海外文学読書録

書評と感想

ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(2011)

★★★★

20世紀初頭。下は12歳から上は37歳の娘たちが、写真でしか知らない結婚相手を頼りに日本から船でアメリカに向かう。彼女たちは来るべき新生活に夢を見ていたが、現実は過酷な労働と人種差別が待っていた。やがて子供を産み育てる女たち。ところが、日米開戦によってみんな収容所送りにされてしまう。

ひとつ、またひとつと、わたしたちが教えたかつての言葉は子どもらの頭から消え始めた。子どもらは日本語の花の名前を忘れてしまった。色の名前を忘れてしまった。お稲荷さんや雷さまや貧乏神の名前を忘れてしまった。貧乏神は、わたしたちがけっしてその手から逃れられない神様だ。この国でどれだけ長く暮らそうと、あたしたちは土地を買わせてはもらえない。子どもらは、河川を守ってくれて、わたしたちに井戸をきれいにしておくことを求める水の女神、水神の名前を忘れてしまった。雪あかりやスズムシ、夜逃げといった言葉を忘れてしまった。夜も昼もわたしたちを見守ってくれる死んだご先祖様のお仏壇でなんと言うのか、忘れてしまった。数え方を忘れてしまった。お祈りの作法を忘れてしまった。子どもらは今では日々新しい言葉で生活している、あの二十六の文字はいまだにわたしたちの頭に入らない。もう何年もアメリカで暮らしているのに。(p.87)

日系移民がどれほど苦労したのか。その理不尽な物語に引き込まれたけれど、何より「わたしたち」という一人称の絶妙な距離感が素晴らしかった。これは個人の物語ではない。時折、個人にスポットを当てるものの、彼女たちの名前はさして重要ではなく、あくまで「わたしたち」の一部である。日本各地から集まってきた「わたしたち」。夫に処女を奪われる「わたしたち」。過酷な労働に従事する「わたしたち」。この集合的な存在感はおとぎ話のようでもあるし、文章の不思議な浮遊感は散文詩のようでもある。豊穣な物語を味わいつつ、詩的な表現も味わえる。本作は一粒で二度おいしい小説と言えるだろう。

持たざる者は他人にこき使われ、奴隷のように働くはめになる。これが古今東西変わらぬ人間社会の本質というやつだ。特に移民とはその国の最下層民になることで、周囲から理不尽な差別を受けながら、ただ黙々と働かされる。とっくの昔に制度としての奴隷制度はなくなったものの、資本を背景にした実質的な奴隷制度はまだまだ健在だ。これは現代日本でも例外ではない。外国人技能実習制度によって日本に渡ってきた外国人は、パワハラやセクハラ、賃金未払いなど、数々の人権侵害に直面している。外国人が「安い労働力」と見なされているのは、今も昔も、そしてどの国でも変わらないのだ。100年前だったら尚更その度合いは強く、アメリカでの「わたしたち」の暮らしぶりは読んでいてつらいものがある。

日米開戦によって日系人が収容所に送られた事実を鑑みると、アメリカとは集団ヒステリーの国ではないかと思う。戦後には赤狩りがあったし、現代においても移民排斥の風潮が蔓延している。そもそもこの国では、つい150年前まで黒人を奴隷として使役していたのだった。ただ不思議なのは、そんな不寛容な国でポリティカル・コレクトネス(PC)が生まれたことである。今でこそPCは独善的な権力として濫用され問題になっているけど、その理念自体は素晴らしいものだ。日本の集団主義的な社会からは絶対に生まれない思想である。そう考えると、アメリカというのは意外と懐の深い国なのかもしれない。行き過ぎてしまうという欠点はあるけれど。