海外文学読書録

書評と感想

スティーブン・ザイリアン『ボビー・フィッシャーを探して』(1993/米)

★★★★

チェスでアメリカ人初の世界チャンピオンになったボビー・フィッシャーは、偉業を成し遂げた後に忽然と姿を消していた。一方、7歳の少年ジョシュ・ウェイツキン(マックス・ポメランク)は、公園で行われていた賭けチェスを見てチェスに魅了される。ジョシュはチェスクラブの指導者ブルース(ベン・キングスレー)にその才能を見込まれ、彼からコーチを受けることになる。

英才教育は難しいなあ、としみじみ思った。確かに天から与えられた才能を伸ばしてあげることは重要だけど、行きすぎると教育虐待になってしまう。僕が子供の頃、テレビでは「泣き虫愛ちゃん」が特集されていた。当時はまだ幼かった卓球少女の福原愛である。それで印象的だったのが、泣きわめく愛ちゃんに対して、親が「卓球やめるか?」と詰め寄るところだ。愛ちゃんはすぐさま首を横に振っていて、ああ、この子は親から愛情を得るために卓球をしてるんだな、と察して悲しくなった。今思えば、あれは教育虐待だったと思う。当時のテレビは野蛮だったので、虐待を感動ドラマとして流していたのだ。結果的に愛ちゃんは卓球で飯が食えるようになったから良かったものの、もし途中で挫折していたらどんな人生になっていたことか……。

本作のジョシュも、途中までは父親とコーチから虐待まがいの指導を受ける。父親は試合に負けたジョシュに厳しい説教をしているし、コーチは「ゲーム相手を憎め」だとか「自分の教えることだけをしろ」だとか強権的な指導をしている。大人のなかで唯一まともなのが母親で、彼女のバランス感覚によって何とか持ち直すのだった。人間の悪いところは、他人の人生に入れ込んでしまうところで、その結果、視野狭窄に陥って相手の心を踏みにじってしまう。特に今回はその相手が7歳の子供だから深刻だ。いくら大人顔負けの才能があるとはいえ、本来だったら壊れものを扱うように注意しなければならない。本作を観て、英才教育の難しさを思い知った。

日本には将棋があるから、チェスとつい比べてしまう。両者は大きく文化が違っていて、たとえば、将棋が定跡・手筋・詰将棋をすべて自分で勉強するのに対し、チェスはコーチにマンツーマンで教えてもらう。また、将棋の場合、プロになるには奨励会に入ってリーグ戦を勝ち抜ける必要があるのに対し、チェスにはそういうシステムがない。本作を観る限り、大会に出てレーティングを上げるくらいしかすることがないようだ。そしてこれは偏見だけど、日本ではプロ棋士羽生善治が趣味でチェスをしていて、しかもグランドマスターに勝利しているので、チェスは余技というイメージがある。率直に言って、チェスは将棋よりも格下という印象が強い。だから、「チェスは一生をかけた学問、ひいては芸術である」と言われても、「いや、それは将棋のほうがふさわしいだろう」と反発してしまう。偏見とは実に厄介だ。

本作を観て分かったけど、チェスは駒の形が立体的で見栄えがするので、映像化と非常に相性がいい。公園の青空チェスにしても、屋内の正式な大会にしても、駒を動かす様子はどこか観客を魅了する。これが将棋や囲碁だったら、また一味違っていただろう。そのことが分かっただけでも収穫だった。