海外文学読書録

書評と感想

大森一樹『ヒポクラテスたち』(1980/日)

★★★★

洛北医科大学の6回生・荻野愛作(古尾谷雅人)は大学の寮に住んでいた。彼は最終学年でありながら未だに進路を決めていない。そんななか、恋人・中原順子(真喜志きさ子)を妊娠させてしまった。仕方なく場末の産婦人科に連れていくことに。また、愛作は男だらけのグループで臨床実習に臨んでいたが、その中に紅一点の木村みどり(伊藤蘭)がいて……。

時代の空気を切り取った青春映画。当時は既に学生運動はオワコンになっていたが、その残り火みたいなものが見て取れる。寮生活は森見登美彦に代表される京都若者界隈の先祖といったところだろう。日本のサブカルチャーで散々描かれてきたボンクラ学生を実写で見れたのに感動した。

本作は責任についての映画だ。医者には人の命を預かる責任がある。当然、医学生もその覚悟を持たなければならない。愛作は典型的なモラトリアム学生で、いまいちその責任について実感がなかった。しかし、恋人が妊娠することで責任が身近なものになる。中絶手術、恋人の帰郷、偽医者騒動。愛作は責任に耐えきれず一度は折れてしまった。ところが、すぐさまエピローグで復活したことが示唆される。彼は一年の休養を経て乗り越えたようだ。

一方、紅一点のみどりは乗り越えることができなかった。彼女は臨床実習で責任の重さに耐えかね、医者になるのをやめると宣言する。そして、最後は退学届けを出して自殺してしまった。それ以前にも彼女はたびたび瀉血していて、一度は愛作に見つかっている。言うまでもなく、この瀉血自傷行為だろう。有名なリストカッターだった南条あやも、晩年は献血に通ってよく血を抜いていた。真面目な人間ほど責任の重さに押し潰されてしまう。作中で現代の医者は金儲け主義だと揶揄されているが、その陰にはみどりのような繊細な医学生もいた。責任を負うこととは、すなわち、大人になること。本作は大人になることの困難を描いている。

昔の人にとって学生運動とは青春そのものだったのだろう。デモに行ってゲバ棒を振るって機動隊と小競り合いをする。それがなくなった80年代は空虚だ。やることといったら寮会議で討論するかビラ配りをするかくらいである。社会にコミットする手段が全然ないし、それゆえに刺激もない。その何もないことによる空虚感が本作を覆っている。若者は何を拠り所にして生きていくべきなのだろう? 現代はそれがサブカルチャーになっているわけで、一億総おたく社会になったのも必然である。文化は人を救うものだと再確認した。

本作は男性を中心としたホモソーシャル集団に焦点を当てている。寮には男しかいないし、臨床実習には女一人しかいない。順子とみどりが不幸な目に遭うのはホモソーシャル集団における異物だからだ。男たちが次のステージに進むのに対し、女たちは脱落している。この辺は現代の価値観に照らすと賛否両論ありそうである。

手塚治虫鈴木清順が特別出演している。どちらも妙に存在感があった。特に鈴木清順のコミカルな役どころがいい。