海外文学読書録

書評と感想

フィリップ・ド・ブロカ『カトマンズの男』(1965/仏=伊)

★★★

親の遺産で大金持ちになったアルチュール・ランプルール(ジャン=ポール・ベルモンド)は人生に退屈して自殺未遂を繰り返していた。婚約者たちと香港にやってきたアルチュールは株の暴落で破産を宣告される。相変わらず死にたがってるアルチュールに対し、中国人の友人ゴオ(ヴァレリー・インキジノフ)は生命保険への加入を提案。受取人を婚約者とゴオ本人に指定させる。ゴオは殺し屋を手配した。ところが、アルチュールは金髪美女のアレクサンドリーヌ(ウルスラ・アンドレス)と出会って生きる気力が湧いてくる。アルチュールは殺し屋から逃げつつ契約の取り消しを求めてゴオのいるヒマラヤに向かう。

香港が基点で、そこからインドやネパールに移動する。個人的にはヨーロッパよりもアジアのほうに異国情緒を感じるのだが、どういうことだろうか? まあ、ヨーロッパは映画で見慣れているし、文化的に多大な影響も受けている。アジアよりも身近だ。一方、香港の猥雑さは完全に異国で、ここが日本の南西、台湾のすぐ先にあるとは信じ難い。距離的には近いのに文化的には遠く見える。

本作の特徴はアルチュールの衣装が目まぐるしく変わるところだ。女装してストリップの舞台に立ったり、怪盗の格好をして逃げたり、京劇の衣装に着替えたりする。他にも囚人服を着たり、上半身裸になったり、とにかく千変万化の勢いだった。結局、こういったコスプレ趣味が背景の異国情緒と噛み合っているわけで、ビジュアルとしてよく映えていたと思う。舞台に合わせた衣装というか。

アクション面での見せ場は、建物の基礎部分をジャングルジムのように移動するシーン。『リオの男』の変奏とも言えるが、役者の身体能力を見せるという意味で見応えがある。また、吊り橋から落下するシーンも良かった。吊り橋が粗末な木材でできていて見るからに危なさそう。そこから数珠つなぎにされたシャツを掴んで落下する。落下の場面はロングショットで映しているので誤魔化しはないのだろう。どうやって撮影したのかメイキングを公開してほしいところである。

途中までは徒手空拳による牧歌的なアクションが主体だったが、終盤では機関銃を手に入れて派手な銃撃戦をしている。銃弾と手榴弾が飛び交い、辺りを爆発と煙が彩る。ここまでくると一種の戦争で、治安当局が動かないのが不思議なくらい。このようにアクションがエスカレートするところが意外で、エンターテイメントとしてのサービス精神に溢れていた。

冒険の発端はアルチュールが人生に退屈していたからであり、ラストでもその陰がちょっぴり出てくる。そりゃインターネットのない時代はいくら金を持っていても退屈だろう。ゴータマ・シッダールタだってインターネットのある時代に生まれていたら悟りを開くことはなかったはずだ。インターネットの普及で世界は一変した。この時代に生きる我々は退屈とは無縁である。消化しきれないコンテンツ、享受しきれない刺激で溢れているのだから。一方で我々はやたらと時間に追われるようになった。タイパを気にするようになった。インターネット以前の世界と以後の世界。どちらが幸せなのかは分からない。