★★★
中世のスウェーデン。地主のテーレ(マックス・フォン・シドー)が一人娘のカリン(ビルギッタ・ペテルソン)を教会に向かわせることになった。その際、養女のインゲリ(グンネル・リンドブロム)に同行させる。一家はみなキリスト教徒だったが、インゲリだけオーディンを信仰していた。また、インゲリは家中で下女のように扱われており、カリンに対して憎悪を剥き出しにしている。旅の途中、カリンはヤギ飼いの三兄弟と遭遇し……。
神の存在が道徳の基盤になっている社会は危ういと思った。そういう社会では人々は神の視線を感じている。もし悪いことをしたら神によって裁かれるだろう。そう思っているから一線を越えない。神の掟を守ろうというインセンティブが働く。それが権力者の統治に利用されている面があるにせよ、法の支配が成立する以前の秩序構築には一定の役割を果たしたわけだ。宗教が法律の代わりになる。敬虔な態度で生活していれば神も悪いようにはしないだろう。そのような世界観で彼らは生きている。
ところが、もし神が存在しないと確信できたらどうなるだろう? ドストエフスキーの登場人物のように、神がいなければ何をやっても許されると思うのではないか。テーレは理不尽な目に遭った。そこで神の掟を破って復讐した。しかし、神は依然として沈黙している。神はカリンを救わなかったし、掟を破った自分を罰しなかった。すべてが終わった後に残るのは一抹の不条理である。テーレは嘆くことしかできなかったが、もし少しでも疑いの精神を持っていたら、神の不在まで思考が及んだはずだ。そういう意味で彼は真理まであと一歩という距離まで近づいていた。神が人間を作ったのではなく、人間が神を作った。従って神は存在しない。そこに至るまで人類は長い年月を必要としたが、個人レベルではわりと多くの人が近づいていたと思われる。
実娘のカリンが高貴な見た目をしているのに対し、養女のインゲリは野生児みたいな見た目をしている。もちろんカリンは実娘だから大事にされているのだろうし、インゲリは養女だから粗末に扱われているわけだが、2人の間はより重要な信仰によって断絶されている。つまり、高貴なカリンはキリスト教を信仰し、野生児みたいなインゲリは土着の宗教(オーディン)を信仰しているのだ。洗練されたキリスト教と粗野なオーディン信仰。それが2人の見た目に反映されている。なぜキリスト教がヨーロッパに広まったかといえば、古代ローマ帝国がキリスト教を国教化したからだが、それには高度な文明が伴っていた。儀式のための様式が整っているし、森の信仰よりも発達した生活様式を持っている。高度な文明が伴っていたからこそ中世ヨーロッパの域内で強かった。カリンが象徴してるのはキリスト教であり、インゲリが象徴しているのはオーディン信仰である。キリスト教が土着の宗教の上位概念として存在しているところが本作の面白みに繋がっている。
カリンが殺害された際、オーディンに災いを祈ったとしてインゲリが罪悪感を抱く。殺害犯はオーディンに操られただけだった。少なくとも彼女はそう信じている。こういった心性は人類に普遍的なもので、だからこそ我々は彼女を無碍にできない。
テーレが復讐を果たす前の静寂が良かった。屋内には彼の動く音と3人のいびき、暖炉が燃える音しかない。そして、外では鳥が鳴いている。ここの緊張感が半端なかった。