海外文学読書録

書評と感想

スコット・フィッツジェラルド『ある作家の夕刻―フィッツジェラルド後期作品集』(2019)

★★★

日本オリジナル編集の短編&エッセイ集。短編が、「異国の旅人」、「ひとの犯す過ち」、「クレイジー・サンデー」、「風の中の家族」、「ある作家の午後」、「アルコールに溺れて」、「フィネガンの借金」、「失われた十年」の8編。エッセイが、「私の失われた都市」、「壊れる」、「貼り合わせる」、「取り扱い注意」、「若き日の成功」の5編。

その歌声はジョエルの耳にはぼんやりとしか届かなかった。彼はそこにいるすべての人々に対して、幸福で友好的な気持ちを抱いた。勇猛にして勤勉な人々だ。この十年間というもの娯楽の慰めのみを求めてきた国家にあって、比類なく高い地位にまで上り詰めた人々である。有産階級の人々ほど無知でもなく、生活ぶりも乱れてはいない。彼はそのような人々に好意を――いや、愛をさえ抱いた。温かい感情の大波が彼の体内を流れた。(pp.111-112)

フィッツジェラルドって長編よりも短編のほうが面白いかも。あらすじからこぼれ落ちる細部の煌めきこそが、彼の持ち味だと思う。

以下、各短編について。

「異国の旅人」(1930)

ネルソンとニコルの若いアメリカ人夫妻が、世界各地を旅して様々な人たちと出会う。そして、ささやかなトラブルを起こす。

本作の冒頭を読んだら、フィッツジェラルドが天才作家であることがよく分かると思う。いなごによって真っ暗になったサハラ砂漠の空。そこから旅行者たちのお喋りに移行する。この辺りの描写が実に天才的だ。

ところで、旅先で色々な国籍の人たちががやがやしてるのって、まるでアガサ・クリスティーの小説世界みたい。昔はこういうのが一般的だったのかな。旅人たちのコミュニケーション。アメリカ人=図々しいという図式は、当のアメリカ人も意識していたようで可笑しかった。特にイギリス人との対比で際立っている。

「ひとの犯す過ち」(1930)

若くして演劇のプロデューサーとして成功したビルは、女優のアイリーンと婚約していた。ところが、2人はお互いに飽いており、関係は終局に近づいている。ビルは若きダンサーのエミーと電撃結婚し、子供を1人もうける。

ショービジネスの世界は浮き沈みが激しいから残酷だよな。で、それゆえに数々の天才たちが身持ちを崩して駄目になる。ビルは度し難い自惚れ屋であるものの、天才ゆえに見る目はあって、ちゃんとエミーの才能を認めていた。こっちが下がればあっちが上がる。2人の関係って、『ラ・ラ・ランド』カップルに似てるかもしれない。

「クレイジー・サンデー」(1932)

脚本家として売り出し中のジョエルが、人前で自作をプレゼンして失敗する。一方、映画監督のマイルズは妻のステラと関係がぎくしゃくしていた。ジョエルはステラの相談役になる。

ハリウッドは自分の才能だけを頼りに一攫千金を狙う場所であり、まるでフリーメーソンみたいな独自の社交界ができている。こういうのって日本だと何に相当するだろう? 相撲や将棋だろうか? どちらかというと、男芸者と言われる前者の世界が近いかも。いずれにせよ、アメリカにしか存在しない特異な空間だと思う。

ステラは精神科医に掛かるくらい病んでるし、終盤ではある出来事がきっかけで錯乱する。人が病むのって、主に人間関係が原因なのだなあと思った。さらに始末が悪いことに、病人は救いを別の人間関係に求める。我々は関係の蜘蛛の巣から自由になれない。

「風の中の家族」(1932)

アラバマ州。アル中の医師が、頭に弾丸を食らった男の手術を頼まれる。しかし、その男はかつて女を餓死させており、医師はそのことを嫌って手術を断った。その後、町に竜巻がやってくる。

終わってみれば再生の物語なのだけど、竜巻が重要な役割を果たすのは予想外だった。それと、40代半ばで人生をやり直すというシチュエーションは、日本で炎上した「人生再設計第一世代」を思い出す。うーん、災害と人生再設計かあ……。

相変わらず、あらすじに入らない細部が光っていて、少女と猫のエピソードが印象に残る。作品にアクセントを加えるイノセンス

「ある作家の午後」(1936)

仕事に行き詰まった作家が、気分転換に外出する。バスに乗って床屋へ。

「成功を収めた作家」という過去形のもの言いが何とも言えない。そこには転落の余地を含んでいる。どんな職業でも成功し続けるのは難しい。特に作家みたいな人気商売だと旬があるから尚更。誰も彼もがスティーヴン・キングになれるわけじゃない。

外出から帰ってきたとき、メイド相手に軽妙な嘘をつくのがいい。かくして日常は続いていく。

「アルコールに溺れて」(1937)

アル中の患者を看る看護婦の話。

アルコールにしても麻薬にしても、依存症は救いようがねーな。昔はアディクションといったらこの2つとせいぜいギャンブル依存症しかなかったけど、今はゲーム障害やら何やらが加わって、賑やかになってきた。時代によって人々の困難は変わる。そのうちゲーム障害を扱った小説が出てくるのかと思うと楽しみである。

「フィネガンの借金」(1938)

作家のフィネガンはスランプに陥っていて金を必要としていた。彼は文芸エージェントにたびたび金の無心をしている。

何でフィネガンがこうも借金できるのかと言ったら、その才能が信頼されてるからだろう。そういえば、アメリカではどれだけ借金できるかがその人のステータスになっている、と聞いた。返済能力を見込まれてるから相手も貸してくれるってわけ。僕みたいな凡人には縁遠い世界だ。

この短編は比喩表現が村上春樹っぽかった。いくぶん奇抜でユーモアが感じられる。

失われた十年」(1939)

トリンブル氏は長い間よそにいたという。彼は何をしていたのか?

10年間無為に過ごしても許されるなんておおらかな世界だよな。これが日本だったら、「ひきこもりだ!」と後ろ指を差されて強制的に働かされる。