海外文学読書録

書評と感想

マット・スパイサー『イングリット ―ネットストーカーの女―』(2017/米)

★★★

友人の結婚式に呼ばれなかったことに腹を立てたイングリット(オーブリー・プラザ)は、式に乱入して相手にスプレーを浴びせ、矯正施設に入れられる。出所後、Instagramで華やかな生活を公開していたテイラー(エリザベス・オルセン)のファンになり、彼女のアカウントをフォローする。イングリットはテイラーが住む西へ。黒人ダン(オシェア・ジャクソン・Jr)の家を借り、策略を使ってテイラーと知己になる。

ストーカーの闇については今更言うことがなくて、対象に近づく手段がネットに置き換わっただけと言える。ストーカーの本質はアナログ時代から変わってない。彼らは往々にして孤独で人生が充実していない。きつい言い方をすれば「負け犬」である。そういう人がたまたま目についた人に粘着して迷惑をかけているわけだ。本作の場合、対象がSNSの有名人だったため、おそらく栄光浴の意味もあったのだろう。華やかな生活に自分も関わりたい。SNSによって可視化されたユートピアに自分も浸りたい。根底にはリア充への憧れがある。

ただ、SNS――特にFacebookInstagram――でリア充ぶってる奴というのは、だいたいがセルフプロモーションの産物で、ネット上に映し出されているのはあくまで虚像である。彼らはリア充を演じているだけなのだ。「リア充とはかくあるべし」という型にはまったパリピ生活を何の疑問もなくなぞっている。そして、「いいね!」欲しさに写真を大量にアップしている。人から認められたい。華やかな生活を送りたい。その思いはストーカーも投稿者も変わらないのだ。本作はネットストーカーの闇よりも、投稿者の虚栄心を描いたところに価値がある。

ところで、哲学者のショーペンハウアーは『幸福について』【Amazon】のなかで、「人の社交性はその人の知性的な価値にほぼ反比例している」と断言し、幸福のために隠遁生活を勧めている*1

知的水準の高い人は、つまり孤独によって二重の利益を与えられる。一つは自分自身を相手としているという利益であり、もう一つは他人を相手としていないという利益である。およそ交際というものがどれほどの強制といざこざと、さてはどれほどの危険をさえ伴うものかをよく考えてみれば、この第二の利益は高く評価されることであろう。(……)社交によってわれわれの接触する人間の大多数は道徳的には悪人、知的には愚鈍かつ頭が狂っているから、社交は危険な、むしろ有害な傾向の一つである。非社交的な人間とはこうした社交を必要としない人である。(p.222)

僕は若い頃にこれを読んで大いに影響を受けた。つまり、リア充が至上の価値としているパリピ生活なんて時間の無駄なのだ。そのことに気づいて以来、僕は内面の充実に心血を注ぐようになり、社交よりも読書、社交よりもアニメという生活を送るようになった。おかげでどれだけ心身が健康になったことだろう。社会によって決められた価値をなぞらず、己を高めることに時間を費やす。僕は周囲からすれば陰キャに見えるだろうけど、たぶん人生という土俵の上では彼らに勝っている。僕からしたら、パリピこそが負け犬なのだ。

というわけで、FacebookInstagramは滅ぶべきである。

*1:僕が読んだのは新潮文庫の橋本文夫訳。古い翻訳なので、これから読む人には光文社古典新訳文庫鈴木芳子訳【Amazon】を勧めておく。