海外文学読書録

書評と感想

フランツ・カフカ『ある流刑地の話』

★★★

日本オリジナル編集の短編集。「二つの対話」、「観察」、「判決」、「村の医者」、「ある流刑地の話」、「断食芸人」、「ある犬の研究」の7編。

旅行者は考えこんでしまった、ほかの国の出来事に、根本的な改革を加えるには、よほど慎重な態度を必要とする、自分はこの流刑地の人間でもなく、流刑地が所属する国の国民でもない。自分がこの処刑を非難し、あるいはこれを廃止しようと試みても、君は外国人だ、引っこんでいたまえ、と言われたら、一言もないのだ、せいぜいのところ、自分はこの問題の権威でもなんでもありません、月並な視察旅行者で、けっして外国の裁判制度の改革が日的ではないのです、とでもつけ加えるよりほかはなかろう。(Kindleの位置No.2080-2085)

以下、各短編について。

「二つの対話」。「僕」が祈る男に不快感を覚え、彼を捕まえて対話する。また、酔っぱらいとも対話する。二つの対話に共通しているのは、「まなざしの地獄」ではないか。否応なく直面する人のまなざし、都市のまなざし。それは祈る男や酔っぱらいだけでなく、語りかける「僕」も痛烈に感じている。他者のまなざしが孕む暴力性。これは近代社会の特徴であり、カフカが一貫して書いているのは「近代」だと思う。

「観察」。18章の断片。すべて「わたし」の一人称である。こうして語られると世界には「わたし」と他者しかいないのだと痛感する。「わたし」は「わたし」の感覚器官で世界を認知し、他者と触れ合うことでかえって断絶をおぼえる。幽霊は「自分の存在に確信がもてない」という。この世に溢れる「わたしたち」も同様ではないか。「わたし」は「わたし」の檻から抜け出せない。

「判決」。若い商人ゲオルグには友人がおり、その友人は現在ペテルスブルグにいた。ゲオルグは友人と手紙でやりとりしている。ある日、ゲオルグは友人に自身の婚約を伝えようとするが……。本作の何が驚いたって、メインがゲオルグと友人の話ではなく、ゲオルグと父の相克であることだ。父はもうよぼよぼで商売は息子ゲオルグに牛耳られている。しかし、裏ではある工作をしていた。父から迸る狂気のような情熱が怖い。そして最後に判決を下すのは、近代の家父長制を連想させる。家族は家長に逆らえない。だからこそ「父殺し」が必要なわけだ。自分が家長に取って代わるために。

「村の医者」。14編の短編集。「新しい弁護士」から「古い記録」までの4編は馬で繋がった変奏曲。のっけから変身譚で驚く。「掟」は『審判』の挿話。「法治国家」や「法の支配」を示唆しているようで、どこか地獄の入り口を想起させる索漠とした雰囲気が印象的である。「十一人の息子」は文字通り十一人の息子を紹介したものだが、下に行くにつれて人間性が劣化していくところが面白い。そして、一番下の息子こそがもっとも特別という逆説がある。「兄弟殺し」は、殺人を犯した男が恍惚としているところに一部始終を目撃した男が語りかけてきてその高揚を台無しにする。殺人者にとって殺人は、肥大した自我によるロマンだったのだ。「ジャッカルとアラビア人」「ある学士院への報告」はどちらも動物が言葉を話すことで共通する。こういう短編も書いていたとは意外だった。

「ある流刑地の話」。将校が処刑用の装置を旅行者に紹介する。それは先代から受け継がれた拷問機械だった。今からそれを使って男を処刑しようとしていたが……。処刑用の装置が否定されることで将校が死ぬのは、要するにアイデンティティの死なのだろう。というのも、その処刑方法を支持しているのは今や将校しかいなかった。フィクションとはある意味では隠喩なので、否定された時点で将校は死ななければなかったのである。前時代の遺物、特に非人道的な悪習が消えるには、相応の対価が必要なのだ。その極端な形が革命だと思うが、それはまた別の話。

「断食芸人」。4編の短編集。「断食芸人」には外枠と内枠がある。外枠は断食芸人が観衆から飽きられていること。内枠は断食芸人しか知り得ない芸の内幕。断食芸人にとって断食は簡単なことであり、そこに職人的なストイックさもあるが、周囲はそれに気づいていない。本人だけが自覚していることである。一方で、そんな内幕とは裏腹に断食芸人は飽きられていた。これって現代のお笑い芸人に通じるものがある。どれだけ内に何かを抱えていたとしても、飽きられたらどうにもならない。見世物には旬がある。観衆にとっては芸がすべてで彼の内面はどうでもいい。極端な話、使い捨てのおもちゃなのだ。これは社会の歯車をやっている我々も同じだろう。本作が表現しているのは、一種の人間疎外と言えるかもしれない。

「ある犬の研究」。年老いた犬による同族の研究。犬が犬を研究するのって、人間が人間を研究する人文学みたいで面白い。知性とはこういうことである。