海外文学読書録

書評と感想

サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』(2019)

★★★★

短編集。「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」、「そしてわれらは暗闇の中」、「記憶が戻る日」、「いずれすべては海の中に」、「彼女の低いハム音」、「死者との対話」、「時間流民のためのシュウェル・ホーム」、「深淵をあとに歓喜して」、「孤独な船乗りはだれ一人」、「風はさまよう」、「オープン・ロードの聖母様」、「イッカク」、「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」の13編。

ベイが立ち上がるまでにしばらくかかった。彼女は肩にバックパックをかつぎ、ギャビーがデブラのギターを拾うのを待った。ベイのコテージへ引き返す途中、ギャビーはギターを弾いた。ベイの知らないちょっとしたリフを。ベイは頭の中でそのメロディに歌詞をつけた。いずれすべては海の中に沈むことについて、けれどいくつかのものがまた這い上がってきて、新しいものに変わることについて。(p.86)

以下、各短編について。

「一筋に伸びる二車線のハイウェイ」。農家の青年アンディがコンバインに右腕を巻き込まれてしまった。病院で腕を切断し、代わりにコンピューター付きのロボットアームを装着する。そのロボットアームは自分のことを道路だと思っていた。結局はチップのバグみたいなオチだったけれど、その一方で、「遠くに行きたい」というアンディの深層心理とシンクロしている。複雑なのは、アンディが道路のことを疎ましく思っていることだ。それが夢に反映され、アンディの自我は異なる方向に引き裂かれている。ここで重要なのが生身の左腕である。アンディは4年前、左腕に恋人の名前をタトゥーに入れたものの、あっさり捨てられていた。そのタトゥーを書き換えることでアンディは生まれ変わりを果たす。

「そしてわれらは暗闇の中」。夫の「わたし」は現実には子供がいないものの、夢の中に子供が入り込んでいた。「わたし」はそれを願望ではなく「本物」であると確信している。「わたし」は同じ現象の人たちとカリフォルニアに集まる。「この子はわたしのベビーであって、わたしたちのベビーではない」というのは、まさに母親の心理だと思う。母親は自分の腹を痛めて産んだ子をそう思っているのではないか。離婚したときに親権が母親に移るのも無理はない。それと、夢の中に出てくる子供が造形的に定まっていないのは、「本物」ではなく願望の表れだからだろう。

「記憶が戻る日」。「あたし」のママは退役軍人で、顔に火傷痕があるうえ車椅子を利用していた。今日は退役軍人のパレード。毎年の投票によって記憶にベールが降りるかどうかが決まる。カズオ・イシグロっぽいテーマだ。戦争のむごい記憶は確かに忘れたい。しかし、人為的に記憶に蓋をしていいのか。記憶の中には死んだパパの思い出も含まれる。こういうのが投票によって決まる、すなわち多数派なのが悲しい。

「いずれすべては海の中に」。文明が崩壊しかかっている世界。ロックスターのギャビーが救命ボートで漂着する。浜にはゴミ漁りの女性ベイがいた。2人はそれぞれ事情を抱えており……。コミュニケーションによって遠かった存在がだんだん近づいていくところが本作の醍醐味だろう。また、世界設定も面白い。富裕層が陸地を捨てて豪華客船に生活の場を移すなんて退廃の極みである。文明が崩壊すると人間は退廃に陥るというわけだ。それを避けるには人里離れた場所で細々と暮らすしかない。少人数で。肩を寄せ合って。

「彼女の低いハム音」。おばあちゃんが死んだ後、父が粘土と金属で新しいおばあちゃんを作りあげた。この一家はおそらくユダヤ人で(持ち物の中に安息日の蠟燭立てがある)、新しいおばあちゃんはゴーレムである。急に移住することになったのはポグロムが背景にあるのだろう。このように暗い様相を帯びながらも、娘は新しいおばあちゃんと交流する。

「死者との対話」。グウェンがイライザの求めに応じて殺人現場の模型を作る。イライザはそれを使って「死者との対話」をし、事件の謎を解くつもりだった。ミステリの覗き見趣味的な部分にフォーカスしている。グウェンは人間をコンテンツとして消費することに批判的だった。ゴシップ好きの僕としても耳が痛い話である。これはこれでアンチミステリの一種なのではないか。人間の生活をほじくり返して遊びの道具にするのは倫理に反する。

「時間流民のためのシュウェル・ホーム」。時間飛躍が当たり前の世界。時間は不可逆で一直線に進むのが一番だと思った。そりゃタイムループもタイムリープもフィクション(=他人事)としては面白いけど、実際に体験するとしんどいだろう。ところで最近、『タイム・リープ あしたはきのう』【Amazon】を読んだらいい気晴らしになった。また、現在放送中のアニメ『サマータイムレンダ』【Amazon】も面白く見れている。どちらも優れたタイムリープものである。

「深淵をあとに歓喜して」。建築家のジョージが脳梗塞で倒れる。夫と長く連れ添ってきたミリーは、彼との馴れ初めを振り返る。ジョージの人生には決定的なターニングポイントがあり、ミリーはその重荷を分かち合えなかったことを後悔していた。これは主流文学でも滅多にお目にかかれない傑作ではなかろうか。ミリーの視点から見ているからこそ埋められない空白がある。所々に「老い」を感じさせる表現を散りばめているところがいい(「今や心に思い描く夫より息子のほうが年上だなんて、不思議な感じだ」とか)。

「孤独な船乗りはだれ一人」。旅籠で働く少年アレックスが船長に買われて船に乗ることに。目的はセイレーンの討伐だった。セイレーンは歌声によって船員たちを全滅させてきたが、アレックスは両性具有のため歌声が効かない可能性がある。そう船長は踏んでいる。セイレーンが歌っているのが、「歌そのものについての歌」というのがいい。また、アレックスとセイレーンが対峙する前に生き残りが出てくるところも、来るべきクライマックスへの期待を膨らませる。そして、クライマックス。セイレーンの歌に対するアレックスの返歌が最高だ。

「風はさまよう」。宇宙船で教師をしているクレイは、地球外に出た人類の第三世代だった。宇宙船はかつてハッカーによってデータベースが破壊されており、それまでの歴史や文化が消去されている。クレイたちはその保全を大事に思っていたが……。「過去よりも未来」という思考が歴史を拒否するのも困ったもので、現在も未来も過去を土台にしているのだから、歴史を学ぶことは避けて通れないと思った。結局、文化は模倣の繰り返しなのである。それに歴史は現代の人類にとっての拠り所で、これを知っていると今の自分がどこに立っているのか分かる。そのメリットは大きい。

「オープン・ロードの聖母様」。ルースたちバンドマンはバンでどさ回りをしている。この時代はステージ・ホロが浸透し、生演奏は珍しいものになっていた。本作にはアナログへの哀惜というのがテーマにあって、とてもアクチュアルな問題だと思う。たとえば、現代では音楽のストリーミング配信が主流になっているけれど、一方でCDやレコードに拘ってるミュージシャンがいる。また、VTuberの登場で動画配信の様相も変化していて、生身の人間にあった生活の匂い(生臭さ)が消えてしまった。このようにテクノロジーの進展は必ずしも人を満足させない。利便性を得る反面、失われるものも確実にある。

「イッカク」。よろず屋のリネットがダリアを乗せてクジラを運転することに。そのクジラはダリアの母親のものだった。運転しているうちにクジラから角が生えてイッカクになる。やがてリネットは博物館に寄り……。アメリカにおけるヒーローの重要性って、9.11を境に飛躍的に増したと思う。本作に出てくる「事件」も9.11のミニスケール版だし。マーベルもののヒーロー映画が盛んに作られているのも9.11後である。

「そして(Nマイナス1)人しかいなくなった」。多元宇宙から集められたサラ・ピンスカーたちが、大西洋に浮かぶ小さな島に招待される。そこで一人のサラ・ピンスカーが死んでしまうのだった。探偵のサラ・ピンスカーが事件を調査する。ミステリとSFの融合。谷川流が書きそうな短編だった。あり得たかもしれない自分が集まる空間は、サラ・ピンスカーという個人のインナースペースを表しているかのようである。あのときああすればああなっていたし、あのときこうすればこうなっていた。そういう無限の可能性を想像するのは楽しいと同時に恐ろしくもある。本作は殺人の動機が刺激的だった。