海外文学読書録

書評と感想

トッド・フィリップス『ジョーカー』(2019/米)

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • ホアキン・フェニックス
Amazon

★★★★

ゴッサム・シティ。母親(フランセス・コンロイ)と二人暮らしのアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、心の病を抱えながらもピエロの仕事で生計を立てていた。コメディアン志望のアーサーは大物芸人のマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)を尊敬しており、いつか彼のトーク番組に出たいと思っている。そんなある日、アーサーは地下鉄で自分に絡んできた男たちを射殺。それを機に積極的になり、シングルマザーのソフィー(ザジー・ビーツ)と親しくなるのだった。一方、アーサーはゴッサム・シティの名士トーマス・ウェイン(ブレット・カレン)が自分の父親かもしれないと思い込み……。

ジョーカー誕生秘話で、バットマンシリーズに繋がるような作りになっている。と同時に、社会派っぽい要素も色濃くあって、格差社会における貧困層の問題を扱っている。たぶん、アーサーみたいな生い立ちの人はアメリカによくいるのだろう。幼少時に虐待されて精神を病み、また貧困家庭で育ったがゆえに周囲から蔑まれる。社会の底辺で暮らす彼は、他人に蹂躙される人生しか送れない。劇中では「僕は失うものは何もない」「僕の人生は喜劇だ」などと独白しており、彼は生まれながらに「無敵の人」になっている。そんな無敵の人が格差社会に一矢報いるには暴力を用いるしかなかった。偶発的とはいえ、地下鉄でエリート会社員どもを射殺し、それが貧困層の喝采を浴びて一大ムーブメントになっている。殺人犯が大衆の希望になる現象は倒錯的だが、しかし現実にあり得ない光景ではない。たとえば、仮に日本で精神障害者が竹中平蔵を刺殺したら、大多数の日本人は犯人を褒め称えるだろう。つまり、エリート会社員も竹中平蔵も格差社会のシンボルであり、大衆は彼らの不幸を心の底で願っているのだ。悲しいことに、現代の資本主義社会はそういう段階にまで来ている。大衆のガス抜きをいかにして行うか。それが統治者の抱える喫緊の課題になっている。

母子家庭で育ったアーサーにとって、自分の父親が誰であるのかは大いに気になるところだ。彼はひょんなことから、金持ちのトーマス・ウェインが自分の父親だと確信を抱くことになる。言うまでもなく、トーマスはバットマンことブルース・ウェインの父親だ。結局、アーサーの確信は脆くも崩れ去ることになるが、しかし父親というのは本作において大きな問題になっている。象徴的な意味では、アーサーの父親は大物芸人のマレー・フランクリンだ。コメディアン志望のアーサーにとっては尊敬すべき存在であり、また自分のことをテレビで取り上げてくれた恩人でもある。彼こそが理想の父親であると同時に、乗り越えるべき壁なのだ。しかし、マレーにとってアーサーはただの笑いものでしかなかった。テレビ番組を盛り上げる駒に過ぎなかった。そうした行き違いからアーサーは「父殺し」を行い、血に塗れた通過儀礼を果たす。そして、彼はジョーカーとして生まれ変わることになる。本作はこのような「父殺し」を取り入れるにあたり、『キング・オブ・コメディ』のロバート・デ・ニーロを起用していて気が利いている。

「笑い」というのは適切な場面で行うことで、コミュニケーションを円滑に進める手段になる。しかし、それがアーサーみたいに不適切な場面で行うと、一転して狂人のような印象を与える。社会には暗黙のコードがあり、それに従わない人間はパージされるのだ。アーサーは『異邦人』【Amazon】のムルソーのようなはみ出し者である。社会が要請するコードを守れないエイリアンである。彼がジョーカーとして表の世界から追いやられたのも必然だろう。障害を負った人間が社会に馴染むのなかなか大変だ。