海外文学読書録

書評と感想

トーマス・マン『魔の山』(1924)

★★★

第一次世界大戦前。見習いエンジニアのハンス・カストロプが、いとこのヨーアヒムが療養生活を送るスイスのサナトリウムを訪れる。彼はそこで三週間滞在する予定だったが、結核であることが発覚して滞在期間が伸びるのだった。ハンス・カストロプはロシア婦人ショーシャ、人文主義者セテムブリーニ、虚無主義者ナフタらと交流する。

時間、時間そのものを純粋に時間として物語ることができるであろうか。いや、そういうことはとうてい不可能だ。それは愚かな企てというべきであろう。「時は流れ、時はすぎ、時は移る」というふうに話しつづけていったところで――たといそれが物語だとしても、常識はそれを物語と呼びはしないであろう。それは、気でも狂ったように、同じ音、同じ和音を一時間も鳴らしつづける、そしてそれを――音楽だというようなものである。なぜなら物語は時間を充たす、つまり時間を「きちんと埋め」、時間を「区切り」、その時間にはいつも「何かがあり」、「何かが起こっている」ようにするという点で、音楽に似ているからである――。(下 p.401)

上下巻。

教養小説の枠組みを取りつつ、時間芸術たる小説の時間性に迫った野心作である。

教養小説として特異なのは、舞台がサナトリウム周辺に限定されているところだ。通常だったら主人公はあちこち遍歴するか都会に出るかするだろう。主人公はたどり着いた先で様々な人と出会って成長する。ところが、本作は舞台が僻地に固定されている。閉鎖環境における人間関係の摩擦によって主人公が成長していくのだ。こういった形式の反転も野心的で、教養小説の終焉を宣告したかのように見える。

ハンス・カストロプの主な教師は人文主義者セテムブリーニと虚無主義者ナフタである。2人は同じ啓蒙主義から枝分かれした天使と悪魔といった風情だ。セテムブリーニは自由を称揚し、ヨーロッパの民主主義を信奉している。それに対し、ナフタはセテムブリーニの対極に位置する男で、テロリズムを視野に入れつつ神秘主義的な独裁を志向している。セテムブリーニは現代のリベラルに通じるところがあり、その主張は我々にとっても馴染み深い。一方、ナフタは後年のナチズムに通じる危険思想を孕んでおり、その主張はいかにも前時代的といった趣だ。大抵の読者はセテムブリーニを支持するだろう。この療養生活において、セテムブリーニとナフタの論争は最大のイベントである。

面白いのはセテムブリーニがフリーメイソン会員で、ナフタがイエズス会士であるところだ。どちらも相互扶助を範とした友愛的な組織に所属している。そして、フリーメイソンカトリックは歴史的に対立していた。言うまでもなく、イエズス会カトリックの組織である。セテムブリーニとナフタは背負って立つものからして敵対的なわけで、2人が論争に明け暮れるのも無理はないと思わせる。

本作の時間については、英文学者の山本史郎が次のように指摘している(引用は『読み切り 世界文学』【Amazon】から)。

魔の山』はハンスがサナトリウムで過ごした七年間の物語だが、七年のうち最初の三週間までの経験が、日本語訳全体の七七六ページのうち二〇四ページを占めている。そのあとは似たような経験でも、より短いページ数で記述されるようになり、その傾向は徐々に加速されていく。これはつまり、新しいことを経験するときには時間の経過が遅いが、慣れるにしたがってどんどんはやくなっていくという我々の日常生活での経験が、物語の語りの上に再現されているのだ。(p.231)

習慣とは時間感覚の麻痺を意味する。歳をとるごとに時間が短く感じるのも習慣のせいだ。本作ではそういった知見を取り込みつつ、小説における時間の曖昧さにまで触手を伸ばしている。つまり、語り手が語ることは恣意的に選択されており、それらが何時何分何秒に起こったかは明示されない。だから読者は諸々のエピソードがいつのものなのか把握できないのだ。すべてはただ過去に起こったこととして一様に記憶されるのみである。さらに、ある時は大量の叙述で穴埋めし、ある時はたった一文で時間を飛ばしている。本作ではそのようにして意図的に読者の時間感覚を混乱させている。読者が小説を読む時間と小説内で流れる時間、その双方をコントロールして問題提起をしているところは流石だった。