海外文学読書録

書評と感想

庵野秀明、樋口真嗣『シン・ゴジラ』(2016/日)

★★★

東京湾で大量の水蒸気が発生する。政府は当初、海底火山が原因と見ていたが、内閣官房副長官矢口蘭堂長谷川博己)は巨大生物の可能性を示唆する。やがて海中から巨大生物が出現、蒲田に上陸して街を破壊しながら北上する。一方、アメリカからは特使のカヨコ・アン・パタースン石原さとみ)が派遣され、その生物がゴジラGODZILLA)であることを矢口に伝える。政府はゴジラを排除することにしたが……。

元々ゴジラは原爆のメタファーだったから、震災後のゴジラ原発のメタファーになるのも不自然ではない。むしろ、当然の成り行きだろう。これを思いついた人は目のつけどころがいいし、本作がヒットしたのも必然だと思う。

想定外の災害に対して日本の民主主義はまともに機能しない。意思決定のプロセスには多くの無駄が存在する。これは福島第一原発事故を踏まえての描写だし、実際に巨大生物が東京に出現したら、もっと酷いことになるのは確実だろう。そして、2011年の事故対応が上手くいかなかったのは、何も特定の政権が悪いのではない。この国の制度そのものに問題がある。それは2020年のコロナ禍によって鮮明になった。自民党にせよ民主党にせよ、日本政府は想定外の災害に対して無力なのだ。やることといったら保身のために情報を隠蔽するか、災害のドサクサに紛れて利権を貪るかだけ。現在のコロナ禍でも、特定の業者とつるんで布マスクを中途半端に配布したり、旅行業界に忖度してGo Toキャンペーンを打ったり、今後の生活が不安になるほど迷走している。アベノマスク? そんなもの各家庭で作ればいいだろう。Go Toキャンペーン? そんなことをしたら感染が拡大して地方の医療体制が崩壊してしまう。福島第一原発事故のときは、政府がメルトダウンの情報をミスリードさせたことに腹が立った。今回のコロナ禍も、経済優先と称して私腹を肥やしていることに腹が立つ。

行政の縦割りを廃し、各分野のはみ出し者を結集して困難を解決するのはさすがに出来すぎで、願望充足にも程があると思った。アメリカとフランスを綱渡りする狡猾な外交も、現実では不可能だろう。しかしフィクションだからこそ、こういう理想的なビジョンを示すことが大切なのだ。我々はこれを観て一時的に現実逃避し、また絶望的な現実に戻ってきて打ちひしがれる。そうやって感情のジェットコースターに乗りながら、人生という長大な暇つぶしをやり過ごしていくのだ。フィクションが好きな人は幸いである。一生退屈することがないのだから。常に心地よい刺激を感じながら生きていける。

映画として面白かったのは、エネルギーを放出しきったゴジラが移動を停止するまで。それ以降はひたすらつまらなかった。また、満を持して登場したヤシオリ作戦にも不満で、どうせだったら東京に原爆を落としてほしかった。皇居もろとも東京を吹き飛ばしてほしかった。やはりゴジラ映画はゴジラが暴れているうちが華だ。僕はゴジラが熱線で米軍機を次々と撃ち落としていくところに興奮した。その仕返しとして、米軍がゴジラに原爆を食らわせたらもっと興奮できたろうにと思う。

ところで、この映画は関西人が観たらどう思うのか気になった。というのも、本作では東京の危機=日本の危機として描かれているので。この図式って、関西人にはピンとこないのではないか。あちらにはアンチ東京の人が多そうだし、福島第一原発事故だって身近な問題ではないだろう。関西人にとっては東京ローカルの話なので、そういう意味ではあまり普遍性がないのかもしれない。