海外文学読書録

書評と感想

老舎『牛天賜物語』(1935)

★★

裕福な商人・牛爺さんとその妻・牛婆さんには子供がいなかった。ひょんなことから2人は捨て子の赤ん坊を養子にする。その赤ん坊は牛天賜と名付けられるのだった。牛天賜のために乳母が雇われ、長じてからは家庭教師をつけられ、やがて学校に入れられる。ところが、そこで思わぬトラブルが待ち受けていた。

「儂のお金だ!」彼はもう一度繰り返していった。「儂のお金は、儂がやりたいと思う者にはやるが、儂がやりたくない者には、たとえ奪い取ろうたって取る事はできないんだ!」(p.366)

主人公が捨て子なのはディケンズの小説を踏まえているらしい。本作は英雄の伝記という形式だけど、終わり方が「俺たちの戦いはこれからだ」だったので拍子抜けした。物語が中途半端なところで終わっていて、いかにも典型的な打ち切りエンドである。

ただ、こうやって庶民の生活を描くのは、莫言を代表とする現代中国文学を連想させて、その辺の繋がりを確認できたのは良かった。莫言が庶民を題材にしているのって、共産党政権下における制約や忖度ではなく、単に近代文学の延長だったのだ。『三国志演義』【Amazon】や『水滸伝』【Amazon】では、知将・豪傑が英雄だった。近代になると、それが庶民に取って代わる。英雄とは市井に存在するという価値観が面白い。

本作で印象的だったのは、中国人の民度の低さだった。たとえば、牛天賜の通う学校に新主任が赴任してくるエピソード。彼の父親が大工という理由で反対運動が起きる。大工なんて賤業では生徒たちに示しがつかないというわけだ。ここまで公然と職業差別が行われているのには驚いた。しかも、大工なのはあくまで父親で、息子は努力して主任の地位を勝ち取ったのである。当時の中国にはカースト制度並の厳格な身分制度があったのかと訝った。

また、牛婆さんの葬式では家に親戚が集まってくるのだけど、彼らは牛天賜に対し、面と向かって「私生児」と侮辱している。何の罪もない子供にこの仕打ちは、さすがに行き過ぎと言わざるを得ない。中国人って面子を重んじるわりには、普段から本音でぶつかっていて、礼儀とは人が人であるために不可欠な要素なのだと痛感した。現代でも礼儀を「まどろっこしい」と言って否定する人がいるけれど、彼らはたぶん文明人ではないのだろう。衣服も着ない野蛮人なのだ。そういう連中とはなるべく関わらないのが吉である。

ところで、牛婆さんが赤ん坊だった牛天賜の脚を長期間縛っていたのは謎だった。「六か月間縛っておいただけの効果は確かにあった。天賜の脚は絶対に曲げることができなくなった。おまけに足の先が内側に向かって彎曲している」*1とある。おかげで二本足で歩くようになってからはびっこをひくようになった。この風習はいったい何なのだろう? 特に説明がなかったので疑問に思った。

*1:249頁。