海外文学読書録

書評と感想

フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』(1963/伊)

★★★★★

43歳の映画監督グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)が、医者の勧めで湯治にやってくる。彼は次回作の準備を進めるも、撮影の前から行き詰まっていた。一方、私生活では妻ルイザ(アヌーク・エーメ)の他に愛人のカルラ(サンドラ・ミーロ)がいて、こちらも上手くいっていない。

公私にわたる「中年の危機」を扱った映画だけど、全体に通底するカーニバル性が良かった。現在と過去、また現実と幻想を行ったり来たりする構成で、やや人を食った感じのエピソードを繰り出してくる。そもそも、冒頭である登場人物に「映画全体が訳の分からぬエピソードの羅列だ」と言わせているあたり、監督もやっていることに自覚的だったのだろう。本作はリアリズムから微妙にはみ出しつつ、私小説みたいな物語を展開していて、どういう終わり方をするのか期待しながら観ていた。

カーニバル性を代表する例として、ハーレムのエピソードが挙げられるだろう。ここではグイドがたくさんの女たちに囲まれ、天国もかくやという生活を満喫している。ところがそんな蜜月も一転、些細なことがきっかけで女たちが反乱を起こすのだった。そこから物語は喜劇的な色彩を帯び、グイドは暴君と化して女たちに鞭を振るう。このシーンはカーニバルの魅力満載で、画面から横溢する高揚感が素晴らしかった。

ひとしきり騒いだ後、祭りは突如として終息する。特筆すべきは、この後グイドの妻が家政婦みたいな扱いを受けているところだ。つまり、グイドにとって彼女はそういう存在なのである。このシーンはグイドの欲望をストレートに反映していて面白かった。

マスコミから詰め寄られて最後に拳銃自殺するエピソードも、カーニバル性全開でなかなか楽しい。おそらくは現実によくある取材の現場をカリカチュアライズしているのだろう。ここでグイドは、「自分の人生に他人が興味を持つとでも?」と訊かれる。「正直で嘘のない映画を撮りたかった」と述懐するグイドにとって、非常にクリティカルな質問だ。「興味を持つ」だなんて、たとえ思っていても答えにくいだろう。ここで僕は考える。SNS時代になり、他人の人生こそが最大の娯楽であることが明らかになった。ほとんどのネット民が見知らぬ他人の人生をコンテンツとして消費している。マスコミの質問は愚問ではないか。僕だったら、「私小説みたいな映画を撮るのは正しい」と断言できる。

本作はラストがよく出来ていて、たくさんの登場人物が手を繋いで輪になり、音楽に合わせて踊るところが壮観だった。ここもやはりカーニバル的な高揚感がある。そして、その後暗転して少年時代のグイドが一人で笛を吹くのも余韻がある。期待に違わぬ最高の終わり方だった。