海外文学読書録

書評と感想

クレイグ・ブリュワー『ブラック・スネーク・モーン』(2006/米)

★★★

アメリカ南部。元ブルースミュージシャンのラザレス(サミュエル・L・ジャクソン)は、弟に妻を寝取られて孤独に生活していた。そんな彼が、道端で傷を負って倒れていた若い白人女性を介抱する。彼女の名前はレイ(クリスティーナ・リッチ)。重度のセックス依存症だった。ラザレスはレイの治療をすべく、鎖で彼女の体を縛りつける。

ブルースのメロディに乗せたヒューマンドラマだけど、なかなか一筋縄ではいかないところがあって考えされた。

まず、セックス依存症を治すのになぜ鎖で縛ったのかが分からない。精神病院の身体拘束的な意味合いなのだろうか? そのままにしていたら自傷や他害をするから拘束する、みたいな。しかし、それでは依存症の根本的な解決にはならなくて、一時的にセックスの習慣が断たれるだけである。自由の身になったあと、また何かの拍子に依存するだろう。本気で治したいのなら、医者に連れて行って専門的な治療を受けさせるしかない。鎖で縛ったのはいったい何だったのか? という疑問が残る。

あるいは鎖をベタに捉えず、何かしらのメタファーとして理解すべきなのかもしれない。黒人男性が白人女性を鎖で縛って監禁する様子は、一見すると奴隷制の陰画のようである。周知の通り、かつては白人が黒人に対して同じことをしていた。一方、終盤ではレイの身につけている金色の鎖がポジティブに表象されるので、これは身を護る鎧のような意味も帯びている。この辺をどう解釈するかは一筋縄ではいかなくて、ネガティブ・ポジティブの両面が思い浮かぶ。

最初はラザレスのことをメサコンのダメ男だと思っていたけれど、話が進んでいくうちにきちんと「父親」の役割を果たしていて、これはお互いに欠けているものを補完し合う話なのだと理解した。つまり、ラザレスには子供がいないから、レイが子供役に。レイにはろくでなしの義父しかいないから、ラザレスが理想の父親役に。ラザレスもレイも魂の交流によって状況が好転。これから新たな人生へと旅立つところで物語は終わっている。

といっても、単純なハッピーエンドではない。レイと彼氏の前途に困難が待ち受けているのを示唆していて、通常のヒューマンドラマとは毛並みが異なっている。レイの彼氏は不安症で、これからもこの病気と付き合っていかなければならない。セックス依存症のレイに、不安症の彼氏。この2人は、今風に言えばメンヘラカップルなのだ。メンヘラの人生が破滅と隣合わせであることは言うまでもないだろう。健常者よりも生きる難易度は格段に高い。一抹の不安が言い知れぬ余韻を残している。