海外文学読書録

書評と感想

ドナテッラ・ディ・ピエトラントニオ『戻ってきた娘』(2017)

★★★

1975年のイタリア。13歳の少女「わたし」が育ての親の家から生みの親の家に引き取られる。「わたし」は赤ん坊の頃に里子に出されていた。それまで中流家庭の一人娘として何不自由なく暮らしてきたが、新しい家は子沢山の貧困家庭だった。「わたし」は肉親からあまり歓迎されていなかったものの、妹のアドリアーナとは親密になる。

「わたしは荷物じゃない! 勝手にあっちへやったりこっちへやったりしないで。お母さんに会いたいの。あの人がどこにいるのか、いますぐ教えて。一人で会いに行くから」わたしは仁王立ちになってわなないた。(p.139)

『そして父になる』は取り替え子を通じて父親が成長する話だったけれど、本作は似たような状況を子供目線で描いていて、こういうのはやはり子供が一番苦労するよなと思った。一度里子に出した娘を理由も明かさず元の家に戻す。13年間別の家庭で育った「わたし」にとって、元の家族は血は繋がっていても赤の他人も同然だ。しかも、中流家庭から貧困家庭へと生活水準が大幅に下がっている。さらに、家庭や学校では余所者扱いだった。13歳の少女が大人の都合で振り回される様子がとてもつらかった。

実の母親が継母みたいになっているところが倒錯していて、自宅に引き取ったわりには愛情を感じられない。かといって人情がまったくないわけではなく、長男が事故死したときは慟哭し、以降は別人みたいに打ちひしがれている。母親にとって長男はただ一人の大切な子供だったのだ。しかし、ここから母と娘の関係が目に見えて改善されていく。不器用ながらも本音で繋がっていく。時の経過によって信頼が芽生えるところは人間関係の醍醐味だと思った。

「わたし」にとって幸運だったのは妹のアドリアーナと親密になれたところだろう。妹のおかげで余所者の「わたし」は四面楚歌にならなかった。アドリアーナは「わたし」よりも生活力があって、家事や買い物はお手のもの、それどころか粗暴な田舎者のあしらい方まで心得ている。都会のもやしっ子にとっては心強い味方である。その一方、「わたし」が高校に進学して別居した際は、家出したいと駄々をこねるくらい寂しがっている。そこは年齢相応の幼さが残っていた。本作はアドリアーナがいるおかげで暗くならずに済んでいる。

終盤では「わたし」が実母の元に返された理由が明かされる。これがまたエゴイスティックで、大人の事情で子供を放り出していいのかよと呆れた。13年間の愛情は何だったのだろう? しかし、これは我々にとっても他人事ではない。たとえば、両親が離婚したら子供の意向と関係なく引取先が決まってしまう。親権を決めるのはあくまで大人なのだ。現代の家族制度において子供は親の従属物でしかなく、主体的に環境を選べない。最近では「親ガチャ」という言葉をよく聞くけれど、これなんかは子供が置かれた不条理を的確に表している。本作はこういった家族制度の欠陥をあぶり出していた。