海外文学読書録

書評と感想

李昂『夫殺し』(1983)

★★★

台湾の鹿城。豚の屠畜を生業とする陳江水が、妻の林市に斬殺された。林市は死体を八分に切断して遺棄しようとするも、隣家に見つかって逮捕されてしまう。物語はそこまでの経緯を語っていく。母親が死んで天涯孤独になった林市は、親戚によって陳江水の元に嫁がされた。彼女はそこで無理やり犯され、さらに虐待を受けることに……。

「まことに天が東南を照らさざれば、人は天理を行わず。わしに言わせれば、林市は福に恵まれながらそれを大事にせんかった。いいか、あれは豚殺しの陳の嫁となったが、舅姑もおらず、小舅に小姑もおらず、漁に出るではなし、田圃に出るではなし、働かずとも毎日おまんまにありつけたのじゃ。こんな運はそうそうたやすく授かるものではない。それを彼奴は大事にせず、こんな事件をしでかす始末よ。」(p.154)

台湾って電子機器メーカーの集う先進国というイメージだったけれど*1、一昔前はこんなに貧しかったのかと唖然とした。のっけから林市の母がにぎり飯ほしさに兵士に体を差し出しているのが鮮烈で、この世界ではシングルマザーになると食い扶持すら稼げなくなるようである。さらに、林市は林市で結婚してからは食うに困らなくなるものの、夫の逆鱗に触れることで食糧の供給を止められ、母と同様、飯の確保に苦労するようになる。この世界では、マズロー欲求段階説における低次の欲求すら満たせない。少なくとも、女性にとってはそうだ。自立して生きていくには、体を売るしかないようである。

本作ではいくつかイメージの重ね合わせが仕組まれていて、たとえば、屠殺による血飛沫と女性器からの出血、アヒルの雛を殺戮することで流れる血など、とにかく血のイメージが全編を覆っている。もちろん、林市が夫を殺害する際の血もこれに含まれるだろう。さらに、豚を屠畜する場面では豚が泣きわめくのだけど、これも林市が夫にレイプされるたびに泣きわめくのと対応している。これらが喚起するのは、日常に否応なく存在する暴力だろう。夫が妻を虐待するのは当たり前。俺が飯を食わしてやってるんだとばかりに威張り散らし、暴力・レイプ・虐待を躊躇いなく行っている。伝手のない林市には逃げ場がなく、追い詰められた結果が冒頭の夫殺しなのだった。これにはもう絶望するしかない。男性優位の社会で女性が生きるとはこういうことなのかと戦慄する。

本作を読んで思ったのは、女性にとって労働とは自らを救う行為であるということだ。男性に一方的に経済力を握られないために金を稼ぐ。そうすることで家庭内での地位を押し上げると同時に、いざとなったら自立できるよう手に職をつけておく。専業主婦のままでは夫に生殺与奪の権を握られてしまうのだ。女性の社会進出の裏にこのような生存戦略があったと知って、僕は自らの不明を恥じたのだった。日頃から専業主夫になりたいと言ってたのはホント間違いだったと思う。経済力をつけることは身を守るためにも重要だ。

なお、巻末には「台湾のフェミニズム文学」と題されたインタビューが掲載されている。これがなかなか興味深い内容で、本作の解説のほか、李昂の政治的立場にまで踏み込んでいる。個人的には、日本の植民地時代に対する見解が目を引いた。国民党独裁の元で育つとそうなるのかという感じ。なるほど、と思った。

*1:たとえば、マザーボードやメモリ、グラフィックボードといったPCのパーツは台湾製が市場を席巻している。PCを自作してる人にとってはお馴染みだろう。