海外文学読書録

書評と感想

本宮ひろ志『赤龍王』(1986-1987)

赤龍王 第1巻

赤龍王 第1巻

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★★★

紀元前221年。秦の始皇帝が中国を統一する。ところが、独裁者となった始皇帝は圧政を敷くのだった。民衆はそれに不満を持ち各地で蜂起する。沛県の亭長・劉邦は粗野な農民だったが、肝っ玉と人望で徒党をまとめ、反秦の兵を挙げる。また、楚の名門・項羽は天下一の武勇を誇っており、叔父・項梁の元で軍を率いることになった。やがて項羽と劉邦は天下を賭けて争う。

全9巻。

司馬遼太郎の『項羽と劉邦』が1977年から1979年まで連載、横山光輝の『項羽と劉邦』が1987年から1992年までの連載である。時期的に本作は両者の間に位置する。『天地を喰らう』ほどではないにせよ、後の横山光輝版よりオリジナル要素が強いように感じた。

虞美人の扱いが面白い。史実では垓下の戦いにしか出て来ないのだけど、本作では秦の後宮に入れられる途中で劉邦と懇ろになっている。その後、紆余曲折があって項羽の愛妾になるのだった。項羽と劉邦が広武で相対したときは、項羽劉邦の家族を人質にしていたのに対し、劉邦は虞美人を人質にしている。劉邦は虞美人とよりを戻そうとするも拒絶される。理由はここぞというときに自分を見捨てたから。肝っ玉のでかい劉邦は、保身のためなら臆病にもなれる男だった。今や虞美人の心はすっかり項羽に移っている。個人的にこの改変がツボだった。

秦による天下統一は、中国大陸をブルドーザーで一掃したようなものだ。各国の貴族は政治の中枢から排除されたし、泥の中の民衆は圧政によって煮えたぎっている。次の天下人が泥の中から出てくるのも必然だった。泥の中から這い上がってきたのが陳勝呉広であり、後に楚漢戦争のプレイヤーとなる劉邦、彭越、黥布である。一方、貴族の中から頭角を現したのが項梁と張良だった。中国において英雄とは、人々に食の保証ができる者である。農民出身の劉邦が勢力を伸ばせたのも、食の保証ができたからだった。食わせてくれるなら頭領の貴賤は問わない。こういったところはフェアであり分かりやすいと思う。

劉邦による天下統一は、地方の町内会が全国統一したようなものだ。前代未聞の偉業と言えるだろう。蕭何、曹参、夏侯嬰、盧綰、樊噲、周勃と、沛県の身内だけでもキラ星の人材である。しかも、蜂起する前はみな身分が低かった。いずれも下級役人か庶民である。つまり、一般人の我々と変わらないということだ。そういった人材が中心となって覇業を成し遂げたのは異例だ(張良韓信、陳平といった外様の力を借りたとしても)。おらが町の共同体が全国区で活躍する。そこに言いしれぬロマンがある。

劉邦自身は空っぽだからあらゆる人の夢が入る。また、彼は無能を自覚しているから人材を重んじた。変に優秀だと始皇帝項羽みたいな暴君になってしまうわけで、ここに理想の君主像が見て取れよう。つまり、「担ぐ神輿は軽い方がいい」ということだ。これは現在の民主主義国家にも通じるところがあるので参考になる。

とはいえ、功臣の粛清は前述の人物像からかけ離れている。空っぽだと思っていたら全然空っぽではなかった。功臣の粛清には鉄の意志が介在しているはずで、人間を一面的に見ることはできない。一人の人間には相反する要素がたくさん詰まっている。我々は相手をよく観察してその性格を見極めなければならないのだ。人に仕えることの難しさがここにはある。