海外文学読書録

書評と感想

アレクサンドル・グリーン『波の上を駆ける女』(1928)

★★★

放浪者の「わたし」はリッスの街にたどり着き、当地で知り合った人たちとカードゲームをする。その最中、脳内に女の声で〈波の上を駆ける女〉という言葉が聞こえるのだった。ゲームを切り上げて外に出ると、海岸に帆船〈波の上を駆ける女〉号が停泊している。何とか客として船に乗り航海に出るも、無礼な船長とトラブルになり……。

遅かれはやかれ、老年あるいは人生の絶頂期において、成らざる夢がわれわれを呼ぶ。そしてわれわれは、その呼び声がどこから飛んできたのかをさがし、あたりを振りかえる。そのとき、自分の世界のただなかにありながら、われわれは人生にじっと目をこらし、全身全霊の力をかたむけて見とどけようと願うのだ。成らざる夢が成就しはじめるのではないか? その姿がはっきり見えはしないか? その見え隠れする微かな形を掴み、とり押えるために、いまこそ手をさしのべるときではないのか?

しかし時は過ぎてゆき、われわれは成らざる夢の霧深くそそりたつ岸のかたわらを、日常の詮索に明け暮れながら、浮かんでゆくのだ。(p.8)

幻想的な要素の入った冒険譚みたいな感じ。とにかく先の展開が読めないところが特徴だろう。岸壁で見かけた少女ビーチェ・セニエルは何者なのか? 「わたし」を導いた〈波の上を駆ける女〉とはどういう存在なのか? このように謎で読者の興味を引っ張りつつ、船長に代表される奇妙な人物を出して不穏な空気を作っている。圧巻なのは「わたし」が船から追放されてボートに放り出されるところで、ここで描かれる幻想的なシーンは絵になりそうだった。しかも、本作は幻想的な要素を入れながらも、ちゃんと辻褄合わせというか、背景の説明みたいなことをしていて、謎めいた人たちの来歴を明らかにしている。ビーチェ・セニエルは船長と関わりのある人物だったし、〈波の上を駆ける女〉はフレジー・グラントという名前で興味深い逸話があった。ついでに言えば、船長も曰くつきの過去を持っている。物語は濃い霧のなかを進んだけれど、終わってみればその霧も晴れていた。

途中で殺人事件が起きたときは、これからミステリが始まるのか、と胸を躍らせたものの、犯人があっさり自首して「おいおい」となった。人が殺されるとミステリを期待する癖どうにかしたい。しかも被害者は悪党だったから、アントニイ・バークリーっぽいのを想像していた。さらに、ビーチェ・セニエルの謎が解けた後に出来した事件なので、今度はこの謎で引っ張るのだろう、と予想までしていた。ただ、めくるめく推理はなかったものの、秩序の回復は成されたので、一定のカタルシスはあったかもしれない。こういうのは未解決が一番もやもやする。

「わたし」がある女性と結ばれたのは意外だった。てっきりメインヒロインと思しきあの少女と結ばれると思っていたので。それと、よくよく考えたら、本作で一番謎なのって「わたし」かもしれない。「わたし」は語り手でありながらも、自分の過去はほとんど明らかにしていない。どういう生い立ちをしてきたのか、なぜ仕送りをもらいながら旅をしているのか、背景がいまいち不明瞭である。彼が語っているのは、ほとんど今回経験したことだけだ。しかし、この胡乱な放浪者っぽいところが本作のいいところなのだろう。あまりがっちり設定を詰められると、それはそれで窮屈なので。語り手はある程度余白があったほうがいいのかもしれない。