海外文学読書録

書評と感想

ジュール・ルナール『にんじん』(1894)

★★★

ルピック家の末っ子フランソワは、赤茶けた髪の毛とそばかすだらけの肌から「にんじん」とあだ名をつけられていた*1。にんじんには兄のフェリックスと姉のエルネスチーヌがいる。父親のルピック氏は仕事で家を留守がちにしており、家庭のことはもっぱら母親のルピック夫人が見ていた。ルピック夫人はにんじんにだけ当たりが強く……。

「お前にメロンはもうないわ」ルピック夫人がいった。「それに、お前も私もメロンは好きじゃないものね」

「まあ、いいや」とにんじんは考える。

こんなふうに、にんじんの好き嫌いは勝手に決められる。だが、たいていは、母親の好きなものを好きだといわねばならない。チーズが出されると、

「もちろん、にんじんは食べないわね」ルピック夫人は決めてしまう。

にんじんはこう考える。

「ママがそういうなら、食べなくてもいい」

もちろん、食べたりしたら、あとが怖いことも知っている。(Kindleの位置No.235-241)

ほのぼのとした児童文学かと思いきや、思ったよりも闇が深くてどん引きした。少年の自己形成を連作形式で描いているところは『僕の名はアラム』を彷彿とさせる。しかしながら、本作は家庭内におけるにんじんの立ち場が微妙で、小さい頃からルピック夫人に虐待されているのだからのぞける。といっても、それが明確になるのはラストに置かれた「にんじんのアルバム」という章だ。そこに至るまではせいぜい軽い毒親といった風情で、小便入りのスープを飲ませるとか、支配的な態度で接するとかくらいである。しかし、最終章では洒落にならないくらいの児童虐待を連発しており、ルピック夫人の傍若無人な振る舞いに驚いてしまう。これが当時のフランスのスタンダードだったのだろうか? とはいえ、ターゲットになっているのは末っ子のにんじんだけで、長男のフェリックスと長女のエルネスチーヌには虐待していないのである。こういう家庭で育ったからにんじんは警戒心が強く、おまけにニヒリスティックな性格をしているのだけど、しかしそれ以上にルピック夫人の闇が気になるのだった。

各章はシンプルかつ透明度の高い文体で書かれていて、オチも気が利いている。たとえば、「書簡集」ではにんじんとルピック氏が手紙でやりとりするのだけど、ラストはキレ味が鋭かった。このオチには抜群のユーモアセンスが感じられる。また、ほとんどの章は終わり方が粋で詩情があり、読んでいて感心することしきりだった。全体としては一級の文芸作品という印象である。

「指」ではにんじんがザリガニを釣るエサにするために猫を殺している。しかも、一撃では仕留めきれず、辺りはグロテスクな惨状になっているのだった。おそらく当時は家畜を殺すのが当たり前だったのだろうけど、しかし、この部分は現代人が読んだら嫌悪感を抱くこと請け合いだ。というのも、現代では動物愛護法によって犬や猫の屠殺は禁じられているから。それどころか、みんな家族の一員として遇している。当時と現代とではここまでギャップがあるわけで、現代人としては猫殺しに戦慄せざるを得ない。その一方、現代人の目で見ると、にんじんの猫殺しは母親による虐待が影響してそうで複雑だ。家庭環境の影響は大きいのではないかという懸念がある。この辺は議論の余地があるだろう。

というわけで、予想以上に闇の深い小説だった。

*1:この部分、『赤毛のアン』【Amazon】との類似性を見ずにはいられない。アンもその容貌から同級生のギルバートに「にんじん」と馬鹿にされていた。