海外文学読書録

書評と感想

ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』(1978)

★★★★

短編集。「巨大なラジオ」、「ああ、夢破れし街よ」、「サットン・プレイス物語」、「トーチソング」、「バベルの塔のクランシー」、「治癒」、「引っ越し日」、「シェイディー・ヒルの泥棒」、「林檎の虫の虫」、「カントリー・ハズバンド」、「真紅の引っ越しトラック」、「再会」、「愛の幾何学」、「泳ぐ人」、「林檎の世界」、「パーシー」、「四番目の警報」、「ぼくの弟」、「何が起こったか?」、「なぜ私は短編小説を書くのか?」の20編。

「そしてすべての平和な鳩小屋はまがい物です」とクレイトンは言った。「人々が自らの人生をがらくたで埋めている、そのやり方。ぼくはそのことについてずいぶん考えてきました。そしてシェイディー・ヒルにとって本当にまずいのは、そこには未来がないように思えることです。その場所を無疵のものとするために、あまりに多くのエネルギーが費やされています。好ましくないものを排除するとか、そういうことです。みんなが抱いている未来の姿といえば、もっともっと通勤電車に乗ってもっとたくさんパーティーを開いて、というようなことでしかありません。それが健康的なことだとはぼくには思えません。人は未来についてもっと豊かな夢を夢見るべきです。大きな夢を心に抱けるというのが大事なことです」(p.210)

『The Stories of John Cheever』【Amazon】に収められた61編から、短編小説を18編、エッセイを2本選んで収録している。原書は1979年にピュリッツァー賞と全米批評家協会賞を受賞。

以下、各短編について。

「巨大なラジオ」(1947)

アパートの12階に住む中産階級の夫婦。新しく買ったラジオは醜悪なデザインだったうえ、周囲の電気に影響されて雑音を拾っていた。その後、業者に修理してもらうも、今度は人の声が聞こえるようになる。

ラジオが盗聴器みたいになって、様々な家庭のお喋りなり口論なりが聞こえてくる。妻はそれを聞いて病んでしまい、結局はまた修理してもらうのだけど、今度は幸せだった自分の家庭がラジオ越しに聞いた他所の家庭と変わらないようになってしまう。どの家庭もそれなりに問題を含んでいて、自分のところも例外ではなかったというわけだ。これって星新一みたいな皮肉の効いた話だと思う。彼のショートショートを肉付けしたらこうなるだろう。

「ああ、夢破れし街よ」(1948)

劇作家志望の男がプロデューサーに認められて、インディアナ州から家族を連れてニューヨークにやってくる。作家として成功して大金が手に入るかと思いきや、物事は順調に運ばないのだった。

アメリカン・ドリームという言葉があるけど、人生そう都合良くはいかない。妻のアリスはパーティーで歌唱の最後に演出のつもりで床に倒れ込むし、夫のエヴァーツは初対面の女性をなぜかリフトアップしているし、ちょっとこの人たちのやっていることがおかしい。田舎VS都会とはまた一味違った奇妙さである。

終盤になって劇のモデルになった女性が名誉毀損で訴えようとしているのには笑った。いかにもアメリカらしい顛末である。これぞアメリカ仕草。

「サットン・プレイス物語」(1946)

中産階級のテニソン夫妻にはデボラという3歳の娘がいて、彼女は乳母に面倒を見てもらっていた。乳母は元々裕福な家庭の夫人だったが、夫が財産を残さずに死んだので、仕方なく乳母に甘んじている。そんななか、家族の前にルネという35歳の女優が現れる。ルネとデボラは仲良くなるが……。

乳母もルネもそれぞれ満足のいく人生を送っているわけでない。そんな2人がある種の共犯関係を結ぶのだけど、それに綻びが出る。すなわち、デボラが行方不明になる。これを契機にテニソン夫人の闇も明らかになって、持てる者も持たざる者も順風満帆な人生を送っていないことが分かる。こういうのを読むと、田舎のしがないレッドネックのほうがまだ満たされてるんじゃないかと思う。

「トーチソング」(1947)

ニューヨークで知り合ったジャックとジョーンは、出身地が同じで年齢もだいたい同じ。2人は性別を越えてある種の友情を育んできた。ジャックとジョーンはそれぞれ別の人生を歩みながら、要所要所で関わっていく。

ジョーンはいわゆる「だめんず・うぉーかー」って奴で、交際している男たちから暴力を振るわれたり、財産を持ち逃げされたりしている。これならいっそのことジャックと結ばれたほうがいいのではと思っていたら、その裏にとんでもないカラクリが潜んでいた。ジョーンが死神みたいに感じられるラストが怖い。まるでホラー小説。

バベルの塔のクランシー」(1951)

ニューカッスルの農場出身のクランシーが、マンハッタンの高級アパートでエレベーター係をすることに。そこの住人であるロワントゥリー氏にいらぬ口出しをし、2人は知人として関わるようになる。

現代日本ではLGBTがブームになっているからつい忘れてしまうけど、昔は同性愛者が変態扱いされていたのだった。僕が子供の頃ですらそうだったので、本作が書かれた1950年代はもっと酷かったのだろう。クランシーが職責を投げ出してロワントゥリー氏とその恋人を拒否したのにはぶったまげた。社会の病根を見たような気がする。でも、クランシーの愚直な性格は嫌いじゃない。

「治癒」(1952)

ニューヨーク郊外の住宅地に住む「私」。口論のすえ、妻が子供たちを連れて家を出ていってしまった。「私」は最初の1ヶ月を治癒期間だと決めてスケジュールを設定する。ところが、夜中に林語堂の本を読んでいると、何者かがこちらを覗き見していた。

人は孤独になったとき、どうすれば癒やされるのだろう。今ならSNSがあるけれど、ネットのなかった時代はどうしていたのか。そんなことを考えながら読んでいたら、覗き屋が出てきて話が大きく動いた。どうやら近所の人らしい。でも僕はこれ、幻覚だと思うんだよね。孤独が生んだ幻覚。他の人はどう解釈したかな。

「引っ越し日」(1953)

マンハッタンの高級アパートで管理人をしているチェスター・クーリッジ。今日は住人の引越し日だったが、業者のトラックが予定通りに来なくて荷物が運び出せない。さらに、ポンプをコントロールするスイッチが壊れ、水回りに不安が出てくる。

目まぐるしいお仕事小説であると同時に、今いる階級から下の階級に落ちてしまう住人の悲哀を描いた物語でもある。かつて日本は一億総中流社会と呼ばれていた。けれども、ある時期から勝ち組と負け組に分かれるようになったので、没落の悲哀を味わった人ってけっこういると思う。日本文学にもこういう小説あるかな? ヒルズ族から転落したIT成金の話とか……。

「シェイディー・ヒルの泥棒」(1956)

郊外の高級住宅地シェイディー・ヒル。そこに住む妻子持ちのジョニー・ヘイクが、近所の人の財布を盗む。その後、彼は妻に文句を言われて家を出ることになる。

アメリカの高級住宅地は映画でしか見たことがないけど、恐ろしいほど画一的で何か気持ち悪いなあと思った。日本の新興住宅地ともまた一味違う。なぜ同じ間取りの家を何軒も建てるのか不思議でならない。

ヘイクが裕福の定義を「時間の余裕があること」としているのはその通りだと思った。「貧乏暇なし」や「時は金なり」という言葉があるくらいだからね。いくら金があっても医者みたいに忙しかったら意味がない。本を読んで、アニメを見て、ゲームをする。そういったゆとりがあってこその人生だと思う。

「林檎の虫の虫」(1956-1957?)

「シェイディー・ヒルの泥棒」のために書き下ろされたスケッチ。

「カントリー・ハズバンド」(1954)

飛行機事故に巻き込まれる導入部と、その後に続く家庭内のごちゃごちゃした状況が面白くて引き込まれた。郊外に住む中産階級の病理というか退廃というか、とにかくそういうネガティブな面を描くのが20世紀アメリカ文学のひとつの伝統になっているけど、まさか50年代から既に題材にされていたとは驚いた。ジョン・アップダイクが気に入るのも頷ける。思うに、高級住宅地の問題は多様性がないところかもしれない。日本もよく均質的な社会だと批判されるけど、同じ問題がここにはある。

「真紅の引っ越しトラック」(1959)

最初は悪酔いするジージーに対して不快感しかなかったけど、後半に入ってからはそんな彼が哀れに思えるから不思議だ。人間って結局、人付き合いしないと生きていけないから、そういうのからこぼれ落ちてしまう人はどうすればいいのだろうって話になる。妻のピーチズはよく別れないでいるよなあ。ジージーは完全に孤独ではないだけマシだと言える。

トラブルを起こすたびに引っ越しをするところは、まさに人間関係の焼畑農業といった感じで、SNS時代の現代に通じるものがある。僕もネット上では3年周期で付き合う人間が変わるからね。それくらい割り切らないとストレスで爆発してしまう。

「再会」(1962)

ショートショートみたいな短さだけど、父親のキャラが立っていてついニヤけてしまった。行く先々でユーモラスな言動をしては店から閉め出されることになる。日本だったら多少の無礼を働いても客として遇されるけど、アメリカはその辺がシビアだよな。むしろ売り手のほうが優位にすら思える。

「愛の幾何学」(1966)

夫は計算尺幾何学で人生の諸問題に向き合っているし、妻は捉えどころのない不条理な性格をしているし、これは何とも不思議な短編だった。夫が死ぬラストは意外なようで、わりとしっくりくるというか、もうここまで来たら何でもありだなと思う。

「泳ぐ人」(1964)

邸宅用のプールはいわば富の象徴で、それらを次々と回って目的地まで泳いで横断していくところは、高級住宅地ならではという感じがする。この短編を映像化するとしたら、冒頭に空撮のショットを入れるだろうね。ここにはプールがたくさんあるってことをひと目で分からせる。それにしても、空っぽの家に帰るラストは何かせつない。

「林檎の世界」(1966)

主人公の桂冠詩人村上春樹と重ねてしまって、彼はどういう気持ちでこれを翻訳したのだろうと邪推しながら読んでしまった。詩人はあらゆる名誉を受けながらもノーベル文学賞だけは受賞してない。もちろん、賞を欲しいと思っている。名誉の重さから言えば芥川賞の比じゃないから、村上だって絶対に受賞したいだろう。

本作は情景描写が良かった。家族の前で空中に散弾銃をぶっ放す父親が印象に残っている。さらに、滝の中に入ってから生まれ変わるラストも素晴らしかった。

「パーシー」(1968)

母親は絵画、息子は音楽と、芸術家小説の風味があるけれど、僕は読んでいて『女の一生』を連想した。どんなに才能があって高い教育を受けても、人生は思い通りにならない。医者と結婚しても、神童が産まれても、人生は思い通りにならない。

「四番目の警報」(1970)

妻が「全裸演劇に出たい」と言ってきたら夫はどう反応すべきなのだろう? しかも本作の場合、その劇がフィクション用にやや誇張されていて、おいおいそりゃないだろうってレベルになっている。

自分はここにいるべきではない、という場違いな感覚は僕もしょっちゅう経験しているので、終盤は身につまされるものがあった。

「ぼくの弟」(1951)

アメリカ文学お得意の家族もの。兄弟がそれぞれ家族を引き連れて集まるのってかなり気を使うよね。語り手の弟ローレンスが問題児扱いされているけど、彼がまた僕に似たいやーな性格をしていて、終始その肩を持つことになった。いや、だって、これくらい自我がなかったら生きている意味がないでしょう。僕からしたら自分の規範を押し付ける母親はヒステリーすぎるし、ムカつくからといって暴力を振るう兄は論外である。

「何が起こったか?」

エッセイ。「ぼくの弟」の創作秘話。

私は清教徒的な家族のもとに育った。子供の頃、すべての人の行為の根底にはモラルが潜んでいるし、モラルとは人間にとって常に有害なものだと教えられてきた。(p.353)

上の文章の意味がよく分からなかった。清教徒にとってモラルは有害なの?

「なぜ私は短編小説を書くのか?」(1978)

エッセイ。短編小説について。

長編小説はたしかに立派なものだが、そこではたとえちらりとではあっても、審美性と道徳適合性との間の神秘的連結を保つ「古典的統一性」に目配せすることを求められる。しかしそのような頑固に維持される古風さのせいで、我々の今の生活の持つ新奇さがそこから排除されるとすれば、それは残念なことである。(p.359)

僕が短編小説に求めてるものって何だろう? キレの良さだったり、鋭さだったりするのかな。あと、必要最小限のルートを辿るシンプルさとか。自分でもよく分かってないので、次回までの宿題にしておこう。