海外文学読書録

書評と感想

チョ・ナムジュ『彼女の名前は』(2018)

★★★★

短編集。「二番目の人」、「ナリと私」、「彼女へ」、「若い娘がひとりで」、「私の名前はキム・ウンスン」、「大観覧車」、「公園墓地にて」、「離婚日記」、「結婚日記」、「インタビュー――妊婦の話」、「ママは一年生」、「運のよい日」、「彼女たちの老後対策」、「声を探して」、「もう一度かがやく私たち」、「調理師のお弁当」、「運転の達人」、「20ねんつとめました」、「母の日記」、「ジンミョンのお父さんへ」、「ばあちゃんの誓い」、「浪人の弁」、「また巡り逢えた世界」、「老いた樫の木の歌」、「長女ウンミ」、「公転周期」、「十一歳の出馬宣言」、「78年生まれ、J」の28編。

「お姉ちゃん、あたし結婚やめよっかな? 結婚ってどんなものなの? してみたほうがいいもの? お姉ちゃんがするなって言ったら、ここでやめるから。理由も聞かないから」

(……)

「結婚して。いいことのほうが多いから。ただ、結婚しても誰かの妻、誰かの娘、誰かの母になろうってがんばらないで、自分のままでいて」(pp.70-71)

フェミニスト文学がプロレタリア文学に接近していくところがスリリングだった。日本のフェミニストはかつての自民党よろしく表現規制に熱中しているけれど、韓国では真面目に労働争議をしているみたい。それだけでも好感が持てる。

以下、各短編について。

「二番目の人」。20代後半のソジンが、妻子持ちの係長からセクハラを受ける。それを課長に報告すると、今度は係長からパワハラを受けるようになる。男性原理で動いている会社というのは小さなディストピアだと思った。真実が捻じ曲げられ、加害者と被害者が入れ替わる。会社全体が係長の味方であるため、ソジンは最終手段としてネットで告発することになった。そう考えると、#MeTooもやむなしだ。

「ナリと私」。「私」が可愛がっている後輩ナリは26歳。2年目の放送作家だった。ナリが受けている理不尽は、既に「私」が通ってきた道であり、状況はむしろ「私」の時のほうが酷かった。しかし、それを自明のものとしてはいけない。結局のところ、我々は社会を少しずつ変えていくしかないのだ。日本も昭和よりは平成のほうがマシだったし、平成よりはおそらく令和のほうがマシだろう。人々の意識改革を地道にやっていく。

「彼女へ」。ジョギュンが女性アイドル・ウォンのファンになる。そういえば、女性は女性アイドルのファンになることも珍しくないけれど、男性が男性アイドルのファンになることって滅多にない。この非対称性は何なのだろう? でも、作中で指摘されている通り、男性は男子サッカー選手のファンになったりはする。それはともかく、ジョギュンがアイドルのする「愛嬌ポーズ」を嫌がるところはフェミっぽいと思った。「愛嬌ポーズ」とはつまり、男に媚びているポーズだから。自分の好きな偶像が性的に消費されることが許せない。それを踏まえると、メイド喫茶って実はヤバかったのだ。

「若い娘がひとりで」。ソウルに上京した娘が母に宛てて書いた手紙。ガスの配管を登って部屋に侵入しようとしてきた男が、「私」の叫び声に驚いて落下するくだり。警察が被害者の「私」を叱るところが恐ろしかった。これは女性差別が自然のものとして存在することを表している。男性は男性を守る。なぜなら男性が社会の主体だから。性犯罪の揉み消しが日常的に行われてそうでぞっとする。

「私の名前はキム・ウンスン」。29歳のウンスンは、飲食店でホールスタッフをしている。彼女には3歳年下の彼氏がおり、その彼はまだ学生だった。すごいポジティブな締め方だったけど、仮に彼氏と結婚したとして、やはり女性差別に晒されることは想像に難くない。彼氏だって飲食店のクレーマーと大差ない価値観の持ち主だろう。でも、ウンスンはそれを自明のものとして受け入れていく。ポジティブに、爽やかに。ところで、「○○スン」という名前は韓国だとダサいらしい。

「大観覧車」。観覧車を媒介にした母との思い出。一般的に母と娘って結束が固いイメージだけど、そこに至るまでに色々あるのだろうな。男の僕にはよく分からない。ところで、「私」が観覧車を拒絶したのは、その時点で母を拒絶したと解釈できそう。そうなったのも若さゆえだろう。

「公園墓地にて」。母が脳腫瘍で死んだ。生前、独身で子なしの「私」が面倒を看ており、そのことが語られる。介護の生々しさが描かれており、そこに母と娘の相克も織り込まれている。しかしこれ、介護したのが息子だったらどうなっていただろう? 彼だったら案外上手くこなしていたのでは。

「離婚日記」。妹は結婚し、姉の「私」は離婚する。田舎者が傍若無人なのは日本も韓国も変わらないみたいだ。下戸なのに無理やり酒を飲まされ、嫌がっているのに歌うことを強要される。嫁にとって義理の家族は目の上のたんこぶであり、この構図は東アジア共通なのだろう。たぶん儒教の名残りなのだと思う。

「結婚日記」。「離婚日記」の姉妹編。姉は離婚し、妹の「私」は結婚する。姉の教訓が活かされた爽やかな短編だった。思うに、人間が幸福に暮らすために必要なのは強い意思なのではないか。誰かの従属物にならず、主体的に生きる。簡単なようでこれがなかなか難しい。

「インタビュー――妊婦の話」。38歳の妊婦ソン・ジソンのインタビュー。彼女は電車では老人から邪険にされ、会社では法規違反の要求を突きつけられていた。先進国なんてどこも少子高齢化で困ってるのに、なぜ妊婦を大事にしないのだろう? お腹の子供は将来の貴重なタックスペイヤーではないか。自分たちの年金だって払ってくれる。あと、妊婦の服装や食べ物に外野があれこれ口を挟むのもありがちだ。こういうのって日本も韓国も変わらないみたい。

「ママは一年生」。外資系金融会社で働く38歳のチヘ。彼女の娘が今年小学校に入学した。保護者にボランティアをさせるのって、専業主婦が当たり前の時代だったらまだしも、共働きが多数派の現在では負担が半端ないだろう。おまけに、会社は子育て社員に配慮がない。要するに、社会情勢の変化に対して、制度と意識が追いついてないのだ。こういうのを読むと、女性の社会進出が本当に正しかったのか疑問に思う。相対的に賃金は下がり、少子化が進んだわけだから。多産を促すには家父長制が合理的だったのではないか。

「運のよい日」。マンションに住むミンジョンと夫がモデルルームを見学する。住宅組合に加入して入居するシステムっていうのがよく分からない。分譲地ではよくある形態なのだろうか?

「彼女たちの老後対策」。弁護士の「私」が、カン・ミナと彼女の恋人について語る。僕はいまいち韓国の文化に疎いので、名前で性別を判断することができない。最初、カン・ミナと言われても男か女か分からなかった。それはともかく、こういう異質なカップルを扱うところもフェミニスト的には重要なのだろう。しかしそういった政治性とは裏腹に、外枠は片思いの物語になっている。

「声を探して」。アナウンサーのミンジュと夫は職場結婚した夫婦。2人はストライキに参加していて生活に困窮していた。アナウンサーにとってフリーになることは名誉だと思っていたけれど、韓国では違うのだろうか? 収入も会社員時代より上がる可能性が高いし。それはともかく、ミンジュは夫の顔色を窺うときはあれど、基本的には戦友みたいに上手くやっていて、夫婦の在り方としてはまあ悪くない。非常時でも関係は壊れなかった。何の摩擦もない100点満点の夫婦なんてあり得ないわけで。

「もう一度かがやく私たち」。KTXの解雇女性乗務員は、最高裁で二審の勝訴判決を覆されたため、受け取った未払い賃金を返還しなければならなくなった。しかし、それはもう生活費で使い果たしている。これは現代のプロレタリア文学ではなかろうか。企業はとにかく労働者を安く使い倒そうとしていて、それが雇用条件の不平等に繋がっている。思えば、日本でも非正規雇用を推進した竹中平蔵が槍玉に挙げられていた。ネット上ではまるで親の仇のように語られていて、彼がなぜ刺されないのか不思議なくらいである。

「調理師のお弁当」。スビンの母は8年間調理師をしており、来週の木曜と金曜にストライキすることになった。大人の世界がよく分からない高校生の視点から描いているのが良かった。学校では労使関係の言葉を習っていても、実体がどうなっているのかは想像もつかない。一方、母たちは私利私欲のためではなく、次代の若者のために自分たちの待遇改善を求めている。社会運動の美しい部分ではないか。

「運転の達人」。ソウルで路線バスの運転手をしているカン・ヨンヒ。彼女は無事故の優良ドライバーだった。職業人の誇りを描いた素朴な短編だけど、こういうのって従来だったら男性が主人公だったと推測される。それを女性にしたところが本作の新しさであり、韓国社会の進歩なのだろう。そして、運転手にとっての本分は安全運転だった。それ以外は付随的な能力に過ぎない。まさにプロフェッショナルだ。

「20ねんつとめました」。ジンスンは国会の清掃職員を十数年務めている。この度、念願叶って派遣会社からの雇用から国会の直接雇用に変わった。だいたい資本主義国家って「小さな政府」を目指していて、公務員の仕事を民間にアウトソーシングすることが多い。卑近な例では図書館の指定管理者制度が挙げられるだろう。日本では図書館の業務を民間に委託することが増えた。本作の直接雇用が画期的なのは、そういった流れに反して労働環境の改善をしているところで、世の中捨てたものではないと感心する。

「母の日記」。「私」の娘ジョンウンが離婚し、下の娘ジョンアが結婚する。子供は親の思い通りには育たたない。そのことを認識しないとお互い傷つけ合うことになる。やはり自立した人間の決断は尊重すべきで、変な親心は起こさないほうが無難だ。その点、「私」の夫は無神経である。僕も気をつけよう。

「ジンミョンのお父さんへ」。老齢の「私」は孫娘の世話をしている。日本の場合、核家族が当たり前だから、子育てするのに実家を頼れない。一方、実家のほうは頼られたら頼られたでなかなか大変なようである。とはいえ、苦労の中にも喜びがあり、子育ての醍醐味が感じられるのだった。この事実はもっと知られていいと思う。そして、親世代と子世代ではライフスタイルも激変している。社会は確実に前進している。

「ばあちゃんの誓い」。71歳のソンレがテレビ出演する。地元にTHAADが配備されることになり、みんなでそれに反対する。そういえば、日本でも山口県秋田県にイージス・アショアが配備されることになっていたけれど、致命的な欠陥が判明して白紙になったのだった。こういうのは米軍基地問題と同じで、どこかに押し付けるしかないのである。不公平だけど、この世界は往々にして多数派の利益のために少数派が犠牲になっている。

「浪人の弁」。2016年。修能試験を控えたユギョンが、朴槿恵大統領の辞任を求めるろうそくデモに参加する。そういえば、朴槿恵って親友の娘を大学に裏口入学させてたんだっけ? 権力者のお友達は色々と優遇されて羨ましい、とは日本人も身に沁みて感じているわけで、権力者が裁かれるだけ韓国のほうがまだマシだと思うのだった。

「また巡り逢えた世界」。2016年。大学生のキム・ジョンヨンが、大学総長の辞職を求めるデモに参加する。安保闘争みたいな学生運動には嫌悪感しかないけれど、SNSを活用した現代的なデモには憧れがある。そういう正義感とは無縁な学生生活を送っていたので。学生同士が政治的な連帯で結ばれるのってどういう気分なのだろう?

「老いた樫の木の歌」。タクシー運転手が信号待ちでギターを取り出して「幸せの黄色いリボン」を歌う。そして、自分のかつての失敗を語る。「私」はそのことを学生新聞のネタにする。よくある失敗体験かと思いきや、最後に重いエピソードが出てきてびっくりした。DV、ダメ。ゼッタイ。

「長女ウンミ」。長女のウンミは商業高校の2年生。当初、母親は商業高校への進学に反対していた。ウンミには大学を目指して欲しかったという。韓国が日本以上の超学歴社会であることを念頭に置かないと、これは理解できないだろう。ところで、韓国ってIMF危機以降いつも不景気というイメージだけど、そんなに経済ダメダメなの?

「公転周期」。図書部にいたパク・ジンスクの話。彼女の一家は貧困家庭で、マンションの地下2階に住んでいる。貧困家庭は子供の教育に投資できないから、次の世代へと貧困が再生産されていく。学歴社会だったら尚更だ。ここから一発逆転を狙うのだったら、芸能界にでも入るしかないのだろう。人生ハードモードである。

「十一歳の出馬宣言」。小学校の児童会長に立候補したチェ・ウンソの演説。韓国には「小坊」という言葉があるらしい。意味は日本の「中坊」と同じ。小学生と中学生ではだいぶ違うけれど、それだけ成熟するのに差があるということだろうか。それにしても、日本のAVが韓国にまで広まっているとは驚いた。中国や台湾だけではなかったのだ。そしてこの演説、短いながらも韓国の社会問題をえぐり出していて立派な風刺作品だと思う。

「78年生まれ、J」。40歳になったJ氏が回想する。高難度の修能試験、IMF危機、日韓ワールドカップ。世代ごとの共通体験というのは確かにあって、僕も同世代には親しみを覚えないでもない。そして、40歳になったら社会に対して責任を持たなければならないという。これはまったくその通りで、短編集の締めくくりとして収まりのいい内容だった。