海外文学読書録

書評と感想

ジョセフ・H・ルイス『拳銃魔』(1950/米)

拳銃魔(字幕版)

拳銃魔(字幕版)

  • ペギー・カミングス
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★★★

バート(ジョン・ドール)は子供の頃から銃器に愛着を抱いており、長じてからは射撃の名手になった。彼は誰にも負けない腕前のくせに殺生を嫌っている。復員してきたバートは村にやってきたサーカスで、一座の女スター・アニー(ペギー・カミングス)と勝負することに。見事勝利したバートは一座に加わり、2人は恋人関係になる。一座を追い出された後はアニーの提案で一緒に強盗することになった。

ダルトン・トランボが脚本に参加している(ミラード・カウフマン名義)。

拳銃強盗が主題のせいか男性性の寓話にしか見えなかった。

バートは拳銃、すなわちファルスに愛着を抱いている。しかし、それを使って人を殺すことができない。社会人としては正常であるものの、男性としては未熟である。一方、アニーは過去に人を射殺したことがあるし、今回の強盗でも殺人に手を染めることになった。彼女は欲しい物を何もかも手に入れたい、世間に仕返しをしたいと願っている。面白いのは、バートを強盗に誘うときの口説き文句だろう。アニーは「本物の男になってもらいたい」と懇願するのだった。卓越した腕前を持ちながらもそれを活かさないバート。彼は「本物の男」ではないのである。では、拳銃強盗によって男性性が花開くかと思いきやそうでもなく、どちらかというとアニーに対するストッパー役で、相変わらず殺人を忌避している。皮肉にも彼が人を殺すのは最後の最後、相手は愛するアニーだった。親友を撃とうとしたアニーを射殺し、自らも果てるのである。ファルスが女を貫く。この「生」と「死」の一瞬の交差によって彼は男になることができた。本作は男性性の欠如した人物が男になって死ぬ物語である。

B級映画のわりには映像的に凝った部分があって、特に車の運転を後部座席から長回しで映すところが面白かった。アニーが運転し、バートが助手席に乗っている。車が移動している様子はフロントウィンドウが雄弁に物語っている。映像の質感から察するに合成ではない。ロケ撮りのようだ。それを後部座席からカメラを微動だにせず映している。かと思いきや、アニーが車の外に出たときはぐっと寄ってくるのだった。現場に向かって、強盗して、現場から立ち去る。一連の長回しはなかなか刺激的だった。

ところで、古いハリウッド映画ではたまにサーカスの描写があるけど、これがどこまで事実を反映しているのか疑問に思っている。たとえば、本作の射撃ショーなんか明らかに命の危険があって、これをどう解釈すべきか分からない。フィクション用に誇張された描写なのか、事実を反映した描写なのか、あるいは事実だとしてトリックを使っていたのか。現代人は映画を通じてしかサーカスを体験できないわけで、昔の人が羨ましいと思う。

アニーの悪女ぶりが堂に入っていて、逃避行の際に赤ん坊を人質にしようとしているところに痺れた。しかも、その赤ん坊はバートの甥っ子である。殺されても文句は言えないような性格をしていた。