死してしまうのだった。死体を遺棄したアルはそのままハスケルの車を運転し、道中、ヴェラ(アン・サヴェージ)という女を拾う。

最初に選択をミスしたことで一人の男が破滅していく。アルが破滅した直接の原因は悪女ヴェラによるものだが、そもそもハスケルの死体を遺棄しなければこうならなかった。司法解剖すれば病死だと分かるはずだし、その後ヴェラと出会ったとしても弱みを握られることもない。アルはパニックになって間違った選択をしてしまった。人生において運命の分岐点というのは確実に存在する。一度道を外れたらそれをリカバリーするのは難しい。

不運は重なるもので、ハスケルの頓死後、アルはとんでもない悪女と出会ってしまった。そいつの名はヴェラ。彼女はハスケルの顔を知っていたため、アルを脅迫するのである。ヴェラの恐ろしいところは気が強いうえに強欲なところだ。アルに対して支配的に振る舞うだけでなく、大金を手に入れるため無理難題を持ちかけている。こういった女性優位の関係は、男にとって女が圧倒的他者であることに由来しているのだろう。男には女の考えが分からない。女は情緒が不安定で移り気だし、何食わぬ顔をして男を裏切る。そういった根源的な恐怖が本作のような物語を成り立たせているのだ。フィルム・ノワールの構成要素には往々にして女性恐怖が含まれており、それは女性嫌悪(ミソジニー)と容易に結びつく。フェミニストがこのジャンルを嫌うのも無理はない。

アルとスーのカップルが揃って負け組であるところが目を引く。アルは場末のナイトクラブでピアニストをしているが、本当はもっと華々しい場所で演奏したい。一方、スーも同じ場所で歌手をしているが、彼女も今の状況に満足していない。だからアメリカン・ドリームを実現すべくニューヨークからハリウッドに拠点を移した。ところが、先に移住したスーはまだ夢を掴んでおらず、ウエイトレスに甘んじているのである。こういったカップルは当時のアメリカ人の典型だろう。多くの民衆は成功を夢見て賭けに出る。だが、賭けに勝てるのは一握りの選ばれし者だ。資本主義社会は競争社会であり、競争社会では勝ち組と負け組に二分される。大半は夢が叶わないまま不本意な人生を送ることになるのだ。個人的には勝ち組のサクセスストーリーよりも、負け組の転落劇のほうが身につまされることが多い。だから負け組にスポットを当てた本作こそが正当なリアリズム映画だと感じる。

ヴェラの強欲は狂気の域にまで達していて、彼女がアルに強要した計画は無謀である。仮に実行したとしても、すぐに正体が露見して失敗するだろう。もちろん、ヴェラにとってはリスクのない計画だからやらせるわけだが、それにしたってあの態度は常軌を逸している。女郎蜘蛛とは恐ろしいものだと戦慄した。