海外文学読書録

書評と感想

金庸『射雕英雄伝』(1957,1976)

★★★★

南宋の時代。生前に父を殺された郭靖は蒙古で生まれ、そこで江南七怪によって武術の手ほどきを受ける。郭靖は約定により、18歳になったら自分と同年の少年と武術勝負をすることになっていた。相手の少年は父の義兄弟の息子で、母と共に金国に連れ去られている。一方、蒙古では後にジンギスカーンとなるテムジンが勢力を拡大していた。

「わしは一生、天下をかけめぐり、無数の国を滅した。そのわしが英雄ではないじゃと? ふん、なにをたわごとを申す!」

そう言って、ジンギスカーンは馬に鞭を当て、帰って行った。

その晩、ジンギスカーンは、ついにこの世を去った。臨終の際、最後の最後まで、

「英雄、英雄……」

とつぶやきながら。(第5巻 p.290)

全5巻の大長編。ハードカバー版で読んだ。引用もそこから。

大長編は頭から尻尾まで万遍なく面白いものと、話が進むににつれて尻上がりに面白くなっていくものの2種類があるけれど、本作は後者だと思う。1巻から3巻までは通常のペースで読んだのに対し、4巻と5巻はほぼ一気読みだった。尻上がり型の構成という意味では、『モンテ・クリスト伯』に近い読み味だったかもしれない。

武侠小説ということで、本作は武術の達人たちとの関わりがメインになっている。最初は弱かった郭靖も、様々な師匠に教えを乞うことで強くなっていくのだ。格闘シーンは専門用語(造語)の羅列で押し切る比較的シンプルなもので、この辺は現代の日本のラノベに通じるところがある(たとえば、山田風太郎忍法帖シリーズが機知に富んだ能力バトルなのに対し、本作はもっと単純な技芸勝負である)。敢えて描写を控えめにすることで、読み手にかかる負担を軽減しているというわけ。一方、特徴的なのがプロットの作り方で、郭靖が常に誰かと誰かの板挟みになって行動が制限されたり、誤解によってあらぬトラブルに巻き込まれたりするところは水戸黄門ばりだった。恋愛関係にしても、敵対関係にしても、万事がこれである。まさにお約束の世界。ただ、こう書くと似たような展開で飽きそうだと思われるけれど、そこは各プロットともに巧妙な論理でコンフリクトを解消していて、膝を打つことしきりだった。危機の作り方、そして、そこからの抜け出し方が巧みである。また、本作は広大な大陸のあちこちを舞台にしていて、古き良き冒険小説みたいな面白さもあった。

基本的には爽快な娯楽小説ではあるけれども、作中には様々な哲学が込められていてなかなか侮れない。人は誰もが死ぬのだから仇討ちに意味はあるのかとか。人を殺すための武術に価値はあるのかとか。人をたくさん殺した君主は英雄ではないとか。こういう倫理的な価値基準が作中に通底しているため、現代の読者でも違和感なく読むことができる。特に終盤のジンギスカーン批判が毛沢東批判になっているという訳者の指摘には目から鱗が落ちた。人殺しを英雄視することに疑義を呈するのは、墨子非攻に連なる考え方であり、本作には中国四千年の叡智が宿っている。

郭靖が融通の効かない朴訥なキャラであるところには賛否両論あるだろう。この部分はプロット作りの要ではあるにしても、その性格ゆえに物事が上手く進展しないところは読んでいてやきもきした。